『脱学校の社会』を読む。第6章前半(p135~159)

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『脱学校の社会』を読む。第6章前半(p135~159)

キーワード:教育的事物

 6 学習のためのネットワーク

教師と学生のどちらも、「欲求不満」。「予算、時間、建築などの教育のための資源が不十分なせいだ」(135)と述べる。
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「知識や大切に考えていることをいかにして身につけたかを明確に述べるように求められると、彼らは、学校の中でよりも学校外でより多くそれを習得したことをすぐに認めるであろう」(同)
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「学校に依存することにとって代わるということは、人々に学習を「させる」新しい考案物をつくるために公共の財源を用いることではない。むしろ、それは人間と環境との間に新しい様式の教育的関係をつくり出すことである。この新しい様式を育てるためには成長に対する態度、学習に有効な道具、および日常生活の質と構造とが同時に変革されなければならないであろう」(136)
→学校以外で「教育的関係」を新たに作っていく。社会での学び、ということか。宮台風に言えば社会システム内で人々が幸福を感じる生き方が出来るような教育プログラムを提供していく、ということになる。
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「成長に対する態度はすでに変化しつつある。学校に依存することに誇りを感じることはなくなっている」(同)
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「本章で、私は学校についての考え方をひっくり返すことが可能であることを示すつもりである」
「第一には、学生に学ぶための時間や意志をもたせようとして彼らを懐柔したり強制したりする教師を雇う代わりに、学生たちの学習への自主性をあてにすることができることであり、第二は、あらゆる教育の内容を教師を通して学生の頭の中に注入する代わりに、学習者をとりまく世界との新しい結びつきを彼らに与えることができるということである」
   
一つの意義、どこにも到達しない橋は一体誰に役立つのだろうか

「私がこれから提案しようとしている教育制度は、今日まだ存在していない社会のためのものである」
   ↓
政府や市場のイデオロギーとは違い、「学校制度はどの国でも同じ構造をもち、また、学校の潜在的カリキュラムはどこででも同じ効果をもっている。つまりどこででも、学校制度は近所の非職業的奉仕活動よりも、専門の制度によって生み出されるもののほうが価値があると思うような消費者をつくり出すのである」
→自律的に生きる人間ではなく、他者のサービスに頼る「消費者」を教育は作ることになる。
●「どこででも、潜在的カリキュラムは、(中略)助長する」
「助長する」内容は、
・「自分でやる能力を台無しにしてしまうほど他人からのサービスを受ける(消費する)ことを人々に習慣づける」:学校が「教えられるのを待つようになる」機能を持っている点をイリイチは批判していた。学校のこの機能のように、潜在的カリキュラムは人々の考える力・自分でやる力を奪ってしまう。
・「人間疎外を引き起こす生産」:チャップリンの『モダンタイムス』が描いた工場。しかし、いまはだいぶ改善されたはずだ。流れ作業だけでなく、チームで車体を組み立てる自動車工場がいまはある。
・「安易に制度に頼る」「制度の序列化を認める」:何かあると「社会が悪い」と我々はよくいう。たとえば「もっと社会保障を!」「弱者救済を!」。けれどこれらの主張は本当に自助努力を精一杯やった上で語られているのだろうか? どうも安易に頼るようになってくる。この「安易に制度に頼る」ような態度をイリッチは社会の「学校化」であると批判しているのであろう。

