本日19時から21時まで、若松河田のシューレ大学で「学生ゼミ」が行われた。今回、有り難くも私が卒論を発表させていただいた。テーマはイリイチの『脱学校の社会』。周りはフリースクール関係者がほとんど。相手がすでによく知りすぎていることを、話してしまわないか、という不安が襲った。けれど、何とか形になってよかったと、と思う。
卒論の第三部の内容をもとに話をした。そこの中に「教育とは待つこと」という概念を軽々しく書いていたが、もっと考察したうえで書くべきだったと気づかされた。
「待つのが大切とはいうけれど、〈待たれるプレッシャー〉がある。不登校になったわが子にいつ親が〈いつまで待てばいいんだ!〉と言い出すか分からない。それに、シューレでは〈待つ〉態度が貫かれているというが、それは本当だろうか。むしろ、〈待つ〉というよりも子どもをそのままの姿で認めるという態度が重要なのではないか」。
Sさんの発言(趣旨)だが、非常にためになった。
もう一点、非常に勉強になった所がある。それはフリースクール的学びを行う際の課題とも言うべきものだ。フリースクールにいて、文字を書けないまま18歳になり、免許をとろうとしても字が書けないから取れない、という方がいる。その人が小さいときに、「文字を書く練習しようよ」と多少強引でも語るべきだったのかどうか、ということがテーマだった。
朝倉さんは「海外のフリースクールだと、そのことはあまり問題にならない。それは日本の場合、フリースクールに来るのは不登校経験のある子が多いことが一つの要因だ。学校で傷つき、学ぶことを〈辛いこと〉〈苦しいこと〉と経験している子にとって、学ぶモチベーションになれないことが多い。学ぶことを楽しみであるとは捉えられず、比較されるもの・自分のバカさ加減を知られるものだと認識していることがある」。
この話も興味深い。「学びに傷ついている」ということは、非常に恐ろしいことである。
さて、このテーマにあった「文字が書けないまま大きくなる」ことについてだが、フレイレの言葉を思い出す。フレイレは脱学校論者の一員であるが、〈成人への識字教育は6週間ほどで行える。それなのに、何で何年も学校に通わないと行けないのか〉という理由からであった。フレイレは実践の中で識字を即習できるプログラムを開発したのだ。さきの18歳の方の件も、「必要ならば数週間で即習出来る」学習プログラムを用意していると、「渇きによる学び」が起きた際容易に学ぶことができる。そういえば、前に『こんばんわ』という夜間中学校を描いたドキュメンタリー映画を見た。そこでは生活に必要な漢字を250程度に選別し、それらを生活文脈の中で学習できる教材が用意されていた。せっかく教育心理学が発達し、脳の研究も進んだのだから、「簡単に日本語の読み書きができる」プログラムを開発すべきであろう、と感じた。