『脱学校の社会』を読む⑤ 第四章103〜123

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『脱学校の社会』第4章 制度スペクトル

キーワード:操作的制度、「相互親和的」制度(convivial institution)、偽りの公益事業

●操作的制度と「相互親和的」制度(convivial institution)とは?

操作的制度:「現代をまさに特徴づけるものであって、ほとんど現代を定義してしまう」(104頁)「圧倒的に有力なタイプ」(同)
→具体例:「法律を執行する制度(…)制度スペクトルの右のほうに移ってきた」(105頁)、「現代の戦争」(106頁)
「顧客の操作を専門とする社会制度」(106):「軍隊と同じように、それらはその作戦範囲が広がるにつれて、その意図とは反対に影響を拡大する傾向がある」(同)
→顧客に対し、意図的にサービスを買わせる仕組みである。
「高度に複雑で経費のかかる生産過程となる傾向がある。そしてその過程の中では、その制度の努力と支出の大部分は消費者に、その制度が彼らに提供する製品または世話なしには彼らは生きていけないと信じ込ませることに向けられる」(108〜109)
「人々がそれを利用すると、その利用に関して社会的または心理的に「中毒」に陥らせる性質をもつ。社会的中毒というのは、換言すれば規模拡大(エスカレーション)であり、少量の使用が目的とした結果を生じない場合、その処置量の増量を処方する傾向にほかならない。心理的中毒ということは、換言すれば習慣化することであり、それは消費者が生産過程や生産物をもっともっと必要とするようにさせられたことの結果なのである」(109)
「公衆の趣味の操作」(111)「操作する(プロデュース)」(113)

「相互親和的」制度:「比較的控え目」(105頁)、「前のタイプよりも人目をひくことのないもの」(同)、「私はこれらをより望ましい将来のためのモデルとする」(同)、「制度スペクトルの一番左におくことにした」(同)
「利用者が自発的に使用することが特徴となる制度、すなわち『相互親和的』制度」(107)
「電話交換所、地下鉄網、郵便事業、公営市場や取引所は、顧客にそれらを使用するように勧誘するための売り込みを全然必要としない。下水道や上水道施設、公園および歩道は、それを利用することが自分の利益になるのだと制度的に説得される必要なしに人々が使用する制度である」(同)
「使用されるための制度を運営する規則は、その制度が誰にでも利用しやすくなっていることの裏をかくような濫用をさけることを主たる目的としている」(108)
「現在、われわれにはコンピュータによって電話が濫用されることを禁止する法律や、広告業者による郵便の濫用と工業廃水による下水道施設の汚染を防止する法律が必要である」(同)
「相互親和的制度の規則は、その制度の利用をある程度制限するものである」(同)
「顧客のイニシアティヴで行われるコミュニケーションや努力を便利にするネットワークとなる傾向がある」(109)
「左側の自己活動的制度は、同時に自己限定的でもある。これらのネットワークは、単に消費の行為を満足と同一視する生産過程とは異なり、それを反復して利用すること以上の目的に役立つのである」(109)

→各種の制度を考える際、この二つの制度をそれぞれの右端・左端におくと、対象の制度がどのような特徴を持つのかつかみやすくなる(本文より)。
→なお、スペクトルについてwikipediaでは次のように説明している。
【 その他のスペクトル
政治学では、イデオロギー分布に基づいて諸政治勢力(政党が中心だが、議会外野党や反体制組織まで範囲を拡大する場合もある)を配置した模式図、ないし配列そのものを政治的スペクトル(political spectrum)として、分析ツールの一つとして用いている。一般には、左に左翼勢力を持ってくる。対象は、一般的な政党や各国の具体的な政党など、自由に設定でき、特定の政党内部での派閥の配置を表現することも可能である】
→「一般に左から右へ移動するこのようなスペクトルは、今までに人々やそのイデオロギーの特徴を示すためには用いられてきたが、社会全体やその様式の特徴を説明するために用いられることはなかった」(105頁)
→「制度スペクトルの相互親和的な端から操作的な端に移動するにつれて、そこでの規則は、しだいに、人々の意に反した消費または意思に反した参加を要求するものとなってくる」(108)
→「十代の若者を除けば、受話器に向かって話すことの喜びのために電話を使用することはないであろう。もしも他人に連絡をとるのに電話が最善の方法でなければ、人々は手紙を書くなり、出向くなりするであろう。これに対して右側にある制度は、学校の場合にはっきりするように、強迫観念的に繰り返し用いることをさせるとともに、同じ目的を達成するためのほかの方法を阻害するのである」(109)

