(この文章は、5月末に富山県に行く際の深夜バスで書いたものである)
新宿から深夜バスに乗り、桶川サービスエリアについた。ベンチに座り、あたりを見つめつつボーっとする。
物憂げな時間の過ごし方。これが好きだから私は一人で深夜バスに乗るのだろう。眠れない時間も、一人になるために必要なのだ。たまには「誰でもない自分」である異邦人(マレビト)になるのも楽しい。
学部時代、週一回のペースで高校の寮の宿直に行っていた関係で、「ふらっと/どこかに泊まりに行く」のには慣れている(荷物も、「何をもっていくか」大体分かるようになった)。
眠れない時間、人は何かを考える。自分の過去の思い出、将来の希望等など。ひょっとすると、現実の世界に起きている全てのことは、眠れない時間に人々が思い描いた願望によって成立しているのではないか、と考えることもある。思えば、私が初めて書いた「小説」も、深夜バスに揺られながら書いたものであった。
深夜バスを嫌う人は多い。「仕方なく」「安いから」乗る人ばかりだ。しかし私はそうではない。深夜バスで眠れない時間も楽しめるような人間だけが、深夜バスの醍醐味を知っているのだ。
周りがすっかり寝静まっている車内で、一人i-podで音楽を聴きつつボーっとする。「誰でもない私」になれる時間だ。都市的生活をしていると、びっくりするほど「ボーっとする」ことが少ないように思う(だって電車でもエレベーターでも僕は文庫本を開いてるし)。
こう思うと、「私」というものは本当に連続しているものなのか、不安になる。
院生としての私は、いまバス車中で揺られつつペンを動かす私と同一人物なのだろうか? 近代法体系は「そりゃそうだ」という。そうでないと「借金したのは昔の俺であって、今の俺が借りたわけじゃない」という言い訳が横行することになる。
おそらく他人も多様なように、「私」という存在も多様なのだろう(私という存在には4つの側面があるらしいことを心理学専修の人に聞いた)。いま存在する私も「私」だが、「未見の我」としての私も必ずある。「私」をめぐる冒険は果てしない。
眠れない辛さを感じるのも、旅の楽しみの一つである。
人生は旅だ、というのなら、旅先で感じるような「辛さ」(この場合は眠れないという現象)を知るのも楽しみの一つである。辛さすらも楽しめるのがプロの旅人なら、辛さですら楽しめるのが人生のプロなのだ。
よく考えると、死に向かう旅も、遠くへと向かう旅の一つである。人が旅に出るのも、死に向かうための練習なのだ。哲学は「よい死」を迎えるために行うものだと言われる。ならば旅に出るのも哲学のひとつなのだ。プラトン自身、数年アカデメイアを抜けて旅に出ていたし。
…こんな事柄を綴れているのも、400円のA5リングノートがあるからであり、150円のジェットストリームと僅かな日本語リテラシー能力があるためだ。ほんの少し「知的」になるための投資はほんの少しでいいのだ。
流れてきたので、ちょいちょい読ませて頂きました。
貴方がとても真面目で勤勉家なのは伝わるけど。
どうも話題が一辺倒で乏しい気がする。
「斯くして私は莫迦に成れない。」
って言うのが伝わってくる、気がする。
勘違いだったら本当にゴメン。
貴方の事が嫌いなんじゃないんだ。
むしろ真面目で凄く良いと思う。
ただ莫迦になった貴方の体験なども聞いてみたい。
重ね重ね、勘違いだったら本当にゴメン。