●国の制度に関わらず、「すべての国において学校は基本的には似たようなものになっているのである」(139頁)
●学校は「社会変革上の従属変数」ではない。「社会的経済的変革の結果として学校制度の根本的変革をなしとげようと希望することもまた幻想である」
●中国の科挙制度への高い評価。「三千年間にわたって、中国はどこでどのような教育を受けてきたかという教育の過程を問題にしないで、官吏登用試験に合格しさえすれば特権を与えることにより、比較的高度の学習がなされることを保障してきた」。
→フリースクールも同様に、「高検」を目指すならば結果的に「どこでどのような教育を受けてきたかという教育の過程を問題にしない」ことを実現できる。
●「脱学校化の必要性をはっきり認めない政治改革の計画は革命的ではない」
→学校がある限り、どの社会も「学校化」されてしまう。故に、ラディカルな社会変革のためには「脱学校化」実現により社会の「学校化」を阻止していく必要があるのだ。ただ、イリッチの先の言葉とこの言葉を見ると「脱学校化は不可能」と言っている気がする。どんなに政治改革をしても学校がある限り、社会は「学校化」する。ならば「学校化」をなるべく小さくする方向にしか政治改革のやりようがないのではないだろうか。
「1970年代における主要な政治改革の計画は、すべて次のような尺度によって評価されるべきである。すなわち、それはどれだけ明確に脱学校化の必要性を述べているか―また、それはその計画が実現しようとしている社会における教育の質をどうすべきかについてどれだけはっきり述べているかということである」(140頁)
→イリッチのいう通りである。日本の教育改革は「もっと学校でやることを増やそう」としている。だからうまくいかない。職業教育も、シチズンシップ教育も、知らぬ間に学校の中に入り込んできた。
 私の持論は学校の規模縮小(ダウンサイジング)である。学校でやることは知育のみにし、あとは学校外での学びの場・生活の場を増やしていくべきだ。これは社会システムの流れもくんでいる。これから、大人も一つの会社のみに通う時代は終わるだろう。ワークシェアリングにより、半日で会社がおわることもざらになってくる。そのとき、有り余る時間を地域のサークル活動や勉強会、スポーツクラブで大人が過ごすこととなる。大人がその社会に生きているときに、子どもが一日中学校に縛り付けられていることに違和感が持たれるようになるだろう。子どもも学校で短い時間を過ごし、なるべく多様なコミュニティーやサークルで生活していくほうが将来のためになる。「有り余る時間を何に使うか」という教育になるわけだ。けれど、これを学校が行うと本末転倒である。学校外の時間は個人の責任と自由によって使い方を決めていくべきだからだ。大人のコミュニティー活動に子どもも参加していく。そうすると、学校外での「社会での学び」が成立するようになる。
 つまり、学校でやること・学校で過ごす時間を減らしまくっていくことが、将来の子どものためになるのだと思う。

新しい正式な教育制度の一般的特徴(140頁〜144頁)

●「すぐれた教育制度は3つの目的を持つべきである」
⑴「誰でも学習をしようと思えば、それが若いときであろうと年老いたときであろうと、人生のいついかなる時においてもそのために必要な手段や教材を利用できるようにしてやること」
⑵「自分の知っていることを他の人と分ちあいたいと思うどんな人に対しても、その知識を彼から学びたいと思う他の人々を見つけ出せるようにしてやること」
⑶「公衆に問題提起しようと思うすべての人々に対して、そのための機会を与えてやること」
→⑶は政治活動の自由につながっているのだろう。
●「学習者は、特定のカリキュラムに従って学習することを義務づけられるべきでない」
●この結果、「すぐれた教育制度の下では、本当に誰もが自由に論じ、自由に集会を持ち、自由に報道ができるようにし、またそれゆえにそれらのすべてが十分に教育に役立つものとなるように近代的科学技術が用いられる」状態を目指していくことになる。

●「学校は、次のような仮定に基づいてつくられている」
⑴「人生の何ごとにも秘訣があるということ」
⑵「人生の質はその秘訣を知っているかどうかによって決まるということ」
⑶「その秘訣とは秩序のある過程を連続的にたどることによってのみ知りうるということ」
⑷「教師だけが適切にこれらの秘訣を明かすことができる」
●「新しい制度は、身元などの証明書や家柄や門閥にかかわりなく学習者が利用できる学習経路、すなわち―彼のすぐ近くにいない仲間や目上の人々をも利用できるようになる公共の広場―であるべきである」
→生まれによる文化資本やハビトゥスを排除するという構想が含まれているようだ。
●「『学習経路』、すなわち学習したことを伝授しあう機会があれば、それだけで真の学習に必要なあらゆる資源を含むことができると思う」
→「伝授しあう機会」とは、現代ではブログ空間をさすことができるのではないかと考える。イリッチの主張を実現するには生身の人間同士が会うよりも、ブログによる学習のほうが問題が少なくなるとすら考えられる。生身の相手と会うとき、相手の年齢・性別や身分という外見に引きずられ、本来の目的である自由な学びがなおざりになってしまう危険性がある。子どもと大人が出会い学ぶときにも、この危険性や誘拐・暴行の危険がある。けれどブログ空間では見た目の差別はなくなる。誰とでも対等に学ぶことができるのだ。
●4つの資源を利用可能にする特別な方法:「機会の網状組織」。
「必要なのは、公衆が容易に利用でき、学習をしたり、教えたりする平等な機会を広げるように考案された新しいネットワークである」
例:ラテンアメリカにおけるテープレコーダーのネットワーク構想。「字の読める者にも読めない者にも同様に彼らの意見を録音し、保存し、広め」ることできる点が構想の理由である。このネットワーク構想にはフレイレの影響があるように思われる。フレイレの学校によらない識字教育は、政治闘争の側面も持っていたからだ。衆愚政治を出し、よりよき民主政治を実現するための方法として、このネットワーク構想が挙げられているように思う。
●「科学技術自体は、人々の自主性を伸ばし、学習を発展させる目的のためにも、あるいは官僚主義と他人に教えることを発展させる目的のためにも、利用できるのである」
→何のために科学技術を使うかが重要である。

