ある学会発表にあったが(あとで追記する)、イリイチは「あえて」論文的でないエッセイ調で、彼の主著を書きあげた、という。『脱学校の社会』も『シャドウ・ワーク』も『ジェンダー』も、論文というよりはアジテーションあふれるエッセイの寄せ集めという感を呈している。
イリイチは「あえて」エッセイ調で記述をしたとすれば、なぜこのような書き方をしたのかという疑問が付きまとう。実際、イリイチは論理の飛躍・論理破綻が多く指摘される論者である。特徴的なのは『ジェンダー』である。男女の性差に規定した「分業」が中世社会にあったことを指摘した本書は、上野千鶴子らによって徹底的に批判された。私から見てもイリイチは上野らに批判されて仕方のない論理展開をしている。どこか話に無理があるのだ。しかし、これをイリイチの論理力のなさとして批判することはできないと私は考えている。
イリイチはCIDOCという研究センターにおいて60~70年代は研究活動に励んでいた。研究者同士のセミナーのなかでの議論が、イリイチの諸著作のアイデアの源になっている。萩原(1988)の『解放への迷路』にも、イリイチの著作がイリイチ以外の人びとによっても構成された点を指摘している。ここから考察すると、イリイチの論理性の無さというよりは、研究者どうしの種々の言説の寄せ集めであるがゆえの論理不一貫が起きていると言えるのではないか。
あるいは教育詩学のように、教育の本来持つ豊かな可能性を様々な表現技法で示すという営みに近いものであるのかもしれない。「今の社会についてこうも言うことができる」と述べるためにイリイチは「エッセイ」を書いたのではないか。