ユダヤ民族の預言者・モーセをめぐる話は、昔から映画化の定番である。
例えば→「十戒」
出生の秘密(「王子と兄弟のように育っているが、実はお前は、奴隷の息子なのだ」)や迫害者からの逃避、放浪、そして海を渡るなど、映画的要素にあふれた物語である。
エクソダスとは「出エジプト」。
つまり、迫害を受ける地からの脱出である。
モーセやエクソダスについてが映画・物語となる背景には、「ここから、別の世界に行きたい」という人びとの潜在意識の反映である。
(そのような意味で、不登校をテーマに村上龍の描いた『希望の国のエクソダス』という作品がある)
ここではない、どこかへ。
隷従ではなく、自由を。
たとえその自由が困難に溢れていても。
人びとは「普通」の暮らしに満足する反面、
「これでいいのだろうか」感をなんとなく、感じている。
だからこそ人は旅に出たり、転職をしたりする。
『エクソダス:神と王』に興奮するのは、
「ここではない、どこかへ」連れて行ってくれる人へのあこがれがあるからだろう。
そう、人は自分のモーセを求めているのだ。