Michael W. Apple (1982):浅沼茂・松下晴彦訳『教育と権力』、日本エディタースクール出版部、1992。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

「ヘゲモニーとは、私たちのごく日常的な実践により構成されているものである。私たちが知っている社会的世界、すなわち、内在的カリキュラムや教授、評価といった教育制度の諸特徴が相互にかかわっているような世界を作りあげているのは、私たちの常識的な感覚や行為の集合全体なのである」(62)

「学校は再生産以上のことをしている。学校はまず権力集団の文化や知識の形態と内容を取り上げることにより、続いてその形態と内容を、保存され伝達されるべき正統な知識として規定づけることにより、文化的手段の特権を維持するのに役立っているのである」(65)
→バーンスティンの言語コード論を思い出す。

「要するに、先進資本主義国にはひとつの公教育制度があるというのではなく、実際には二つの制度が同時に存在するのである。それぞれの公教育制度は、学習者の社会的階級と経済的軌道に合わせて、異なった規範と価値、そして性向を教え込むのである」(69)

「国家は科学研究や労働力の教育や訓練のような事柄のコストを社会的に認めてしまうのである」(83)

「まさにこの労働文化が、単なる対応理論によって描かれた規範よりもかなり充実した別の規範の発展がありうることを示すのである。この規範が、労働者のレジスタンスのための場、技術や操業速度、知識の部分的なコントロールを可能にし、また生産部門の完全な細分化ではなく集産性を、そして経営者が要求する速度からの自立性を可能にする」(120)

・アップルは労働者論の一環として教員を例に出す。(139)

Willisが描いたようなラッズたちは「同じ学校で、生徒たちは、より徹底して別のことをする。すなわち、彼らは、学校の顕在的・潜在的カリキュラムを率直にはっきりと拒否するのである。数学や科学、歴史、職業教育等々を教えている教師は、可能な限り無視される。時間厳守、几帳面さ、従順といった、より経済に密着した規範や価値を明確に教えても、最大限に忘れ去られてしまうものなのである」(152)

「実際に生じているのは次のようなことであろう。すなわち、生徒を勇気づけ、また、学校によって描かれるイデオロギー的価値に反抗しうるような労働者階級のテーマと態度を生徒が学校の日常生活の中で発達させるのを、何かより進歩的設定が制約すると同時に促進しているという点である。抵抗や権威の転覆、システムの操作、気晴らしや楽しみの創造、学校の公式的活動に対抗するための非公式グループの形成など、これらすべては、管理者や教師が望むものとは正反対のものであるが、具体的には学校によって生み出されている。したがって、もし労働者が相互に交換可能で、仕事自体が画一的で一般化されており、職種による内容の差がないとすれば、学校はラッズが見通す目を養うのを可能にするという点で、重要な役割を果たしているということになる。しかしながら同時に、そこには、結局のところ、そのような労働者階級の若者を労働市場につなぎ止め、一般化した、標準的労働市場へと準備させることになるという意味で制約があるのも明らかである」(160-161)

「提唱されている改革を単に組織的な調整の中で考慮することのみならず、何が実際に教えられ、何が教えられていないかということも同様に重要である」(205)

「私の議論の多くは機械的な再生産理論に対する概念的・経験的批判であった」(261)

「多くの再生産論(アルチュセールがその最初の例であるが)の主たる概念的・政治的弱点のひとつは、「それらが、学校の子どもたちや教師のレジスタンスの能力を正当に評価していない」という点である。つまり、学校がジェンダーに関する諸関係、生産の社会関係を再生産するのに役立っているという点を把握するのは重要であるけれども、「「学校が関与していないと思われるところで」学校はまた、歴史的に特殊なレジスタンスの形態を再生産しているのである」。これらの諸点は明らかに私たちの学校論議にのみ限られるものではなく、職場や家庭などにもあてはまる」(263)

ピーター・ドライヤーを引いて
「教師は、生徒に対し、語る内容によっても、また語らない事柄によっても、生徒の仮定、価値、好みを形成するのを助長している」(275)

訳者解説
「労働者が、単なる手足として働かされるのではなく、自らの手足を自分の意思で動かすことのできるように、頭脳の部分を取り戻すために自治と団結を主張するのは、人間の権利として当然である。それと同じように、教育における合理主義とシステム志向に抗して、教師も教育実践の頭脳を取り戻す必要があるというのがアップルの主張である。(…)近代的な目的合理主義の枠組みが、アメリカの教育の現実をいかに惨めなものにしてきたかを示す証拠でもある」(340-341)

コメント
・全体的に言って、アップルは「学校」というのみで学校種をあまり問題としていない。これは「学校」全体に対する議論としては有効だが、個別の学校種に着目する場合、弱みになる可能性がある。
・P. Willisらを検討し、学校における生徒文化に着目した第4章は、「内職」を研究する者として興味深い内容だ。
・「抵抗」としての実践に注目するアップル。労働者としての教員像という観点から、本書5章において単純労働者化したアメリカの教員像を批判する。
・273ページなど、マルクス的すぎて違和感を覚える個所がある。また、まず主体の「抵抗」ありきで議論がなされている感がある。
・授業や教育への「抵抗」の形態をアップル(1982)やウィリス(1977:『ハマータウンの野郎ども』)は描くが、これらは授業を受けることの拒否であり、授業中に別の学習をするという「内職」形態は描かれていない。ここに注目することで自分の研究を立てられるのではないか。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*

CAPTCHA