「スペクトルの真中」(110):「繊維やたいていの破損しやすい消費材の生産者」(同)

偽りの公共事業

●高速道路は「右側の制度に直接通じるものがある」(112)。「われわれは高速道路の性質と真の公益事業の性質とを明確に区別しなければならない」(同)
→「高速道路は私的な分野でありながら、そのコストの一部分がひそかに公共部門から支出されているものなのである」(同)
「高速道路網は主として自家用車のアクセサリーとして役立つのである」(113)

●「貧しい国に移植された「近代的」な科学技術は、三つの大きなカテゴリーに分けられる。それらは、製品、製品をつくる工場、およびサービスを提供する制度である。サービスを提供する制度ーその制度の中の主要なものは学校であるーによって人々は近代的な生産者と消費者に変えられてしまう」(115)
「すべての「偽りの公益事業」の中で、学校は最も陰険である」「学校はスペクトルの右端に群がる一群の近代的制度全体を創り出すのである」(116)

偽りの公益事業としての学校

●「偽りの公益事業」高速道路を基にし、さらにタチのわるい「偽りの公益事業」学校を批判する。
●「高速道路と同じように、学校は初め見たときにはすべての人に対して平等に開放されているような印象を与える。実際は、学校はたえず信任状を更新する者に対してのみ開放されているのである。学校は近代的な科学技術を使用する社会において、必要な能力を身につけるために不可欠なものと考えられている」(116)
●「学校もまた同様に、学習はカリキュラムを教えられることの結果だとする見せかけの仮定に基づいている」(同)
「学校は、人々の成長し学習しようとする自然な傾向を、教授されることに対する需要に転換するのである。他人によって成長させてもらおうとすることは、製造された商品を求めることよりももっとよけいに自発的活動の意欲を放棄させる」(117)
「学校は人々に自らの力で成長することに対する責任を放棄させることによって、多くの人々に一種の精神的自殺をさせるのである」(同)
→ある意味、イリイチの主張はスローライフ運動に近い。
「学校は、完全な逆新税のシステムであり、そこでは特権を与えられた卒業生が、税金を納める全公衆の背に乗っている」(同)
高速道路との違いについて。「誰も自動車を運転することを法律で強制されないが、学校に通うことはすべての人が法律で義務づけられているのである」(同)
→本来の公益事業は相互親和的制度であるべきだ、というのがイリイチの主張である。イリイチは「偽りの公益事業」として高速道路を批判する。高速道路を作るのには国民の税金が使われている。けれどここを利用できるのは車を持っていて、ある程度お金のある人だけである。車を持っていない人は、自分のお金で作られた道路であるにもかかわらず利用できないのである(友人は「スーパーで新鮮な野菜や魚が食べられるのは高速道路を使いトラックを走らせているからなのだから、恩恵を受けていると言えるのではないか」といっていた)。
 高速道路同様、学校も人々の税金で作られている。けれど学校に入って勉強するのにはお金がかかる。ただでさえ税金で給料がひかれるだけでなく、自分の金で作られた学校でありながら、貧しいと行くことができない。

●「人々は学校による教育だけを教育と誤解し、医療サービスを健康と、予定表を忠実に実行することをもてなしと、およびスピードのあることを効果的な移動と混同するようになる」(121)
●「制度によって与えられるサービスを増やすことではなく、むしろ人々に活動すること、参加すること、および自分の力でやることを絶えず教育する制度的枠組みなのである」(122)
「われわれはサービスを提供する制度ーなかでも教育を提供する制度ーを若返らせることから始めなければならない」(同)

