ヒッチコックの『裏窓』(原題 Rear Window)を見ている。カメラマンの住む家の窓から見える殺人(のような)劇。カメラマンは窓から絶えず「容疑者」を観察し続け、犯行の内容を推理し続ける。自分の行動が実は誰かに観察されているかもしれないということがこの映画のテーマである。自分のプライベートが他者に見られていることを意識すると、何も出来なくなる。近代社会は「儀礼的無関心」(アーヴィング・ゴッフマン)を行うのがルール。「相互行為の同じ物理的場面に居合わす人たちが、互いに相手の存在に気づいていることを、相手に脅したり過度になれなれしい態度をとらずに相手に明示する過程」(ギデンズ『社会学』用語解説)。それが「儀礼的無関心」。他者に過剰に干渉せず「見て見ぬ振り」をすることである。誰かに見張られていると感じると、我々は何も行うことが出来ない。ましてプライベートなことを。
寺山修司の映画『田園に死す』を見ると、前近代社会において覗きが日常的であったことがよくわかる。障子の穴から他人を見つめる隣人たち。同質性を要求される中世的共同体では、相互に監視しあい、目立ったことができないようになっている。
近代の都市的生活では、「隣は何を/する人ぞ」。隣人と一切会わないまま生活することができる。
もし隣人がこちらの行動を覗き見たり盗聴したりしていると想像するならば、もはや生活することはできない。それゆえ窓にはカーテンを閉め、鍵は二重にし、防音性を考慮した家作りをするのだろう。
私のアパートは窓が一つしかない上に、暑さがこもるため、夏にはとても過ごせない場所である。自然と下着に近い格好で家の中を暮らすことになる。この姿が他者に覗かれていると想像するととても生活できない。
近代社会では意外なことに、「人は覗きをしないものだ」という性善説に基づいて人々は暮らしているのである。前近代社会では障子の隙間・板戸の間から人々の生活(特に夜の生活)が日常的に覗かれている恐れがあった。
そういえばフーコーは「見るー見られる」関係に権力構造を見いだした。この映画での絶対的な権力者は一方的に覗きを行うカメラマンの男である。あとの者は彼に「見られる」客体にすぎない。
映画のクライマックス。覗いていた相手であるセールスマンが覗き主の家にやってくる。目撃者である彼を殺そうとして。これは「見るー見られる」関係が存在することに怒る近代人の比喩であろう。