映画評:『Stand by me ドラえもん

寺山修司。
彼はいまや高校教科書にも登場する人物である。
(本人が生きていたら、おそらく辞退しただろうが)

彼の主義。それは心理的サヨナラ主義。

「花に嵐の喩えもあるさ
サヨナラだけが人生だ」(井伏鱒二)

教育は、ハッキリ言って虚しい側面を持つ。
それは教育の目的が、教育者への「サヨナラ」とつながりあっているからだ。

映画『Stand by me ドラえもん』は感動作である。
なぜ感動作なのか。
それはドラえもんの活躍自体が「サヨナラ」とつながりあっているためである。

 

これまでのドラえもんの全作品の総集編的意味を持つ本作。
ドラえもんの役割が「のび太の不幸な未来を変更するためのコーチ」として描かれる。

 

ドラえもんはのび太の未来を変更しない限り、未来に帰ることは出来ない。
原作にはなかった設定である。

この設定のために、ドラえもんは原作以上にのび太の成長およびのび太の未来の変更に必死になる。

のび太自身の「未来を何とか変えないといけない」という願望と、
コーチであるドラえもんの「のび太の未来を変えないと、自分が未来に帰れない」という要望とが一致する。

コーチの動機も、クライアントたるのび太の動機と一致するのである。

それゆえ、原作ではものすごく時間がかかったドラえもんとのび太との「出会いと別れ」が、本作では恐ろしいほど早く実現されるのである。

 

さて。
一度ブログで書いたこともあるが、ドラえもんの虚しさは「自分が不要になるように、のび太を成長させる」という矛盾した存在であるところにある。

「あんなこといいな/できたらいいな」を実現する主体たるドラえもんは、
全知全能の神にも近い存在だ。

そんな存在がいると、のび太がますます駄目になる可能性がある。
そのなかでドラえもんは、自己が不要になるように少しずつのび太を成長させていく。
そしてコーチたる自分がいなくても大丈夫なようにしていく。

内田樹ではないが、人は「自己が不要になるように努力する」人に対し感動を覚える。
「夜回り先生」も、自分がいらない社会を目指すがゆえに、人に感動を与えている。

 

「未来を変えるプロジェクト」としてのドラえもんのストーリーなのである。
のび太の成長を支えるのが「ひみつ道具」である。

「どうせ」といって諦めていたらいつまでたっても今のまま。
だから「未来変更プロジェクト」が必要になってくる。

 

教育は教育を受ける側が「コーチがいなくても、自分で何とかする力」を学ぶことにゴールがある。

そこにの虚しさがある。
みずからの主体になる努力。
ものを考え、自分で何とかする力。

それを学び、一度コーチと「サヨナラ」するからこそ、
本作はラストでコーチとの友情関係を成立させることができる。

 

 

真の教育。
それは単なる教育者-被教育者関係を超えてこそ成立する「友情」のことを言うのかもしれない。

 

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