Freire, Paulo(1992):里見実訳『希望の教育学』、太郎次郎社、2001。
ブラジルの教育学者パウロ・フレイレ(1921-1997)。彼は対話による教育を生涯実践し続けた人物である。代表する著作は『被抑圧者の教育学』であり、晩年の著『希望の教育学』はフレイレ自身が『被抑圧者の教育学』を読み直したものとなっている。読んでいて気付くのは社会変革につながる識字教育と文化サークルでの対話の実践であり、教育と研究が2つに切り分けられることなく営まれることを提唱する内容となっている。マルクスを土台に理論を立てているのにもかかわらず、フレイレがいわゆる「マルクス主義者」から批判を受けていた理由もよくわかる。いわゆる「マルクス主義者」にとって、マルクスやレーニンの発想がアルファでありオメガである。そこには現実に存在する「民衆」の声を聞く必要性はなく、〈自分たちが民衆を引っ張って革命を導くのだ〉という傲慢な思いが表れている。フレイレの行動は人々との対話のなかにあった。それが「マルクス主義者」とフレイレの実践の大きな違いとなっている。
本書において、フレイレは対話による学び(里見の訳では「問題化型学習」となっている)の重要性を何度も訴える。
「もし他人もまた考えるのでなければ、ほんとうに私が考えているとはいえない。端的にいえば、私は他人をとおしてしか考えることができないし、他人に向かって、そして他人なしには思考することができないのだ」(163-164)
この対話を成立させるには、条件整備が必要である。
「教師の専横下で対話が成立しないように、自由放任主義の下でもやはり対話は成立しない。対話的な関係は、しばしばそう考えられているように、教える行為を不可能にするものではない。逆だ。それは教える行為を基礎づけ、それをより完全なものにし、また、それと関連するもう一つの行為、学ぶという行為にも刻印されることになるのだ」(164)
本書ではフレイレとよく比較されるイリイチとの違いが明確になる箇所がある(そもそも本書冒頭の謝辞の欄には多くの人名を挙げて自らの思想形成の感謝を述べているが、そこにイリイチの名は無い。また本書においてイリイチの思想が直接に言及される箇所はなく、ただ文章の流れの中でのみ数か所イリイチの名が挙げられている)。
「どの時間と空間にも立地しない、抽象的で不可侵な観念だけをとりあつかう中立的な教育実践などというものは、かつて存在したことはなかったし、いまも存在しない」(108)
フレイレは教育を一つの権力であると認めている。どんな教育実践にもイデオロギーが含まれている(例えば、「やる気のない授業をする」と認識される教員は、「学校で一生懸命やるなんて馬鹿げている」というイデオロギーを提示することになる)。フレイレに対して多く寄せられた批判である「教育実践は中立的であるべきだ」との意見に応えたものとなっている。
「基本的にいえば、ぼくにたいしてなされるこの種の批判は、意識化という概念にたいする誤解と、教育実践にたいするあまりにも甘いビジョンに由来するものだ。それは教育実践をあたかも中立たりうるもの、人類の福祉への貢献とみなすばかりで、危険をおかすことなしには実践しえないという点にこそ、教育実践のとりえがあるということが、まるで見えていないのだ」(108)
イリイチも、教育は権力であると認識する(山本哲士はさらに進んで、教育は政治であると指摘する。『教育の政治 子どもの国家』を参照のこと)。違うのはその認識後のふるまいである。教育は権力だ。そのため教育というものは放棄しなければならない、といったのがイリイチである。一方、フレイレは〈教育は権力性を逃れられない。だからこそその権力性を自覚したうえで人々の解放につながる教育実践をすべきだ〉と主張したのである(この対立が明確に表れているのが『対話 教育を超えて』である)。