『シャドウ・ワーク』のなかでイリイチは言う。
「現代社会での労働のいくつかの形は、最初は支払われないもののようにみえても、最終的には金銭的評価で高い報酬となる。大学の学習は往々にしてよい例である。(…)一般には、大学卒業の人間の生涯所得のほうが、卒業しなかった彼の兄弟、姉妹たちの所得よりもはるかに高いだろう」(265頁)。
この人的資本論的認識のために、大学生は「専業主婦、中等学校の生徒、パートタイムの通勤者といった本物の〈シャドウ・ワーカーズ〉にあてはまるものではない」(266頁)シャドウ・ワーカーなのである。つまり、大学生はいま自分たちが大学で単位獲得のために行うシャドウ・ワークこそが将来「大卒」として得られる所得につながると認識している。例として挙がった「専業主婦、中等学校の生徒、パートタイムの通勤者」たちと違う点である。大学生が単位獲得のために行うシャドウ・ワークは、将来において給与が支払われることを見越したworkなのである。
では、大学生と違う「専業主婦、中等学校の生徒、パートタイムの通勤者」たちのシャドウ・ワークにはどのような意味が込められているのか。スウェーデンにおいて主婦の一部に賃金が支払われるようになったことをイリイチは指摘するが、まさにそのことによって「スウェーデンは、社会的なサーヴィスにおける訓練された〈シャドウ・ワーカーズ(奉仕家)〉を雇用する試みに、新しい世界を導いているようだ」(267)と皮肉を述べる。「これは、社会的部門における〈シャドウ・ワーク〉を賃労働より一層早く増加させる計画である」と続けている。
この部分を理解するには、『生きる意味』・『生きる希望』に登場する「善きサマリア人」の寓話を持ってくる必要があるだろう。個別性(ホスピタリティ的行為)が失われ、画一的サービスが行われるようになることへの指摘である。専業主婦の家事労働に政府が賃金を出す。これは社会サービスの一部に専業主婦が吸収されたことでもある。行政の社会サービスの代理人として「訓練された〈シャドウ・ワーカーズ(奉仕家)〉」が要求されるゆえんなのだ。このことはイリイチのいう自助(selfhelp)でもある。専門家たちが作った制度に人々が従わされる「価値の制度化」の状態において、人々は専門家のいうがままに行為を行うようになる。「素人、言い換えると客を自分たち(藤本注 ここでは専門家のこと)の監視のもとに無報酬で働く助手として引き入れようと躍起になっている」(12頁)のだ。「こうした自助の術策によって、産業化社会の基本的分岐が家庭の内部に投影されている」(ibid)。
まとめると、大学生は将来の稼ぎを見越して〈シャドウ・ワーク〉的学習を行う傾向があるのに対し、それ以外の人びとのシャドウ・ワークは専門家の作り出す制度につき従わされ、自助としてのシャドウ・ワークを行わされているということである。現代社会では、一コンピュータ企業の作り出すワードプロフェッサ・ソフトである「MSワード」や「パワーポイント」の操作法を学校でもパソコン教室でも学習させられる状況を例として提示することができる。人々は「MSワード」や「パワーポイント」を自在に活用できるようになることを期待されるのだ。企業にとっては顧客を会社の活動を支える助手であるかのように動かせるのである。その意味で「自助」としてのシャドウ・ワークを行っていると認識することができる。