1、本稿のねらい
エーリッヒ・フロムは社会心理学の立場から現代文明批評を行う研究者である。フロムはネクロフィリア・バイオフィリアの観点から『悪について』を考察したが、本稿ではこのネクロフィリア・バイオフィリア概念の教育学的可能性についての考察をおこなう。それはネクロフィリア=「悪」という図式をフロムは描いているが、現代教育学において「悪」は考察の対象となっており 、その「悪」を巡る議論に一つの方向性を示すことになるからである。
2、『悪について』の執筆動機
『悪について』(原題:THE HEART OF MAN: Its Genius for Good and Evil)は「私の前著作のうちに提示されている思想をとりあげて、更に発展させようとするものである」(Fromm 1964:1頁)観点から執筆された。直接的には『自由からの逃走』(1941年)で描いた「自由の問題、サディズム、マゾヒズムおよび破壊性」(同)のうち、破壊性について考察する観点からまとめられている。「破壊性とはネクロフィリア(necrophilia)であり、生を愛好するバイオフィリア(biophilia)とは逆に、実際に死を愛好するものである」(同)ため、「悪の本性と、善悪を選択する本性とを論じる」(同:1−2頁)のが本書のテーマとなっている。なお、フロムにおいて「悪」はネクロフィリアによって生じるとされている。
『悪について』で描かれたテーマは、『愛するということ』(1956年)と「一対をな」(同:2頁)している。
3、『悪について』諸概念の整理
ここでは、『悪について』で提示された概念を整理する。
(1)サディズムの実態について
フロムは次のように述べている。
サディズムの目標は人間を物体に、生物を無生物に変えることであると言えばよい。なぜなら完全絶対の統御によって、生物は生の本質である自由を失うからである」(Fromm 1964:31頁)。
フロムはネクロフィリアの特徴として「破壊性」(Fromm 1964:1頁)を挙げている。彼はシモーヌ・ウェイユ(本文ママ)の定義をひき、「力とは人間を屍体に変貌させる能力である」(同:41頁)であると述べている。「人間を屍体に変貌させる能力」としての「破壊性」がネクロフィリアの本質なのであるが、先の引用文の「生物を無生物に変える」という「サディズムの目標」はネクロフィリアの衝動なのである。
ここから考察すると、パウロ・フレイレの『被抑圧者の教育』に出てくる「預金型教育 」は生徒を客体(=モノ)として扱っているためサディズムに基づく行為といえる。生徒はあくまで知識を入れられる器になる。その状態からの解放として、フレイレが目指したのが「問題化型教育 」であった。そこでは教師—生徒は教材を通して対等の立場での「対話」によって教育が行われる。
対話をとおして、生徒の教師、教師の生徒といった関係は存在しなくなり、新しい言葉、すなわち、生徒であると同時に教師であるような生徒と、教師であると同時に生徒であるような教師が登場してくる。教師はもはやたんなる教える者ではなく、生徒と対話を交わしあうなかで教えられる者にもなる。生徒もまた、教えられると同時に教えるのである。かれらは、すべてが成長する過程にたいして共同で責任を負うようになる。(Freire 1979:81頁)
生徒が「客体」でなく、「主体」として立ち現れる教育において「生徒であると同時に教師であるような生徒と、教師であると同時に生徒であるような教師」による対話がなされることになる。逆に、「対話」の成り立たない教育現場は「預金型教育」の行われる現場であり、生徒をモノとするサディズム(=ネクロフィリア)が横行する空間となっているといえる。
なお、本稿ではフレイレの文脈から生徒を「主体」として扱うと述べたが、「主体化とは、アルチュセールによれば、個々の具体的個人がイデオロギー(=知)のなかで特定の社会的主体として立ち現れるメカニズムのことである」(山本 2003:136頁)ため、手放しに肯定すべき事柄であるとは言いがたい点を付記しておく。アルチュセールは「呼びかけ」によってイデオロギーは個人の中に主体を構築すると述べたが(Althusser 1970:87頁)、この「呼びかけ」に応答する行為自体が「対話」であり、教育現場では「問題化型教育」となる。この場合のイデオロギーとは「国家のイデオロギー装置」(AIE)である学校がもたらすものであり、「学校化」(Illich 1971)を人々に要求する産業社会のイデオロギーであろうと考察される。