まとめ
●「操作的制度」とは人々を受け身にさせる制度のことである。対して「相互親和的制度」とは人々の自発性を重視した制度である。別に不必要なら使わなくてもいい。けれど、万人に開かれているという制度である。

雑感
●イリイチは同じことを何度も形を変えて説明する。学校によって本来の学びが無くなってしまうということを、「価値の制度化」や「制度スペクトル」などの概念を用いて説明し直しているだけなのだ。改めて『脱学校の社会』を読み直して気づいた。
●イリイチのいうように(義務制の)学校を廃止するとどうなるだろうか? 一気になくすと、様々な混乱が起こることは確かだ。教員の生活は? 塾産業は? 教科書会社はどうする? 子どもはどうやって学ぶのか?えとせとらetc。脱学校に対する批判はこの「急激になくした」ときに発せられるものが多い気がする。けれど、漸進的に学校をなくしていくならどうであろうか。学校のダウンサイジングから始めていき、塾産業や民間の学び舎が育っていくのを待つ。人々の教育への意識や共同体意識の熟成を待つ。徐々に学校を減らすならばそれほど混乱もなく移行できるであろう。イリイチの主張をすこしアレンジして、現在のフリースクールのように「行きたい人は学校へいってもいいし、フリースクールに来てもいい」スタンスにしておくとなお良いだろう。大事なのは脱学校を行うことがいくら正しかったとしても、移行期間中に子どもにデメリットを生じさせないよう考慮していくことである。

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コメント

  1. 小中春人 より:

    おつかれさまです。

    イリッチとか読むと反体制派みたいな頭になってきて、ちょっとバランス悪い最近です。

    学校をダウンサイジング的になくしていく、この点は重要かもしれないね。

    そこでさらに大事なのは、自分が思うところでミニマムエッセンシャルというか最低限の教えるべき項目を決めなくてはいけないことだと思います。
    カリキュラムがスリム化し、簡素化して、これを私塾が確実に教え、そのほかは各自の自由でカリキュラムを作ることができれば、各校の独自性を保ちつつ、最低限の学力を担保できるのではないかと思います・

    今の体制で考えるには、やはり、前から言っているように、公立学校を半日ぐらいにして、午後の残りの時間を教育クレジットに応じた個人の選択にもとづく学習にあてる、というものが実現性が高いのではと思います。

  2. 学校のスリム化と言いますと、上野千鶴子の『サヨナラ、学校化社会』を思い起こします。

    〈知育・徳育・体育などといわず、学校は分相応に知育だけをやればよい。学校的価値を分相応に学校空間に閉じこめて、その価値は多様な価値の一つにすぎないという異なるメッセージを、制度的に保障していく仕組みをつくるべきだと思います。
     それは多元的な価値をつくり出すことです。学校ではない空間―「共」の空間を生み出すことにつながります。「共」もしくは「協」の空間とは、パブリックでもなくプライベートでもなく、コモンな空間のことをいいます。子どもたちには、家庭でも学校でもない、コモンの場が必要です〉(116頁)

     上野は、このようにしていくことで価値の多元化を図ることができる、と主張します。〈こちらがダメならあちらがあるさ、あちらがダメならこちらがあるさ、という生存戦略〉(117頁)との意です。

     学校のスリム化により、学校では絶対に図らなくなる価値が出てくる。そうなると、逆に学校以外によって図られる価値が、学校によって図られるもの同様に重視されることになる。上野はこう主張します。

     スリム化した学校は、塾やフリースクールで代替可能かもしれません。けれど問題になるのは、スリム化しようとしてもできないオルタナティブスクールの類いです。
     シュタイナー学校は、知・徳・体すべてを重視します。知情意すべてを重視する、と言い換えることも出来ましょうか。「知育のみのミニマムエッセンシャル」など、シュタイナー学校では実践できないのです。人智学が示すように、シュタイナー学校は人間に対し半ば宗教的/オカルト的な関わり方をするのですから(今の人間はずっと過去の人間から4回進化したからこそ、意識を持つことができた、とか信じるのはもはや宗教です)。
     スリム化するのはいいですが、教育の中にはスリム化しては元も子もならないものがあることを忘れてはならないでしょう。

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