4,「スキマ時間」活用としての「いつでも・どこでも」
日本ではいつから「いつでも・どこでも」の学びが呼びかけられるようになったのであろうか。つまり、場所・時間を超えて常に勉強し続ける態度が、いつから賞賛の対象になったのだろうか。
受験生のメンタリティとして、電車の中でも信号待ちの間でも、つねに学習をすることは「良い」ことだとされている。この考え方の先には、「何もしていないことは悪」とされ、イヤホンをつけ「耳から」のヒヤリングや暗記事項を吹き込んだ内容の再確認をすることが称揚される。
現代の「苦学」について、竹内(1991)は「受験のポストモダン化」を述べる。楽しく勉強するということが受験生の間で80年代以降言われるようになったとの指摘である。しかし、それは80年代以前との比較から言えることではないか。受験生のリアリティーに取って、「昔」と「今」の比較は関係がない。必死に学ぶという態度を取り続ける(あるいは演じ続ける)ことが要求されているのではないだろうか。
つまり、竹内の指摘する「苦学の終焉」はあくまで過去と比較した上での概念であって、受験生に取っては常に「苦学」が要求されてきたのではないか、ということである。しかし、当然過去と現在とでは生活水準も文化水準も大きく異なる。単身で上京して専門学校に入り、「大学」への入学に憧れた戦前期の学生の「苦学」と現在の受験生の「苦学」とは全く意味合いは異なる。どちらの時代にも楽に受験をやり過ごそうという態度を取る者はいたであろうし(これは竹内のいう「受験のポストモダン化」の形態である)、その逆に必死になって勉強をするという意味での「苦学」を行うものもいるであろう(竹内の言う「苦学」である)。どちらの時代にも、いろいろなメンタリティの人物は存在したわけである。そのため、「苦学」する者にとって、「苦学」の内容は変わったとしても、「苦学」をしているという意識には共通点があるのではないか。
戦前の「苦学」語りでは「働きながら」ということがつきまとった。あるいは資格試験合格に向け、必死で「頑張る」姿に賞賛が集まった。その姿が現代においてはイヤホンを耳につけてのヒヤリングの実践や、単語カードをめくる姿、「ノマド・ワーキング」のように読み逃した記事をスキマ時間でスマートフォンで読む姿として現れているのである。
本稿でノマド・スタディについて分析を行うのは、現代のノマド・スタディを行う者はかつての受験生の「苦学」のメンタリティと近い場所にいるのではないか、との問題意識からである。「いつでも・どこでも」という非-場所性というものは、ノマド式に拡散するネットワークの概念である。これはツリー状の権力体型からの離脱でありながら、個々人が何の寄る辺もなく常に努力し続けるという能力主義を礼賛する発想でもある。「いつでも・どこでも」学ぶことが自発的であれば問題はない。しかし「いつでも・どこでも」学ぶべきだという規範が成立することは、「いつでも・どこでも」学ぶことを欲しない主体に対し暴力として機能する。だからこそ「苦学」なのである。
一例としては、蒋麗華(2010)『顧客創造「1日15分メモ」』(プレジデント社)がある。これは「日常の仕事時間のなかに、10〜15分の顧客視点で未来志向のポジティブ思考時間を組み込み、リアルタイムにそれを共有していく」(160)マーケティング法を紹介している。ワークシートを用意し、顧客の視点から企業を見直し、よりよいマーケティングを行なうことを志向している。他の文献との違いは、他の文献が自分が「スキマ時間」を有効に使えるようにすることを志向しているのに対し、本書では従業員に「1日15分メモ」を取らせることを志向している点という点が特異なものとなっている。である。
受験生の「苦学」言説は昔も今も変わらない。その中でも人びと(受験生を含む)がハイテク機器たるスマートフォンやi-Padを操作するなかで常に学び続けることが要求される態度は変わらない。人びとは「いつでも・どこでも」学ぶべき、との規範から逃れることが難しくなっている。