2010年 3月 の投稿一覧

これからの時代に必要な知識について。

 昨日、友人たちと読書会。自発的な「学びの共同体」の実践は面白い(逆に言えば、制度的な「学びの共同体」は時に地獄となる)。広田照幸の『教育』をもとに話し合った。

 そのなかに、広田は個人化とグローバル化の教育界の「一つの代案」として、次のように語っている。

第三に、分配に軸足を移した経済システムという前提のもとでは、知識重視型の教育が必要なのではないかということである。(93頁)

 このあと暫く説明が続くが、どのような「知識」を重視すべきなのかという言及はないままだった。この部分を読書会では話し合ったのだが、本稿では私の考えを述べよう。
 これからの時代に必要な知識。それは3R’s(読み書き計算)と「学び方を知る」ことだと思う。前に「これからの時代における大学受験の意義」という一文を書いたが、まさに「学び方を知る」ことが必要なのだ。
 時代はどんどん変わる。一之瀬学『誰も教えてくれない[学習塾]の始め方・儲け方』には、自分の指導法に絶大な自信を持つあまり、自分のやり方が時代に合わなくなってもそれに拘泥し、結果どんどん塾が廃れていくという個人塾経営者の話が出てくる。かつて栄光を放った「自分のやり方」に固執する限り、食えない時代になったのだ。「万物は流転する」。ゆえに自分を変革させ続けねばならない。
 変革には何が必要か? それが「学び」である。例えば塾経営者ならばどんな教材を用いえるべきか。どのようなやり方で授業をするか。それらは経営者自身が学ぶことで可能となる(コンサルタントに頼りすぎるのはある意味での「学校化」。自分で何もしなくなり、結局はコンサルタントのサービスを受けることしかできなくなる)。ネットでは情報がある触れている。それらをどう活用して知識を得、生かしていけるか。それらもすべて「学び方を知」っていることによって決まるのである。
 必要なのは学びを実現させる学びの方法論を習得することである。
 注意すべきは、「学び」は強制的に行わせるものではないということだ。イヤな人は別に無理して学ばなくてもいい。けれど、「学ばない」人間が生きにくい世の中になっているため、少なくとも「学び方を知る」ことだけは皆が習得していなければ、路頭に迷う人々が出てくる。
 ボボスという生き方について、橋本努の『自由に生きるとはどういうことか』に描かれている。

その特徴を一言で言えば、文化的な創造を求めてあらゆる努力を惜しまない人々、ということになるだろう。ボボズは「創造としての自由」を人生最大の価値とする。(220頁)

 「創造としての自由」を求める彼らは、常に自分を磨くこと/向上させることに余念がない。フィットネスやスポーツだけでなく、学習もひたすら行う。その結果、ボボスは新たなエリート階級になろうとしているのである。
 
 これからの時代、「学び方を知る」ことの意義が一段と高まっていくことであろう。

イェーリング著、村上淳一訳『権利のための闘争』(岩波文庫、1982)

 かつてシェイクスピアの『ヴェニスの商人』を読んだ時、はっきりいって≪血を出さずに肉だけを1ポンドきっかり切り取れ≫と裁判官に言われたシャイロックが、気の毒で仕方なかった。そのため、イェーリングがシャイロックの弁護にあたる論理を展開している本作は、非常に興味深かった。

このユダヤ人(石田注 シャイロックのこと)は権利を騙し取られた、と言ったのは私の言いすぎだったろうか? むろんこれは、人道のためになされたことである。しかし、人道のためであれば不法は不法でなくなるものであろうか? かりに神聖な目的が手段を正当化するとしても、なぜそのことを判決の中で行わず、判決を下したあとで行ったのであろうか?(18頁)

 「権利を騙し取られ」ることに対し、イェーリングは注意を促している。

何の苦労もなしに手に入った法などというものは、鸛(こうのとり)が持ってきた赤ん坊のようなものだ。鸛が持ってきたものは、いつ狐や鷲が取っていってしまうか知れない。それに対して、赤子を生んだ母親はこれを奪うことを許さない。同様に、血を流すほどの苦労によって法と制度をかち取らねばならなかった国民は、これを奪うことを許さないのである。(41~42頁)

