起業に属さず、一人で/フリーランスで働く生き方としての「ノマド・ワーカー」。
カフェで優雅に仕事をする人たち。
そんな「ノマド・ワーカー」に対し、最近Web上で批判の声をよく聞く。
いわく「ノマドは正規雇用のハードさに耐えられないヤツの逃げた姿の正当化」であるとか、
「チャラチャラしたよくわからんヤツ」とか。
さんざん、である。
私が「日本ノマド・エジュケーション協会」事務局長である以上、
私はどこまでも「ノマド」擁護派である。
しかしそれは、現実の「ノマド・ワーカー」擁護では、ない。
理念としての「ノマド」擁護である。
「ノマド」。
それはドゥルーズとガタリが概念化した発想。
ピラミッド型の組織に対し、無限に拡散する「ネットワーク」として掲げた概念である。
ジャガイモやオリズルランなんかの「根茎」、つまり横に横に広がる根っこを意味する「リゾーム」を整理した概念だ。
(写真はオリズルランの根茎。根っ子の一部から、あらたに葉っぱや花が生えてくるのです)
「ノマド」。
それは「遊牧民」である。
組織・構造を超え、自由に/縦横無尽に動き回る主体としての「ノマド」である。
「何ものにも頼らない」という意味で「近代人」の究極の姿が「ノマド」なのである。
つまり、本来「ノマド」を批判するのは「中世復古主義」の現れなのである。
A・ギデンズのいう「ハイ・モダニティ」の主体としての「ノマド」なのである。
時代は「近代の窮極」としての「ノマド」を求めている。
決して、「大企業」「大組織」あるいは「構造」「組織」を土台にした
単なるワーカーを求めてはいない。
「ノマド・ワーカー」批判は、その意味で時代錯誤である、とも言える。
無論、私もチャラチャラした「ノマド・ワーカー」や
適当な「ノマド・ワーカー」は嫌いだ。
そうではなく、あくまで理念として「ノマド」を擁護するのである。