自分として、どうなの?〜村上龍『置き去りにされる人々』KKベストセラーズ 2003年〜

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村上龍のエッセイは以前から読んでいた。

しかし、仕事をし始めてはじめて彼の持つ「凄さ」に気づいた。

村上は「自分としてどうなのか」と問いかける。

「日本社会はどうするべきか」「経済はどうするか」など、

いまの日本では主語が「日本」「日本経済」という問いかけが多い。

「「不特定」だから自分のことは考えずに済むという巧妙な仕掛けがある」(21466)

しかしこの場合、自分について考える切迫感がなくなり、

誰も緊急性の高いものとして自分自身を考えない。

村上は「自分」の視点から、「自分」として考える重要性を折に触れて訴え続けている。

「自立、あるいは変化、というのは必ず具体性を帯びているはずなのに、何によって自立するか、どう変わるかは問われることがない。会社が銀行の庇護を離れて自立するためには、何かで利益を出し、借金を返さなければならない。個人の自立は、何らかの経済力によって初めて可能になる」(88)

〈自分として、どうなのか〉〈自分は何をしてサバイブしていくのか〉。

村上の問いかけは仕事を持ってはじめて「響いて」くる。

会社で働いていると、どうしてもこの「自分として」が見えなくなってくる。

〈自分として、どうなのか〉を深めていくこと。

それがなければ、ただ状況に流されてしまうこととなる。

深める1つは自分の「モチベーション」の源泉や「偏愛」するものは何か。

「28歳までに自分のモチベーションの対象を探せないと、人生を選びとることはむずかしくなる。簡単に言うと、他人にただこき使われるだけ、ということになってしまうのだ」(31)

「趣味的な「好き」と「偏愛」の違いは、代替物があるかどうかだ。代替物がない場合、「好き」は偏愛のほうに傾斜する」(143)「趣味的な「好き」が生産性に結びつくことがない。「別に仕事を持っていながら趣味で始めた何か」が、生産性に関わるモチベーションや利益や将来性のある事業に結びつくことはない。(…)当り前のことだが、持っている時間のすべて、モチベーションのすべて、技術と知識のすべてを投入しないと、市場で評価されるような製品を開発したり作り上げることは不可能だ」(144)

どこまでも「自分として、どうなのか」。

探っていく態度を私は村上から学んだ。

実践するのは大変だけど…。

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