『寺山修司名言集 身捨つるほどの祖国はありや』(2003)にいわく、
「ミサイルという記号の一般化は、あきらかにミサイルそのものに先行している。
ここでは、本質が存在を先取りし、ミサイルではなく「ミサイル的」な概念が、知れわたってしまっているからである。
私たちは、次第に核弾頭をつけたミサイルのリアリティとは別に、ミサイルということばに慣れる。ミサイルは日常語の中で風化され、その恐怖感を摩滅させてゆく。(現代のキーワード)」(258)
逆説的ながら、原発に関するニュースが流れれば流れるほど、人びとは「またか」と思う。「日常語の中で風化され、その恐怖感を摩滅させてゆく」。
いうならばニュースを流せば流すほど、そのニュースの中身はインフレになり、人びとの感じる重要度がどんどん下がって行くのである。
原発報道をするニュースは、実は原発の危険性を風化させる一つのファクターであるかもしれないのである。
原発に関するニュースが毎日流されて「またか」とは思いますが,その一種の「慣れ」(今は非常事態なので通常の「慣れ」の感覚とは異なる)がそのことの重要度を下げているとは言い難いと思います.
たしかに,はじめは「原発」について知らないから余計に恐怖を感じ,その後,だんだん知識をつけるにつけ,自分に影響が少ないだろうと判断されれば恐怖感も減少していくことはあると思います.
また,たとえ危険な状況が続いていても仕事をしたり他のことをしなければならないために,意識的に恐怖感を減少させる(抑制する)ことはあると思います.
しかし,人は「原発」や「ミサイル」という言葉について恐怖を感じているというより,それが自分にとってどれだけ身近に差し迫っているのか,影響があるのかによって,恐怖を感じたり,重要性が上下するものではないかと思います.
ですから,たとえば「地下鉄サリン事件」など過去の一時期に起きた特定の事柄は風化することがあると思いますが,「原発」のような今現在身近に起こっていることを指して風化しているとは言い難いと思います.
(それに「東北関東大震災による福島原発の事故」(特定)が終息した後に風化したとしても,「原発」(一般)は風化しないと思います)
また,人はマスコミの報道に含まれる「原発」という「単語」を聞いた頻度や恒常化によって原発に対する恐怖感を変化させているのではなく,「原発」がどういう状況であるのかなどの「内容」で変化させていくものと思います.
ブログの感想(私見)
原発に関するニュースが毎日流されて「またか」と思いますね. ただ,その一種の「慣れ」(今は非常事態なので通常の「慣れ」の感覚とは異なる)がそのことの重要度を下げているとは言い難いのではないかと思いました.
たしかに,はじめは「原発」について知らないから余計に恐怖を感じ,その後,だんだん知識をつけるにつけ,自分に影響が少ないだろうと判断されれば恐怖感も減少していくことはあると思います.
また,たとえ危険な状況が続いていても仕事をしたり他のことをしなければならないために,意識的に恐怖感を減少させる(抑制する)ことはあると思います.
しかし,人は「原発」や「ミサイル」という言葉について恐怖を感じているというより,それが自分にとってどれだけ身近に差し迫っているのか,影響があるのかによって,恐怖を感じたり,重要性が上下するものではないかと思います.
ですから,たとえば「地下鉄サリン事件」など過去の一時期に起きた特定の事柄は風化することがあると思いますが,「原発」のような今現在身近に起こっていることを指して風化しているとは言い難いと思います.
(それに「東北関東大震災による福島原発の事故」(特定)が終息した後に風化したとしても,「原発」(一般)は風化しないと思います)
また,人はマスコミの報道に含まれる「原発」という「単語」を聞いた頻度や恒常化によって原発に対する恐怖感を変化させているのではなく,「原発」がどういう状況であるのかなどの「内容」で変化させていくものと思います.