四つのネットワーク(144〜146頁)

●「『何を学ぶべきか』という問いからではなく、『学習者は、学習をするためにどのような種類の事物や人々に接することを望むのか』という問いから始めなければならない」。
→制度として個々人の学習を考える(「何を学ぶべきか」という「べき論」)のではなく、学習者主体の学習観が必要である。ちょうど、近代公教育が「国民育成」(「べき論」)から始まったことと軌を一にしている。
●「学習をしたいと思う人は、自分にとって情報と、その情報の使い方に対する他人からの批判的反応との両方が必要であることを知っている」
→あんまりいい訳じゃない。「学習をしたいと思う人」がここでいったことを「知っている」ことなんてそんなにあるわけじゃない。
→集団による学びをイリッチは意図しているようである。正統的周辺参加、と教育心理学でいわれている。参加による学び、である。学びにおける同僚性の重要性は「従来、教育のための資源とは考えられなかった」(145頁)。あまり意識されてはいないが、イリッチは「集団による学び」の重要性も指摘しているのである。
→ソーンダイクらのティーチング・マシンの欠点は、学習を単独での営みだと捉えた点である。正統的周辺参加を意識した学びでなければ、よほど意志力のある学生でないと学ぶことができない。大学の通信教育課程での卒業者が2割以下に留まるのはそのためである。通学していれば、たとえ友人がいなくとも「自分以外にもこんな人たちが同じ授業を受けているのだな」と実感し、学習にいそしむことができる(通学課程のほうが圧倒的に単位がとりやすい、という側面ももちろんあるが)。
●「われわれは、新しい関連構造について考えなければならない。それは、教育のための資源を求めようとする誰もがその資源を便利に利用できるように意図的につくり上げられる関連構造である」
→ブログ空間は知らぬ間にこれを作り上げてしまった。ブログ空間が学習に使える、ということを多くの人は知らないだけであるのだ。
●「どんな教育のための資源も利用できるようにしてくれる様々なアプローチを、4つに分類して示そうと思う」
⑴教育的事物のための参考業務:「正式の学習に用いられる事物や、過程の利用を容易にする」
→工場内に自由に使える機械を置いておくなど、人々が自由に学べる機会を保障する働きがある。
⑵技能交換(160頁から)
⑶仲間選び
⑷広い意味での教育者のための参考業務

教育的事物のための参考業務(147〜159頁)