そのため、「問題化型教育」を行うことが生徒の「主体化」をもたらす以上、フレイレが忌避した「学校化」の文脈(これはつまり「預金型教育」により一方的に詰込まれる教育現場)から生徒は外れるように見えて、より巧妙に「学校化」されるという結果をもたらす物となる。この更なる考察は本稿の範囲を超えるので以上で筆を置く。
(2)ネクロフィリアとバイオフィリア
ネクロフィリアとは「死を愛好する」(同:40頁)との意味である。ネクロフィリアに基づく人間観について、フロムは次の例をあげている。「スポーツ・カー、テレビ、ラジオのセット、宇宙旅行のほうが、女や恋や自然や食物よりも興味があり、生よりも生のない機械的なものを取扱うことに刺激される男性が、実に多いことは明らかである」・「かれは車を見るような眼で女を見る」(68頁)。フロムはネクロフィリアに基づく見方をする人間のことを「機械的人間」とも示している。現在の日本社会に広がるオタク系の恋愛ゲームやアダルトソフトを好む衝動は、まさにネクロフィリアな態度である。ダイナミックな人間的関係を求めるよりも、関係性が規定されている人間関係(=「機械的人間」)を、ヴァーチャル空間において求める動きがそれにあたる。ルアル空間においても、メイド喫茶や妹喫茶というものが見られるように、きまりきった関係を要求する意味でネクロフィリアな場が広まっている。フレイレを借りるなら、ネクロフィリアは人をモノ化し、「客体化」を施すのである。
ネクロフィリアに対立する概念はバイオフィリアである。「生を愛好する」というのが元の意味である。「《バイオフィリアの倫理》は、それ自身善と悪の原理をもつ。善は生に寄与するものすべてであり、悪は死に寄与するものすべてである。善は生を尊ぶことであり、生、生長、展開を促進するすべてのものをいう。悪は生を窒息させ、矮小にし、寸断するすべてである。喜びは美徳であり、悲しみは罪である」(52頁)。イバン・イリイチは各種著書の中で人間性の回復を訴える図式として「コンヴィヴィアル」という発想を提唱した(『生きる思想』)が、この「人間性の回復」という見方は「善」なのである。
なお、フリースクールの創始者であるA・S・ニイルの著書にも、ネクロフィリア/バイオフィリアを連想できる要素が書かれている。
人間は多くの願望をもっているが、そのなかでも特別に大きな二つの願望がある。つまり生きたいという願望と死にたいという願望である。死にたいという願望は、道徳教育の結果として生まれたものだ。持って生まれた生命力が、生まれたとたんにねじ曲げられたのだ。生命力がフルに表出を許されたことは一度もない。いつでもだれか大人が人差し指を立てて「いけません。行儀が悪い」というのだ。表出を妨げられた愛情は憎しみに変わる。これとまったく同じように、妨げられた生の願望は死の願望へと変容する。私たちは死ぬことに興味をもっている。その証拠は、新聞を見ればいくらでも見つかる。新聞には、殺人、戦争、動物狩り、スキャンダル、そして大事故などにかんする記事であふれている。新聞の発行部数は、その新聞社が死にどれだけ関心をもっているかに比例する。ここでいう死とは、広い意味で否定、破壊、不幸などといった意味を含んでいる。(Neil 1967:26頁)
ニイルの「生きたいという願望」がバイオフィリアであり、「死にたいという願望」はネクロフィリアを意味すると考察される。バイオフィリアが道徳教育の結果もたらされるというのはニイルの皮肉である。ニイルはフロイトを引き、道徳教育が性的抑圧をもたらすと指摘しているが、この営みが人々にバイオフィリアを習得させる結果となる。
(3)教育における、バイオフィリアの必要性
フロムは次のように言う。
子供の場合、生の愛好の発達に最も重要な条件は、その子供が生を愛好する人びとと共に在るということである。生を愛好することは、死を愛好することと同じように伝染しやすい。(Fromm 1964:58頁)
ここから、子どもの教育におけるバイオフィリアの必要性が読み取れる。いきいきとした人間的関係の必要性だ。「人々と共にある」とはイリイチの「コンビビアル 」概念に繋がる。教室が「預金型教育」の場になっているのであれば、それはネクロフィリアの環境になっている。「生を愛好する」バイオフィリアな環境を、教育の中で増やしていく必要性を読み取れる。「フレイレのように、バンキング(知識の銀行預金型)の非対話的教育への厳しい批判をもって、人を愛する対的教育を考えることだ」(山本 2009:207頁)との指摘も、「人を愛する」(=バイオフィリア)教育を行うために「非対話的教育」である「預金型教育」を排斥する必要性に繋がる。
