この本を私は、長野に向かうバスのなかで読んでいた。高速道路から見える緑の風景。ブラジル生まれの教育学者パウロ・フレイレが活躍したのも、こんな景色の中であろうか。残念ながらブラジルに行ったことがないので詳しくは分からないが。
本書はフレイレ(1921-1997)の著書『被抑圧者の教育学』の解説書である。フレイレの教育思想は一体何をテーマにしたものであったかを、著者の里見は検討していく。
フレイレは教員の一方的な教えこみによる教育を「預金型教育」といって批判をする。預金型教育は人を受動的にしていくからだ。タイトルにあるように、「被抑圧者」にさせられるのが「預金型教育」である。
そうではなく、教員ー生徒、あるいは生徒どうしの対話による「問題化型教育」が必要であるとフレイレは主張した。彼の「識字教育」は「問題化型教育」の実践である。実際にブラジルの農村をまわり、フレイレは「問題化型教育」を行う。それが当局に批判され、ついには亡命を余儀なくされてしまうのであるが。
フレイレが危険を冒してまで実践したこのねらいは何か? それは抑圧を受けてきたものが、教育を通じ、自分自身の主体者となることである。
「『読み手』として世界に向きあうこと、それをフレイレは『意識化』とも呼んでいます。(…)フレイレにとっては、識字は『意識化』と同義でした」(154頁)。
つまり、フレイレの識字教育は世界を読み取る主体に人々を変えていく行為であった。これは受動的な存在から、主体的に世界に関わる存在へと転換することを意味する。「被抑圧者」が、教育によって「人間化」するのだ。「人間化、フレイレの教育学の、これが根幹です」(49頁)と里見はまとめる。フレイレにとっては人間化のために教育が重要なのだ。
興味深いのは、フレイレが書いた次の記述である。「被抑圧者のみが、自分を自由にすることによって、抑圧者をも自由にすることができるのだ。階級としての抑圧者は、他者はもちろん、自分をすら、自由にすることができない」(85頁)。被抑圧者が「人間化」され、自由になるとき、はじめて抑圧者自身も自由になる。人が人を抑圧するということも「非人間化」されているのである。
フレイレの本を読むと、あらためて教育の意義や「輝き」を感じられる気がする。