『学校の悲しみ』としてのイリイチの教育観

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 ダニエル・ぺナックの自伝的小説に『学校の悲しみ』がある。落ちこぼれとして過ごし、学校に対し深い「悲しみ」を持って過ごす主人公の姿が印象的である(しかし彼は結局は教員になり、ずっと学校にとどまり続けることになるのだが)。

 「落ちこぼれ」へのまなざしは、しばしば小説や映画のテーマとなる。映画『大人は判ってくれない』の主人公の少年の姿から、学校に「不適応」とされることの「悲しみ」を感じ取ることが出来る。この悲しみはブルデューのいう「象徴的暴力」である。

 この「落ちこぼれ」へのまなざしであるが、イバン・イリイチの発想の原点にも存在している点に気付くようになった。彼は脱学校論deschoolingで有名だが、それを主張した理由の一つに皆が「学校化schooled」されることで「学校の悲しみ」を経験するようになる、という点がある。

「人の受けた教育化の分量が多ければ、それだけ中途脱落の体験は気持ちを打ちひしぐものとなる。第七学年で落ちこぼれたものは、第三学年で落ちこぼれたもの以上に、自分の劣等性を強く感じるものだ。第三世界の学校は、かつての教会がやっていたよりもさらに効果的に、特製の阿片を投与している。社会の気持ちが次第に学校化されるにつれ、それを構成する個人も、何とか他人に劣らずに暮らしてゆけるかもしれないという意識を段々と失っていく」(『オルターナティブズ 制度変革の提唱』220頁)

 他の個所でも、第三世界(いわゆる途上国)に学校を建設することは、今までに人々が経験しなくてもよかった「落ちこぼれ」る体験を多くの人びとに与えることとなる。学校から落ちこぼれ、ドロップアウトしてしまうと、精神的に自己否定されるだけでなく、学校に残り続けることのできる一部の人間がより多くの公費で高度の教育を受け、社会の上層に到達するのを黙って見つめなければならない。

「プエルトリコでは一〇人の生徒のうち三人が、第六学年も終わらぬうちに学校から落ちこぼれる。このことは、平均以下の所得の家庭からくる児童の場合、二人のうちわずか一人しか初等教育を修了しないことを意味する。こうして、プエルトリコの両親のうち半分は、もし彼らの子供が大学に入るチャンスが見せかけだけでなく本当にあるのだと信じているとすれば、悲しい幻想にとらわれていることになる」(ibid,173頁)

 ブルデュー等の再生産論者の言を用いるなら、高い文化水準のもとに育つ人々(高ハビトゥスをもつ人)は学校においても好成績を修められる「遺産相続者」(『遺産相続者たち』)である。そのため他の人々よりも高等教育進学の可能性が圧倒的に開かれている(『再生産』)。

 学校制度がなければ、学校由来の「悲しみ」を経験しなくても済んだのだ。学校への違和感から自殺をした小学生・杉本治の遺書にも「学校がなければみな自由だった」(『小さなテツガクシャたち』)と書かれていた点は示唆的である。
 学校制度を確立させることは、ユネスコや国連が早急に途上国に求める政策である。実際、途上国に学校を作るプロジェクトは数多い。私たちはその取り組みを手放しで礼賛する。どこかで「学校の悲しみ」に出会った経験があるはずなのに。学校制度が出来ることは、「学校の悲しみ」をその国民全体が経験させられることを意味するのである。

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