 日本国憲法は別名「権利のカタログ」。あらゆる権利が突然認められた。そのため日本人にとって権利は「何の苦労もなしに手に入った」ものである(昔からこんなことをいう人って結構いますね)。ゆえに自己の権利は簡単に奪われてしまう。
 そのため、イェーリングは「権利のための闘争」を行え!と叫ぶのであるが、それは別にクレーマーになれ、ということを意味しない。

自己の人格を害するしかたで権利を無視された者はありとあらゆる手段で戦うのが、あらゆる者の自分自身に対する義務なのである。そうした無視を黙認する者は、自分の生活が部分的な無権利状態に置かれることを認める結果[権利能力の部分的放棄]となるが、そんなことにみずから手を貸す自殺的行為は誰にも許されていないのだ。(52頁)

 「自己の人格を害する」時に、「権利のための闘争」を行うべきなのだ。
 現在、私はフリースクール全国ネットワークのボランティアをしている。そのネットワークの中でオルタナティブ教育法という法律案の作成が続いているが、これもフリースクールに通う子どもたちが「自己の人格を害」されているからこそ、作成するものなのだ。不登校というだけで付きまとう「ダメな人」という視点、行政側から何のサポートもなく教育を自費で受けるという点えとせとらetc。こういう「権利のための闘争」は積極果敢に行っていかねばならないはずだ。

 本作のラストはゲーテの次の文章の引用で締められる。

智慧の最後の結論は斯くの如し。
自由と生を享受して然るべきは、
日々それを勝ち(石田注 原作だと旧字体)得ねばならぬ者のみ。(140頁)

 〈自由になろう〉とする者のみが、自由になることができるのである。同様に、権利を勝ちとるために戦う者のみが権利を勝ち取れるのだ。
 権利とは誰かに与えられるものではない。自分の力で、勝ち取るものなのである。かつて、高校現代文の教科書に『「である」ことと「する」こと』(岩波新書では『日本の思想』に掲載されています)という丸山真夫の文章が出ていた。その結論は、≪権利を行使「する」ことなく、権利者「である」ことに安住すると、自分の権利がなくなってしまう。ゆえに権利のためには常に権利を行使し続けないといけない≫というものであった。おそらく丸山も『権利のための闘争』を参考にしてこの文章を書いたのであろう。

プレジデントファミリーの気持ち悪さ

私はプレジデントファミリーという雑誌が好きになれない。中学受験ありきの話しかしないからだ。あとは「子どものやる気を引き出す」など、親による子どものコントロール欲を感じてしまう。

城山三郎の小説『素直な戦士たち』。東大にいくことを至上目的とする母親に振り回される子どもたちの姿と彼らの反乱が描かれる。

プレジデントファミリー読者の将来が、こうならないとは誰も断言できないであろう。

塾という教育の場(トポス)

 一之瀬学『誰も教えてくれない[学習塾]の始め方・儲け方』(ぱる出版、2007)読了。 

 塾経営の難しさを知る。
 そこにあった一文。

この経営者は、そのノウハウが時代に合わず、通用しなくなったからこそ、生徒が減り続けているという現実には気づいていない。錆付いた過去の栄光にしがみつき、それを手放そうとしないからこそ、経営がうまくいかなくなっているのに、である。これは塾だけでなく、どの業種でも成功した個人事業者が最も陥りやすい自己過信の弊害である。(208頁)

 現実に対応し続けることの大切さを思う。
 塾は、学校のサブとして捉えられる。だから塾で成績があがっても、表立ってあまり感謝されない。塾はいつでも「成績を上げるためのツール」としてしか捉えられないのだ。塾特有の寂しさを感じる。けれど、一之瀬は次のように語る。
子供たちとの接点は、ほんのわずかであっても、その一瞬にすべてを注いでいく。しかも学校とは違って、明日にはその子は辞めてしまうかも知れない。だからこそ、今という瞬間を絶対にムダにはできあに。それが塾の現場だ。
 たとえ一瞬でも、たとえお礼の言葉をかけてもらえなくても、人生のほんのわずかな時間的空間を共有できたことに感謝したい。いつか、一人ひとりの心に蒔いた種が、小さな花を咲かせることを願って。(197頁)
 一期一会の出会いを大切にし、生徒と相互行為(社会学的な言い方です)を結べた一瞬の輝きを大切にする。塾経営者が大事にする視点だろう。塾という教育の場(トポス)で現実に教育を行い続ける筆者の熱い志が感じられる。ぜひお会いしてお話をしたい人だ。
 この本からは塾業界での成功の仕方と言うよりも、「プロフェッショナル論」を教えられた。
 