現在、ニンテンドーDSやi-pod/i-padを活用する学習教材が開発されるなど、CAIをめぐる環境は発展を続けている。知識習得型の学びであればCAI機器やテキスト・問題集の自学自習で構わないという言説もあるが(OECD教育研究革新センター 2006などはその典型である)、この学習の仕方はネクロフィリアに基づく教育観である。学習する状況のみを客観的に見れば、美少女ゲームをプレイすることと何ら変わりは無い(そしてこの状況はネクロフィリアである)。
学校という場は多様な他者と交流をする場であるとの考え方があるが(例えば佐藤 2007などに描かれた「学びの共同体」の発想)、この発想はバイオフィリアの場所としての学校再考の姿勢である。
(4)ネクロフィリア・バイオフィリア概念を用いる教育学的意義
ここまで、ネクロフィリア・バイオフィリア概念について考察を行ってきた。ここではこの概念の教育学的意義を考察する。
教育者は「人間的関係」や「人間性」といった言葉で現状の公教育批判を行う。ニイルもその例外ではなく、彼の著作には「人間性」言説が頻出している。「人間性」という言葉には高尚な響きがある反面、抽象度が高いため何を意味するか不明瞭な議論となってしまう。「人間性」とは何か、具体的にイメージすることができないためである。
この「人間性」という言葉を、プラス面・マイナス面の二項対立図式から描くのに機能するのが、フロムのいうネクロフィリア・バイオフィリアの図式である。この図式を用いる場合、教育環境について「人間性」という言葉を使わずに同様の議論を行うことが可能になるという意義がある。
(5)フロムへの批判
(5)—① 教育における「悪」の重要性
『悪について』において、悲しみは悪であるとフロムは語る(Fromm 1964:53頁など)。それはアランの「悲しくなるような考えは、すべて間違った考えである 」(Alain 1928a:198頁)との哲学に通ずる発想である。しかし、この「悲しみ」を悪として排斥することは本当に可能であろうか。また、「悪」自体、教育には不要な側面であるのだろうか。
人間にはある程度の「悪」が必要な側面がある。絶望や失望、悲しみなどがその例である。否定的な側面をもつこれらの言葉を、人々はなるべく経験したくはない。しかし、これらを体験するからこそ人間性が深まるという働きも存在する。そうであるならば、一方的に「悪」といって済む問題ではなく、もう一歩考察を深め、人間には悪も必要なのだとの結論に持っていくべきであったと言える。
この考察に当たり、矢野智司は悪を「通常、悪が論じられているように『善』や『正義』の概念の反対の意味ではなく、理性による計算を破壊することそれ自体が目的であるような至高の体験を指す」(矢野 2009:164頁)と述べている。
矢野は映画『スタンド・バイ・ミー』(1986年、アメリカ。監督:ロブ・ライナー)に描かれた、「死体」を探す旅に出た少年たちの姿について論じている(矢野 2009)。旅の後、少年たちに自己変容が生じるのだが、その理由について「この旅が死に触れる悪の体験」(矢野 2009:171頁)であったためだと説明する。
この「死体」を求める少年たちの衝動は、文字通り「死体愛好」(=ネクロフィリア)の衝動である。しかし、この矢野がいう構図から見えてくるのは、「悪」(=ネクロフィリア)を子ども集団が共有し、完遂するという行為によってしか得られない教育的価値である。「かつてのイニシエーション(通過儀礼)は、子どもにそのような悪の体験を与える出来事であった」(同)と矢野は語るが、悪を単純にバイオフィリアだとして排斥できない理由はこの点にもある。
無論、こうした「悪」の教育学的意義の考察の持つ危険性にも意識的である必要がある。
悪の体験をこのように「教育的意義」といった視点から捉えてしまうと、悪の体験は子どもが成長するための「手段」のように見なされ、そのあげく成長のためには悪の体験を周到に用意しなければならないと考え、さらには悪の体験自体を教材化するといった転倒した思考に向かう危険性があるからである。(矢野 2009:170頁)
あらゆる「教材化」(フレイレ)する欲望や発想から逃れたところに位置すべきなのが「悪」である。そのため「悪」を忌避する側面のあるバイオフィリアの教育を教育現場で行う必要性は認められるが、教育的文脈を超えた位置にある「悪」ないしネクロフィリアの有用性にも自覚的であらねばならない。
