環境教育について、昨日大学院の授業の中で議論になった。方法論についてが問題となるなか、私は「そもそも環境教育は不要ではないか」という発言をし、非常に「浮いた」存在となった。皆が思うほど、環境教育の自明性は確立していないのではないかと感じたために私は質問をしたのであった。
いま地球環境は悪化している。「だから」環境教育をしないといけない。どの論者の意見にも、この論理が含まれている。私はそれに対し、「なんで?」と感じる。地球環境の悪化はよくわかる。ではなぜ環境教育の実践が必然となるのだろう。
学校「教育」にはお金と時間がかかる。「やったほうがいいこと」と「やらなければならないこと」を区別し、優先順位の高い「やらなければならないこと」に費用と時間をかけていくことが必要となる。環境教育を、多くの人は「やらなければならないこと」だと認識しているため、私の昨日の発言は「浮いた」ものとなるのだろう。私の認識では環境教育なんて所詮は「可能なら、やったほうがいいこと」である。お金と時間が余っていたらやろうかな、のレベルである。
例えば、私も習った高校の「現代社会」教科書にはインフォームドコンセントという言葉があった。これを言葉だけで知っているだけでなく、実際に行うという体験学習をしたほうが生徒には深く理解することができる。でも、それをやらない。何故か? 必要性が低いと感じられているためである。それでも、人によっては「やるべきだ」という論者もいる。
「ノーベル賞取得者を増やす教育を」という提言も、一昔前に出された。これは実践もされないままに忘れ去られようとしている。何故か? これも必要性が低いと感じられたためである。
私は納得できないが、環境教育はどこかの時点で人びとに「必要性が高い重要な教育だ」との合意が形成されてしまったのだろう。ただ憂えるべきは実際に教育を受ける側が、たとえ嫌がったとしても「環境教育」を受けなければならないということなのである。
環境教育において、これを学校で行う限り、「反環境」的意識を持つ人びとは排斥をされるか悪い評価を与えられてしまう。個人の心情を教育機関が「評価」し、価値付けを行ってしまう。環境教育のように、目指すべき方向や結論がハッキリしたものを学校で行うことは茶番のような気がしてならない。