いまパソコンで文章を打っているが、これを誰かが盗み見て管理することは可能である。いまの技術では人間の興味関心をgoogleが管理し、その人向けの広告を提示する。苫米地も言っているが、無料で(フリーで)何かを得るということはその分自由を喪失することになるのだ。そして、この無料による支配は国家がかねてより行っていたことなのだ。
たとえば無料の学校制度。近代公教育の3つの前提は①義務制、②無償性、③宗教的中立であった。②の「無償性」がなぜできるかというと、それは国民を国家が統制するためである。もっと言えば近代的な「国民」を作り出すために、おこない始めたのが公教育なのである。この「国民」は近代社会の労働にも耐え、「国家」という幻想の共同体思想を信じるという人々のことである。つまり、無償で行ってもその分のリターンがあると信じているために無償性の教育制度ができたのだ。決して、啓蒙的精神を人々に与えるためや「子どもの幸福のため」にできた制度ではない。
そこから考えれば、国家がフリースクールなどのオルタナティブスクールを恐れる理由がよくわかる。なぜならばわざわざ「無償」で提供している公教育を否定して「ここに本当の学びがある」「本当の教育がある」と訴えかけるからである。どんどん国家の策略が崩れていってしまう。故に国家としてはフリースクールは廃止したい。けれどそうしないのは、「不登校」という現象の方が、国家にとってはより深刻な「公教育否定」であるからだ。わざわざ無償にしているのに、登校しないなんてどういうことだ、と。
ちなみに、1999年にはイギリスのサマーヒル・スクール(フリースクールの本家)は廃止されそうになり、抵抗を示すことで存続できることとなった。国家は廃止のタイミングを目指している。