イリイチ著、渡辺京二訳『コンヴィヴィアリティのための道具』日本エディタースクール出版部、1989年

人々は、エネルギー奴隷に頼るのではなくおたがいに頼りあうことをふたたび学ぶ場合にのみ、よろこびにあふれた節制と人を解放する禁欲の価値を再発見するだろう。(24頁)
自立共生的道具とは、それを用いる各人に、おのれの想像力の結果として環境をゆたかなものにする最大の機会を与える道具のことである。(39頁)
教育が競争しあう消費者を生みだし、医療は、消費者が要求するようになった工学化された環境のなかで彼らを生かし続ける。官僚制は、人々に無意味な仕事をさせるためには社会的に管理する必要があることの表れである。(87頁)
環境危機の唯一の解決案は、もし自分らがともに仕事をしたがいに世話しあうことができるならば、自分たちは今より幸わせになるのだという洞察を、人々がわけもつことなのである。(93頁)
学校は、学ぶことを教育と定義しなおすことによって、学ぶことへの根元的独占を拡張しようとしてきた。人々が現実について教師がくだした定義を受けいれるかぎり、学校の外でものを学んだ人々は公式には’無教育’という烙印を捺された。(99頁)
独力でどれほど学ぶことができるかということにとって決定的なのは、道具の構造である。すなわち、道具が自立共生的でなければないほど、教えるという行為が助長される。(110頁)
学校は有害でありまったく非効率的であるけれども、その伝統的な性格は少なくとも生徒の若干の権利を護っている。学校という抑制から自由になった教育屋ははるかに効率的でありうるし、猛烈な調教師となりうるだろう。(113頁)
人々は限度内で暮らすことを学ばねばならない。このことは教えてもらうわけにはいかない。生き残れるかどうかは、人々が自分たちには何ができないのかということを速やかに学ぶことにかかっている。人々は、無制限に繁殖したり消費したり使用したりするのを慎むことを学ばねばならない。(125頁)
→教育産業への批判か。
●訳者の文より。
錬金術師が教師と教育学者の暗喩となっていることはいうまでもない。教育の失敗が何度明らかになっても、彼らは失敗の科学的理由を見つけて、ふたたび教育を開始するのである。教育とは絶対に成功することのない錬金術だというイリイチの含意がこめられている。(34頁)

文と理

文と理があたかもずっと対峙してきたように訴える看板。しかし、これは事実だろうか?

ネタとして語ることはあっても、現実として文理が敵対してきたことはない。そうでなければ学問はできないからだ。

山本哲士批判

 山本哲士の本を読んでいると、生きるのが辛くなる。彼の本を読んでいると、つねに権力関係を自覚してしまうからだ。

 例えば、会社の上司に「最近、どう?」と聞かれたとする。山本ならば、これも権力関係であると答えるだろう。「この行為は、現在の状況を聞く立場に自分があるという権力関係を自覚させる。部下に〈自分の行動を上司に報告する義務があるのだ〉と感じさせ、自分で自分を縛るように内部権力を持たせているのだ」という説明の仕方をするであろう。
 しかし、たいていの上司はそんなに大げさなことを考えず、ただスキンシップをとろうとしているだけなのだ。
 教育論の「教師―生徒の権力関係」の話でも、こういう図式が成立することがある。「教師がそこまで考えてないだろうな」という指摘をしている。
 小浜逸郎『学校の現象学のために』を読んで、そう感じた。

