金銭やものを媒介にしての教授でなければ、人は学習しないのではないか仮説。

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金銭やものを媒介にしての教授でなければ、人は学習しないのではないか仮説。

論語にはこうある。
「先生がいわれた、「乾肉(ほしにく)一束を持ってきたものから上は、[どんな人でも]わたしは教えなかったということはない」(金谷治訳注『論語』岩波文庫, 130頁)
ここを大幅に飛躍して解釈すると、
人に物を教える際、必ず何か「代価」を払わせるということが重要、とは言えないか。
学ぶモチベーションを簡単に上げる方法。
それが相手から幾ばくか金を取る、ということだ。
孔子の場合は目上の人へ教わる「礼」として、「乾肉一束」がルールであった。
このように何かを受け取るからこそ、学び手の側に「学ぼう」というモチベーションが起きたのではないか。
無料でやる芝居は客の反応が薄くなる、という。
たとえ500円でも払わせないと、客は主体的に芝居に関わろうとしない。
「金を払っているのだから、もとをとろう」と主体的になる。
だから無料で芝居をしてはならないのである。
教育もそうである。
授業は一方的な「贈与」であると解されている。
それゆえ、生徒は「受け身」になる。
教室でただ受け身で授業を聞くだけならば、本当につまらない。
「内職」だってしたくなるし、そもそも授業に出る意味がわからない。
(厳密にはちゃんと「授業料」が親なり、地方自治体からなり払われているのだが、生徒から直接払われていないため、リアリティがない)
しかし、仮に授業の際に500円を払うなり物納を義務付けるとどうなるか。
生徒は少なくとも「もと」を取ろうとする。
教員に多くを求めるようになる。
「授業」に値しない授業を堂々と批判できるようになる。
これは教員にとっても、授業実践に反省的関わりをすることを求めさせる(佐藤学のいう「反省的実践家」としての教師、である)。
教員の「自己研修」の必要性が高まる。
「お金をとれるほどの授業をしているのだろうか」と自己を振り返ることになるからだ。
(余談だが、私の勤務校でははっきりと「あなたの授業は商品になるか」を教員に求めている)
私は今までいろんな授業を受けてきて、「授業」に値しない無意味な授業も多く経験してきた。
そういった教員に反省を求めることも、「金銭」や「もの」を授業に際し受け取ることで可能となる。
内田樹は「不快貨幣」についてを述べる。
いまの「若者」がだらだら授業を聞き、だらだら過ごすのは、意識的に「自分は不快だ」という思いを相手に伝えるためだ、
と述べる。
これは「つまらない授業をなぜ私は受けないといけないのか」という思いに対する返礼である。
「つまらない授業」を一方的な「贈与」として受け取る分、何かを反対給付剃る必要がある(モース『贈与論』以来のテーゼだ)。
それが「不快貨幣」だ、と内田樹は説明するわけである。
この内田樹の説明を「乗り越える」には、授業に対し授業料をその場で払うか、物納をするということがあげられるだろう。
これにより、少なくともこの授業に対し自分は幾ばくか金を払っているのだ、という認識を与えることが出来る。
だからこそ、「役に立たない」授業・「つまらない」授業(両者は微妙に違うのだが、ここでは一括する)を生徒自身が見極めることができるはずである。
孔子だって、無料では相手に教えていない。
「労働」である以上、これは仕方ない。
しかし、「金が取れる」ような授業をしているかどうかは教員が常に自覚的であるべきであろう。

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