ドラえもんとのび太の日常

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のび太「ドラえもん、ネッシーが見たいんだよ」

ドラえもん「わかったよ、のび太くん。はい、精神安定剤」
・・・実際、いまの社会では<ヘンなこと>を話すと「あいつ、おかしくないか?」「最近、何かあったのか?」と言われる対象となってしまう。
自分の生きづらさの理由も、「まわりはこう考えているのじゃないか」という想像をし、それに対応した行動をしようと身構えてしまうところにあるのであろう。
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コメント

  1. シロクマ より:

    私も、自分が思ったことをそのまま言うと「変な奴」「浮いた奴」という扱いになると思います。
    みんなと仲良くつつがなく学校生活を過ごすには、周りの空気を読んで、それに即した言動をとるのが「得策」であり「処世術」なんじゃないかなと思います。
    だから、自分の疑問の追求という欲求を抑えて、その場の人たちの関心のある質問か検討した上で発言したり、発現を控えたり。

    自分の追及に対して素直であるのは、美しいようで、生きにくさを伴う気がします。「空気を読めない奴」は「協調性がない奴」「付き合いにくい奴」につながりかねないと思います。

    逆に、場の空気を読みつつも、上に挙げたような弊害を承知しつつも、あえて自分の疑問を追及するのはなかなか勇気のいることで、その人の生き方(あり方)への決意を感じたりします。(かなり稀ですが)
    私はそういう人(私がそうと思う人)は、きっと(もしかしたら?たぶん?)、自分の疑問をとりあえず、相手に投げかけてみることで、「もしかして何か返ってくるかも知れない」「議論が生まれるかも知れない」という少しの可能性に期待をかけて投げているんじゃないかなと思います。(それによって生まれた場の空気、コメントに困った感じの空気への対処をしなければなりませんが…)

    私の経験も踏まえて思うのは、自分の考えに「素直」に振る舞う人は他人にとっては「頑固」で「協調性が乏しい」厄介な人にもなり得るんじゃないかということです。自分の想いを貫くには自分自身の抱える問題(能力や機会や環境)の他に、人間関係においても辛い思いがともなうなぁと思います。
    私は高校生の時にそういうことで悩みました。自分なりの想いを貫くのに周りに理解されないし、結果的に自分の能力では努力しても越えられないと自覚しました。
    私はこのままでは心身がもたないと思い、こだわるのを辞めました(諦めました)。そしたら、とても気持ちが楽になって、色々な事が見えてくるようになりました。当時はそんな感じでしたが、今ではこだわりを「限定」したり、むやみに人に話さないようにしています。簡潔にいうとそういうところに落ち着きました。

    だいぶ話が飛んですみません。何が言いたいかというと、人からの評価を恐れずに自分の考えを貫くのは辛いことも伴い、それを承知でやっている人がいるのなら、尊敬すべきことなんじゃないかなと、思ったのでした(私にはなかなかできないので)。

    長文失礼致しました。当たり前のことを言っているような、全部私の勘違いのような気がしますが、最近そんなことを思いました。

  2. シロクマ より:

    私も、自分が思ったことをそのまま言うと「変な奴」「浮いた奴」という扱いになると思います。
    みんなと仲良くつつがなく学校生活を過ごすには、周りの空気を読んで、それに即した言動をとるのが「得策」であり「処世術」なんじゃないかなと思います。
    だから、自分の疑問の追求という欲求を抑えて、その場の人たちの関心のある質問か検討した上で発言したり、発現を控えたり。

    自分の追及に対して素直であるのは、美しいようで、生きにくさを伴う気がします。「空気を読めない奴」は「協調性がない奴」「付き合いにくい奴」につながりかねないと思います。

    逆に、場の空気を読みつつも、上に挙げたような弊害を承知しつつも、あえて自分の疑問を追及するのはなかなか勇気のいることで、その人の生き方(あり方)への決意を感じたりします。(かなり稀ですが)
    私はそういう人(私がそうと思う人)は、きっと(もしかしたら?たぶん?)、自分の疑問をとりあえず、相手に投げかけてみることで、「もしかして何か返ってくるかも知れない」「議論が生まれるかも知れない」という少しの可能性に期待をかけて投げているんじゃないかなと思います。(それによって生まれた場の空気、コメントに困った感じの空気への対処をしなければなりませんが…)

