安川一編(1991):『ゴフマン世界の再構成』、世界思想社。

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「われわれは、〈共在〉のなかにいて、「秩序」を感じ続けている。なぜか。――ここに、相互行為の日常慣行の働きがみえる。つまり、われわれは相互行為のなかで、いわばこの慣行にハマリ続けることによって秩序を現実化させている。日常慣行の着実な堆積こそが秩序なのである」(ⅱ)

→ゴフマンもプラチック(慣習行動)について述べている。その点で、ブルデューと繋がっている。両者をふまえた研究は存在しているのであろうか。

「ゴフマンの分析の対象、それは、人が他の人たちと居合わせている状態、つまり〈共在〉であった。その脆くリスキィで、しかし弾力性ある心地よい秩序が、さまざまな観察と考察に付されている」(2)

「経験とはフレイミングである。無関係なもの、曖昧なものが排除され、そのことの正しさを保証するものが当のフレイム内的世界のなかに求められる、そうしたことにかかわるプラクティスの作動を通して個々の経験が組みあがる。しかも、フレイミングとは、経験の組織化にともなう、あるいはこれを支える活動の組織化でもあり、したがって関与の組織化でもある」(11)

「制度とシステムの現状がいかに抑圧的、加虐的であっても、人はその再生産に「自発的に」加担していく。カテゴリカルに差別され続ける女たちがそれでも自然な性差を信じ続け、スティグマを付与された人たちがそれでも現行秩序に居場所を求めつづけているように。相互行為プラクティスへの習熟、その結果として馴染んだ経験の安定性と圧倒性をリアリティとよぶなら、人は、このリアリティのなかでまさしく眠っている」(23)

「ゴフマンの社会学とは、〈間身体的行為〉の社会学であり、〈間身体的行為〉の社会学とは、〈間身体的行為〉に関する規範・規則を記述すること、つまり〈間身体的行為〉の秩序構造を分析することである」(38)

「人びとはドラマトゥルギィ的感覚をもち、ドラマトゥルギィ的実践活動を実行している特徴があり、市民=公民の「ドラマ」をまじめに考え実演している。ドラマトゥルギィ的枠組みは、英米社会における日常の舞台で生起する社会的相互行為の大部分の特性を示している」(40)

「さまざまな状況の定義に関する公然の対立を回避することが望ましいときにも単一の状況の定義が存在している。参加者たちは共同して単一の状況の定義に寄与しているのである」(46)

→「内職」論に繋がる。学校の授業という「状況の定義」を、「内職」実践者はやはり支えている。授業ゲームを維持する働きがあるのである。

「状況の定義は単に主観的に実行されているのではなく、社会的場に限定されながら投企されているのである」(51)

「日常世界では、会話の相互行為の可能性が物理的に生じると、自己に関する儀礼秩序が作動して、それがメッセージの流れを誘導する手段として機能することとなる。社会化された相互行為者は、会話の相互行為を自己についての儀礼的配慮をもって取り扱うのである。コミュニケーションの間にメッセージの流れを誘導するシステムは、儀礼規則のシステムである」(55)

「ゴフマンにとって自己は、個人レヴェルの心理現象ではなく、間身体レベルの社会的事象である。神聖な自己は相互行為上の儀礼規則から築き上げられた一種の構成体であり、したがって〈間身体的行為〉において儀礼秩序上、状況適切的に注意して取り扱わなければならない儀礼的な産物である」(57)

「こうした自己の産出を担っているのが実のところ、〈間身体的行為〉の秩序構造・儀礼原理なのである」(59)

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