小浜逸郎『先生の現象学』(1995、世織書房)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

近代ヒューマニズムの信奉者が自明なことと考えている「教育は子どものためにある」というテーゼは、別に少しも自明なことではないといいたいからである。
 教育は、もともと子どものためを思って意図されたのではない。それは発生的には共同体の維持の必要から生まれたのであって、子どもを共同体のシステムに引き込むのが目的だったのである。
 もちろん、発生期の事情が、複雑な社会構成をもつ現代にもまったくそのまま単純に当てはまるというわけにはいかない。その複雑さを考慮に入れた上で強いていうなら、「教育は、大人(の作っている社会)と子どもとの関係のためにある」ということになるだろうか。ただ、それは、近代社会が生み出した人間の実存の分裂したありかたに対応して、一つに絞り切ることができずに、「国家や社会のため」と、「個人の自由と幸福の追求のため」という二つに分かれて追求されざるを得ないのである。(pp100~101)

→内田樹のいう「既に始まっているゲームに参加させられる」状況に類似している。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください