「先生が親身になって話を聞いてくれた!」
「一人ひとりの声に耳を傾けます!」
教育現場では、あるいは人と人とが関わる現場では、
カウンセリング・マインドが求められます。
しかし「聞きすぎる」ことの弊害も知る必要がある、と私は考えます。
社会学では「ライフヒストリー」を重視する一派があります。
一人ひとりの「語り」を重視し、その意味的世界を研究するというジャンルです。
しかし、「構築主義」の発想に立つならば、このことは「語らせる」ことを強要するということにもなります。
人の語りは、語るたびに新たな事実が作られます。
「高校時代さあ…」と語ることって、多いですね。
高校時代のことを話す時、その場にほんとうにいなかった人がいることになり、
その話をしていなかった人が話していることになるのです。
困ったことに、「語ってしまう」ことで、ニセの過去を「本当のこと」と思ってしまうのです。
話をカウンセリングに戻します。
自分を「不幸だ」と感じている人に「そのまま」語らせることは、
自分を「やっぱり不幸なんだ」と再確認させる役にしか立たないのです。
カウンセリングは無論、大事なこと。
でも、みんなあることを無視しています。
それは、プロのカウンセラーが「時間を決め、金をとって」カウンセリングをしているという点です。
「教員はカウンセリング・マインドが必要」といったり、
「カウンセリングの発想が大事」という時、
「無料」「無制限」のカウンセリングが求められます。
私はけっこう生徒や人の話を聞くのは好きだけど、
「私ってこんなに不幸なの」話を聴き続けることの問題点も感じているのです。
「私って、こんなことがあって、こうだから、とても不幸なの」
聞けば聞くほど、相手自身が「私は不幸なの」意識を高める事となってしまいます。
その問題点に自覚的であるべきです。
では何が大事なんでしょう?
おそらくは「真剣に聞く」前半と、
「考え方を変える」後半のセットが必要なんだろうと思います。
前半は、それこそ「カウンセリング・マインド」。
これまでのカウンセリングについての話はこの「前半」しか述べないものが多かったです。
(まあ、前半もやっていない人が多いからなんだけど)。
大事なのは「真剣に聞く」前半の後、相手の「考え方を変える」プロセスを後半に設置すること。
その方法は、最近勉強中の「魔法の質問」だったりするのかもしれないなあ、と考えています。