    私の経験も踏まえて思うのは、自分の考えに「素直」に振る舞う人は他人にとっては「頑固」で「協調性が乏しい」厄介な人にもなり得るんじゃないかということです。自分の想いを貫くには自分自身の抱える問題(能力や機会や環境)の他に、人間関係においても辛い思いがともなうなぁと思います。
    私は高校生の時にそういうことで悩みました。自分なりの想いを貫くのに周りに理解されないし、結果的に自分の能力では努力しても越えられないと自覚しました。
    私はこのままでは心身がもたないと思い、こだわるのを辞めました(諦めました)。そしたら、とても気持ちが楽になって、色々な事が見えてくるようになりました。当時はそんな感じでしたが、今ではこだわりを「限定」したり、むやみに人に話さないようにしています。簡潔にいうとそういうところに落ち着きました。

    だいぶ話が飛んですみません。何が言いたいかというと、人からの評価を恐れずに自分の考えを貫くのは辛いことも伴い、それを承知でやっている人がいるのなら、尊敬すべきことなんじゃないかなと、思ったのでした(私にはなかなかできないので)。

    長文失礼致しました。当たり前のことを言っているような、全部私の勘違いのような気がしますが、最近そんなことを思いました。

  3. シロクマ より:

    私も、自分が思ったことをそのまま言うと「変な奴」「浮いた奴」という扱いになると思います。
    みんなと仲良くつつがなく学校生活を過ごすには、周りの空気を読んで、それに即した言動をとるのが「得策」であり「処世術」なんじゃないかなと思います。
    だから、自分の疑問の追求という欲求を抑えて、その場の人たちの関心のある質問か検討した上で発言したり、発現を控えたり。

    自分の追及に対して素直であるのは、美しいようで、生きにくさを伴う気がします。「空気を読めない奴」は「協調性がない奴」「付き合いにくい奴」につながりかねないと思います。

    逆に、場の空気を読みつつも、上に挙げたような弊害を承知しつつも、あえて自分の疑問を追及するのはなかなか勇気のいることで、その人の生き方(あり方)への決意を感じたりします。(かなり稀ですが)
    私はそういう人(私がそうと思う人)は、きっと(もしかしたら?たぶん?)、自分の疑問をとりあえず、相手に投げかけてみることで、「もしかして何か返ってくるかも知れない」「議論が生まれるかも知れない」という少しの可能性に期待をかけて投げているんじゃないかなと思います。(それによって生まれた場の空気、コメントに困った感じの空気への対処をしなければなりませんが…)

    私の経験も踏まえて思うのは、自分の考えに「素直」に振る舞う人は他人にとっては「頑固」で「協調性が乏しい」厄介な人にもなり得るんじゃないかということです。自分の想いを貫くには自分自身の抱える問題(能力や機会や環境)の他に、人間関係においても辛い思いがともなうなぁと思います。
    私は高校生の時にそういうことで悩みました。自分なりの想いを貫くのに周りに理解されないし、結果的に自分の能力では努力しても越えられないと自覚しました。
    私はこのままでは心身がもたないと思い、こだわるのを辞めました(諦めました)。そしたら、とても気持ちが楽になって、色々な事が見えてくるようになりました。当時はそんな感じでしたが、今ではこだわりを「限定」したり、むやみに人に話さないようにしています。簡潔にいうとそういうところに落ち着きました。

    だいぶ話が飛んですみません。何が言いたいかというと、人からの評価を恐れずに自分の考えを貫くのは辛いことも伴い、それを承知でやっている人がいるのなら、尊敬すべきことなんじゃないかなと、思ったのでした(私にはなかなかできないので)。

    長文失礼致しました。当たり前のことを言っているような、全部私の勘違いのような気がしますが、最近そんなことを思いました。

  4. シロクマ より:

    間違えて同じコメントを3つもしてしまいました。
    ご迷惑かと思われますので、お手数ですが削除をよろしくお願いいたします。
    失礼致しました。

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