「学校」が作られたのは何のためか? 『子どもはもういない』の著者ニール・ポーストマンは〈読み書き能力が人々に要求されるようになったためだ〉、と説明する。それまで、子どもは「小さな大人」として扱われており、子どもと大人を分けるものは殆どなかった(アリエス『子供の誕生』)。けれども「印刷技術の発展を経て、書物を読むことが一定の階層や特定の職業従事者のみの問題でなくなった今、すべての民衆が文字の世界に参入することが重要な課題となってくる」(今井康雄編『教育思想史』)。読み書きというスキルの習得には時間がかかる。それゆえに「学校」の中に子どもを囲い込み、文字を習得させる時間と場所を用意したのだ。
前に大学のあるクラスメイトのレポートを見せてもらったことがある。酷い出来だった。段落わけがなされておらず、引用の書き方もどこからが引用の始まりか、よく分からない。全体を読んでも意味が不明瞭。「悪文」の典型であった。読む気が失せてしまう。
大学生のレポートが悲惨な出来であるのを見ると、文字を書くことができても「文章を書く」技術は習得されていないようである。しかもそのクラスメイトは早稲田大学生。早稲田合格者ですらそのレベルなら、他の大学生については推して量るべきである。
読み書き能力を子どもに習得させるための学校であるのに、なぜか「文章」を書くことすらできない生徒を産み出している。それは何故か? 簡単に言ってしまえば、書き方を教えるはずの学校で、文章の書き方が教えられていないのだ。これでは「学校」が何のためにあるのか分からなくなってしまう。何のために子どもを実社会から隔離してまで学校教育を行っているのであろうか。
大正デモクラシーが華やかなりし頃、日本では「新教育」という運動が起きた。児童中心主義の教育実践を呼びかける行動である。その中心人物・芦田恵之助(あしだえのすけ)が広めたのが生活綴方(せいかつつづりかた)運動だ。これは子どもが自らの「生活についての認識や感情を綴方(作文)に表現させ、そのことを、主として学級集団のなかで検討しあうことによって主体的な行き方を探求させ」る実践のことだ(『教育学用語辞典 第四版』学文社)。芦田から広まった生活綴方運動の最高到達地点が『山びこ学校』(無着成恭)である。無着成恭が自分の受け持つ小学生たちに書かせた作文を本にまとめたもの。有名な「雪」という詩は非常に情感豊かだ(「雪がコンコン降る。/人間は/その下で暮らしているのです」)。他にも村で流行していた「おひかり様」というカルトに対し小学生たちが批判する文章も掲載されている。『山びこ学校』には詩や随筆ばかりか社会に対する批評までも納められているのだ。無着の実践では「文章を書く」ことが小学生に習得されていた。
翻って今日の学校を見ると、「文章を書く」ことは本当に果たされているのだろうか。書き方を教えるはずの学校で文章の書き方が教えられていないなら、誰が教えると言うのだろうか。いま一度、生活綴方の伝統の復権が必要であるかもしれない。
「きけ わだつみのこえ」を読むと戦前・戦中に生きた人たちの文章力がよくわかりますよね。
まあれはエリート層だったとか、当時と今では教育の内容も質も違うので過大評価しているという批判的な見方もありますが。
昔のインテリって、本当にインテリって感じがしますよね(同語反復、あるいはトートロジー)。
あれは人数が限られているからこそ(旧制高校→帝大のルートは同年代の3〜4%くらいだそうです)、本当のエリートだけが文章を書いていたんでしょうね。
レベルの高いエリートの一方で、庶民レベルでは新聞を読むのもおぼつかない人がたくさんいました。そんな格差が戦前にはあったんでしょうね。
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