フレイレ『自由のための文化行動』抜粋ノート

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Freire, Paulo(1970):柿沼秀雄・大沢敏郎訳/補論『自由のための文化行動』、1984。

「第三世界の非植民地化によって切り拓かれた道、それは全人類の真の解放へ向かう道か、あるいはもっと巧妙に仕組まれた飼いならしへ向かう道か、ふたつにひとつしかない。したがってそれは、教育の意味と方法の再検討を迫っている状況なのである」(4頁)

「どんな教育も中立ではありえないということである。飼いならしのための教育か、自由のための教育か、このふたつがあるだけである。教育は、常識的には条件づけの過程と考えられているけれども、同時に条件を突破するための道具にもなりうる。教育がそのどちらになるか、最初の選択は教師の手に委ねられている」(6)

「私たちの行う選択が人間のためのものであるならば、教育とは、自由のための文化行動であるがゆえに、記憶行為ではなく、認識行為にほかならない。それを明らかにすることが、成人識字過程を論ずるこの本の根本目的のひとつである」(11)

「それゆえ、(構造の―訳者)内側で生きる存在になるのではなく、自己解放を遂げて人間になること、それこそがかれらの問題を解決することなのだ。なぜならば、その実かれらは、構造に対してマージナルな存在なのではなく、構造内部の被抑圧者だからである。疎外された人間であるかれらは、自分たちを従属させるにいたっている構造そのものに統合されることでは、その従属性を克服することができない」(18)

「根本的には、私が『被抑圧者の教育学』で指摘したように、被支配階級が支配者の生活様式を再生産するわけは、被支配者の内部に支配者が宿っていることにある。被支配者が支配者を放逐できるのは、支配者から距離をとって、みずからを客観化する場合だけである」(31)

「何よりもまず、人間を、世界のなかに、世界とともにある存在として批判的に捉えることから始めなければならない。意識化のための基本条件は、その行為者agentが主体、つまり意識的存在でなければならないということである。したがって意識化とは、教育と同様に、すぐれて人間的な過程なのである」(59)

「真の親交には、当然、世界によって媒介される人間と人間との交流communicationが含まれている。意識化を実現可能なプロジェクトにするのは、唯一親交という脈絡のなかにすえられた実践だけである。意識化は協同の事業である。それは、この協同の事業に取り組む他者のなかにいるひとりの人間の内に、つまり自分たちの行動によって、またその行動と世界に対する省察とによって結ばれた人びとのなかで生きるひとりの人間の内に生起するものである」(105−106)

次はイリイチへの批判とも察せられる内容である。
「人間は、未完成の、そして未完成であることを意識している歴史的存在である。だからこそ革命は、教育がそうであるのと同様に、人間の自然で永続的な次元なのである。教育はある時点に至ればなくなってよいのだとか、革命は権力を握ればそれでおしまいにしてよいのだ、などと考える者がいるとすれば、それは機械的心性の持主だけである。革命は、それが真正であるためには、永続的な出来事でなければならない。そうでない場合、革命は、革命であることを止めて硬直した官僚制に変質するだろう」(117)
→永続革命としての教育である。つねに自身がドクサにとらわれいないかに自明的である必要がある。

(訳者あとがき)「フレイレの方法が日本における生活綴方の教育方法と実によく似ていることに気づかされる。書くということに執着したこの教育方法が、子どもを取り巻く生活現実に取材し、書き、書いたものを読み、討論する主体をあくまで子ども自身にすえた、という点でも、フレイレの認識主体論と共通している」(189)

(訳者あとがき)「識字とはたんなる文字言語の習得ではない。それは、ことばあるいはみずからの表現を奪われて〈沈黙の文化〉の淵におとしめられている人間たちが、他者や物・事との親しい交わりのなかで、みずからのことばと表現を奪い返し、沈黙を強いる抑圧的な現実世界の深層に潜む文法を読み取って、その現実を変革する批判的主体にみずからを形成していく〈意識化〉の文化過程を指すものである」(191)

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