映画『スタンド・バイ・ミー』は、少年の死体を発見し、街に再び戻る所で舞台は現在に切り替わる。少年たちに探し求められる「死体」となった少年(その限りでは「客体」となっている)は、矢野も指摘する通り、「ブルーベリーを摘みに森に出かけて道を迷」(同)い、「死体」となってしまった。この少年も、いわば「悪」を求めた結果、「死体」となってしまったのである。「悪を十分に体験することはそれほど簡単なことではない」(同)、大変リスキーな側面を持っていると言える。逆に危険性を持つからこそ「悪」は自己変容をもたらす経験として子どもに機能するのである。そのため、「悪」を教材化し、安全なものとしてバイオフィリアあふれる学校において教育することは「悪」の悪たる所以(あるいは悪の「悪」性)を失わせる結果となる。
教育者ないし教員の意図を超えた位相に「悪」は存在する。容易に認識可能であり、対処可能となってしまった「悪」はもはや「悪」ではない。「悪」の教育的可能性について語ることは出来ても、「悪」を子どもに経験させるようしむけることは「悪」のもつダイナミズムを失わせる結果となってしまう。
(5)—② 構造主義の立場から見た、フロムへの批判
バタイユの『呪われた部分 有用性の限界』には、フロムのネクロフィリア概念を連想させる内容が書かれている。
古代アステカ文明において、多くの俘虜の犠牲が要求された。俘虜たちは戦争に行った兵士たちが生きて帰ってきた際に捧げられる犠牲であったが、「もしも戦士が勝利して戻るのではなく、戦で倒れたならば、戦の場での死が、俘虜を犠牲にする儀礼と同じ意味をもつことになる」(Bataille 1976:63頁)。それは「戦士は自分の身体で、貪欲な神々に食べ物を奉じることになる」(同:63−64頁)ためである。この戦士の発想を支えるのが生け贄を要求する神官の「祈り」である。「死を望み、死のうちに魅力と甘さをみいだすようにされたまえ。矢も剣も恐れず、むしろこれを花のごとく、甘き糧のごとく心地好いものと感じさせたまえ」(同:65頁)と祈り続ける。また、母親も子どもの臍の緒を切る場面において一連の台詞をわが子に語りかけたが、その中にも「戦の場で死んで、華々しい死を迎えて命を終えるのにふさわしい者とみられることは、お前にとって幸ある定めです」(同:62頁)とのフレーズが存在した。
ここをみれば、古代アステカの兵士も神官も母親も、ともにネクロフィリアであったことが読みとれる。フロムはネクロフィリアを悪であると言い切るが、これは近代の構造、ないしは近代のエピステーメー(ミシェル・フーコー)の枠組から言えることであったのではないか、との疑問が浮かんでくる。つまり、フロムのいうネクロフィリアを考察する際、〈かつてはバイオフィリア中心であったが、今はネクロフィリアが横行している〉という発想をすることは誤りである。日本においても、例えば与謝野晶子が『君死にたまふことなかれ』において、「末に生れし君なれば/親のなさけはまさりしも、/親は刃(やいば)をにぎらせて/人を殺せとをしへしや、/人を殺して死ねよとて/二十四までをそだてしや。」と歌ったように、「人を殺して死ねよ」というネクロフィリア言説が横行する時期があったのである。
無論、「人を殺して死ねよ」という言説の位相と、フロムのいう「死体愛好」との位相には質的な違いがあることは確かであろう。前者は他者を直接に殺すという意味合いのネクロフィリアであり、後者は他者を客体物(=モノ)として扱うネクロフィリアである。しかし、どちらも「生の愛好」であるバイオフィリアの正反対に当てはまる概念であるため、この項目において取り上げている。
総括すると、教育におけるバイオフィリアの重要性というフロムの発想も、現在という構造内でのエピステーメーが要求する価値観であり、普遍性のある発想であるとは言いがたいのである。現在広まるネクロフィリアの発想も、実は時代がそれを要求する、あるいは次世代のエピステーメーが要求する結果であると考えることも出来る。
フロムのネクロフィリア・バイオフィリア概念は現在の立場、ないしフロムの執筆した時点でのエピステーメーだったのである。
4、終わりに
本稿では『悪について』に描かれたネクロフィリア・バイオフィリアの発想と、「悪」の教育的意義について考察する内容となった。
今後の課題としては、フロムが本書と「一対をなすものである」(Fromm 1964:2頁)『愛するということ』との対照関係を描けなかった点である。また、フロムの著作全体の思想性についても踏まえられていない。教育学における「悪」の意義を考察するためにも、今後『愛するということ』をはじめフロム全著作の検討が課題となるであろう。
5、参考文献
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