山口昌男『いじめの記号論』(岩波現代文庫、2007年)

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柳田国男は、子供は彼ら自身の独立国、共和国を築いていたといういい方をしています。ガキ大将もいたけれども、子供は仲間で遊ぶ。お互いに学校に行くようになっても、だいたいその圏内にある全員が面倒を見合う。子供組というきっちりした関係でなくても、子供たちにはいわば自主的な遊び仲間があったといっています。そのなかである程度いじめられるかもしれないけれども、それは鍛えるという意味があって、陰湿ないじめではなかった。(92頁)

 かつての子どもコミュニティを≪子どもの共和国≫と呼んでいたセンスを、私は興味深く思う。この共和国は大人が作ったものではなく、子どもたちが自然発生的に作り上げたものだ。
 子どもの共和国はおそらく、構成員を少しずつ変えながら変遷してきた。橋本治の『勉強ができなくても恥ずかしくない』(1)には、そんな子どもの共和国が描かれている。その中では中学生になると、そのコミュニティから去るというプロセスが描かれていた。気付けば参加していて、やがていなくなる。子どもの共和国の構成員は流動的なのだ。地方では子どもの共和国をさかのぼると自分の父母や祖父母、そのまた前の先祖、地域に人が住み始めたころまでさかのぼれるものもあるかもしれない。

たとえばすぐ塾へ行かなくちゃいけない。塾は、仲間をつくるためではなくて、仲間をつくらないために行くところでもあるわけです。子供の遊び仲間の代替物にはなりません。遊びの塾までができるような世の中では私のいうことは通用しないのかもしれません(93頁)

 山口の言うことは、以前私が書いた『子どもにとって「夕暮れ」とは何か?』と関連があるように思われる。仲間を作るという働きを奪うために、あえて塾に行かせる。「地域の子と遊んじゃ駄目よ」といいつつ。地域の多様な子ども集団(これも郊外化で大分幻想になってきたが)でなく、「塾」という同質の集団内にいさせようとする。子どもが異質な他者と出会う場を奪っているのだ。私が「夕暮れを子どもから奪ってはいないか」というのは、夕暮れが子どもが他者(地域の子どもや大人、異界など)と出会う時間帯であったからである。

 …まあ思うのは、「ガキ大将」も神話だったのではないかという点である。日本全国どこでもガキ大将はいたのか? そんなことはないだろう。いるように皆が信じているから、いたように感じられるのではないか。同様に、「ガキ大将を中心にした子ども社会があった」と聞くことがあるが、これも一種の神話あるいは都市伝説だったのではないだろうか。

 あと「子供組」はあくまで子どもの自発性から生まれた概念であるが、現在の「子ども会」は大人が中心に作ったものだ。ともすると、大人が押しつける子どもコミュニティになってしまう。小学生の時、少年野球チームの名前に「中町スポーツ少年団」というものがあった。スポーツをする集団を大人が無理に作ってはいなかっただろうか、と思うのである。
 この件が重要なのは、よく「教育活性化」と称して大人が子どものために何らかのコミュニティを作りだすことがある。あるいは自分がやりたいからと言って、「フリースクール」を作る者もいる。子どもの内発性に基づかず、外発的な集団。確かに成功して子どもが喜ぶこともあるが、子どもの自主性に応じていないため子どもの興味がなくなることもままある。そんなとき、大人は「こんなに俺が頑張っているのに、何故この子は楽しまないのだ」とフラストレーションがたまる。小学生の少年野球時代、えらく理不尽にコーチから怒られていたことを思いだす。〈コーチたちは楽しみのために野球をやっているのかもしれないけれど、僕は小学校の皆が野球チームに入っているから仕方なくやっているだけなのだ。どうしてそんなに怒られないといけないのだ〉と感じつつ、プレーをしていた。
 大人が自らの興味に基づいて「子どものため」と称して何かをするのは間違いではないか。子どもの内発性を信じようではないか。子どもに自由を与え、そこから出てくるものを採用することこそ、これからの時代にふさわしいのではないだろうか。 

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