●「ある人の環境の質と彼がその環境に対してどのような関係にあるかは、彼がどれだけ多くを偶然に学ぶかを決定するであろう」
→文化資本やハビトゥスにつながる話である。通常、経済的に貧しい家に生まれることは、文化資本の貧しい家に生まれるということと同義である。
●以下の部分で、機械や道具・書物などを自由に使えるよう環境整備することによって「偶然による学び」が起こるようにしている。イリッチはそれにより、文化資本やハビトゥスの不公平さを是正しようとしている。
→いま公立の無料の博物館や郷土資料館が多く街には存在する。けれど、十分に活用されていると言えるのだろうか? 子どものまわりに「偶然による学び」が起こるようにいろんなものを配置したとしても、それが活用されるかどうかはまた別問題なのではないだろうか。
●機械それ自体への、イリッチの批判。専門家しか時計をいじれなくなったこと等を通じ、彼はこういう。
「専門家がその専門的な知識をわかりにくくし、他人の値ぶみをますます不可能にして、人々の発明心を抑制する社会となることを促進する傾向がある」
→近代文明はブラックボックス化をもたらした。たとえば、今私はマック・ブックでこの論考を書いている。この白いPCの内部がどうなっているか、私は知らない。カラフルなコードが複雑に絡み合っているのかもしれないし、一枚の小さなLSDが全てを制御しているのかもしれない。ひょっとすると小さな妖精が入っているのかも…。内部構造を知らなくても、パソコンは使えてしまうのだ。これぞブラックボックスである。
「教育上の材料は学校に独占されてしまっている。簡単な教育用の事物が知識産業によって高価に包装されている」。知のブラックボックス化・知のパッケージか。文明のあり方への再考が必要だ。
●本来、教育の役に立つはずの「事物」が日常から切り離される。学校や社会のしわざだ。
●「物をカリキュラムの一部分としてのみ利用することは、それらを一般的な環境から取り去るだけのことよりも一層悪い影響を与える。それは、生徒の態度を堕落させるのである」
●「教育用のゲーム」を積極的に活用していくべきだ。そうすれば数学の集合論や言語学などが「ほとんど骨を折らずに理解できる」。
→ニンテンドーDSでは英単語『ターゲット1900』や数学の問題集、歴史用語学習に役立つソフトが多く出ている。宅建用のソフトも出ている。「教育用のゲーム」を活用するイリッチのアイデアは、かなりの程度実現している。授業の中で「じゃ、この時間はDSを使って自由に学習してください」という時間はまだないが…。
→イリッチは続けて、「教育用のゲーム」が競争を刺激することがないようにすべきだ、と指摘する。問題児とされる子どもなどには「教育用のゲーム」は「人間性を解放する教育の特殊な形態」となる。
●ここまでのイリッチの指摘は学校の「外」に教育用の事物を多数配置していくべきだ、というものであった。イリッチはこれらの事物が学校に置かれていると、管理や保管をするのに多くのコストがかかるという論を展開し、先の「学校外に教育用の事物を配置していくべきだ」との主張を別の視点から説明している。
●トランジスタラジオや小型運搬車の例。ここから皆が必要に応じて活用できる「相互親和的」な設備を社会に設けていく必要性が語られる(「制度スペクトル」の欄を参照)。
●「人工的に作られたものを教育のために脱学校化するためには、その加工物や製造過程を誰にでも利用可能なものとし、―それらの教育的価値を認めること―が必要となるであろう」
●イリッチは「もしも学習の目標 」と語る。そのあとに社会の至る所に学習を気軽にできる施設(図書館やジュークボックスなど)が多く作られることの重要性を語る。けれど、ここでいったものをわざわざ街の中に作るとき、田舎では難しいものとなる。現代ではそこまでしなくても、ネットで音楽も調べられれば写真を持ってくることも出来る。
 ただ内田樹は大学や学校にいろんな人がいて、知らぬ間に学びに引き込まれることの重要性を語る。人との出会いが少なくなる現代、あえて社会の中にネット同様の多様な教育的事物との出会いの場を設けることが大事なのだと思う。
●「学習用事物」のネットワークの財源をまかなう2つの方法。
学校の「儀礼的」側面に使われている費用を、市民の教育のための事物購入費用に充てる。
●子どもを少しの時間雇う者に税制上の優遇を行うべき、との主張。「12歳の少年が制限なしに社会生活に参加する責任を持つ人間であると認めることである」
。そうすることで「彼らは、知識や事実を発見する彼らの能力を民主政治上の仕事に活用できるようになろう」。徒弟制度の意義を再確認する必要がある。
●ある思想家は「社会における教育の意義を考えるのではなく、教育のために社会が何をできるかを考えるべきだ」というパラダイム転換を主張した。いわゆる「教育のための社会」の主張である。イリッチの本を読んでいると、この「教育のための社会」という構想を実現しようという志が感じられてくる。
●「科学の多くは市民の手の届かないものになってしまった」現状への批判。教育的事物を社会に配置することでこれを解決しようとしている。
●「教育の目的で人々が共有できるそれらの事物をどんどん利用していけば、われわれは十分に啓発され、これらの究極的な政治的障壁を突き破るのを大いに助けられるかもしれない」。
→いまリナックスなどのオープンソースのソフトウェアが多くある。ネット空間では、データを一人で独占するのでなく、多くの人が触れることのできる「共有」化する時代に入った。
●「学校を制度的に逆転させれば、個人は教育のためにそれらを用いる権利を取り戻すことができるようになろう」。

追記
●シャノアールでこのレジュメを作成している。店員が走ること、走ること。少ない人員でがんばっている店なのだと同情心が起こる。奥でガラスの割れる音が頻繁にあるのには閉口する。

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