「子どもに合わせた教育」論。  

 子どもは人格の完成者ではない。ゆえに「子どもに合わせた教育」を文字通り実践してしまう事は、「合成の誤謬」となってしまう。個人にとって利益のあること/楽しいことの組合せが結果的にその人を不幸にすることがある。

 広田照之『思考のフロンティア 教育』(岩波書店、2004)には、その事例が出ている。教育を自由に選択でき、民族/興味/関心によって違う学校に行く。学校では楽しく/快適に過ごすことができる。

しかしながら、その結果は冷酷である。教育の成果はいずれ労働市場で厳しい判定を受ける。ごく一部のエリート向けの学校へ行った者を除いて、多くの子供たちは、大人になったときに自分に開かれている職業の選択肢が、さほどよくないものばかりであることを思い知らされることになる。もっと魅力的な選択肢は、別の学校や別のカリキュラムを選んだ誰かにすでに専有されてしまっているからである。(…)つまり、「学校時代は誰もが幸せ/卒業したらほとんどが大変な人生」というシステムになりかねないわけである。(80頁)

 新自由主義的な教育選択制度というものが、「学校時代は誰もが幸せ/卒業したらほとんどが大変な人生」をもたらしかねないことを自覚する必要があるだろう。
*注 このビジョンだが、仮に不登校経験→フリースクールを経験した人たちが特殊な社会を作り出し、そこで生きていくという事も出来るのではないか。フリースクールである東京シューレの出身者などが中心になって、シューレ大学という「学び場」を作った。これをさらに発展させ、不登校経験者のみが入れる社会(コミュニティ)を形成し、そこで生活できるとすればどうだろうか。そのとき、「卒業したらほとんどが大変な人生」の図式を打開できるのではないか。

 むろん、「楽しく」て、「将来役立つ」教育プログラム(あるいはカリキュラム)を作ればよい岳の話だ。けっして両立不可能ではないのだから(森下伸也『社会学がわかる事典』には「学級崩壊をふせぐには、授業に子供が集中できるよう、不必要な身体の拘束を解き、勉強をゲームとして楽しめるような工夫をしてやることが必要である。すべての勉強はもともと遊びから生まれたのだから、それはかならず可能なはずだ」〈174頁〉と、書かれている)。
 しかし、実際にそんな教育プログラムを作るのは難しい。誰にとっても楽しく、将来役立つ単一の学習プログラムを作る事は不可能だ。それは脳科学の発展が教えてくれる。耳から聞いている限り理解できない子どもと、文字では理解できない子ども両方に適合する教育プログラムは存在しないのだ。
 ひとつの方向性としては、個別プログラムによる個別学習があげられる。特別支援学級にそのヒントが求められる。教育実習で私は中学校の特別支援学級の生徒の授業にも参加をしたが、生徒1人と教員とが対面で授業をしていた。ひらがなの読み書き・簡単な英文法についてを個別のカリキュラムで授業していた。このような個別プログラムの設計が、「楽しく」「将来役立つ」学びを実現するのかもしれない。
 前に私の後輩のT君が、〈一人ひとりにあわせた個別教材による通信教育事業〉というアイデアを語ってくれたが、これも一つのモデルとなるだろう。
 しかし、仮に個別学習で教育が可能となったとき、「学校」はもはや必要なのだろうか? そんな疑問が浮かんでくる。社会に「子ども集団」の関わりの場が少ないうちは、その人間関係力・コミュニケーション力をつけるためだけに「学校」があってもよい。無論、「そこにいづらい」子のためのフリースクール的居場所(自宅も含めて)を用意していく意識を持った上で、という話だが。

無用の者

家のそばの看板。

そもそも人が建物に入るのは何らかの用があるためである(泥棒目的も含む)。

ゆえに用のない者は入るわけがない。無駄な看板である。

親の視線

 友人のNと話す。テーマは「なぜ現在の子ども社会には〈空気を読む〉ことが重視されるのか」。

 思想家モンテーニュ。16世紀に生きた彼は、自分に子どもが何人いるか、分からなかったという(アリエス『〈教育〉の誕生』)。その時代、親にとって子どもは「勝手に生まれ、勝手に育ち、勝手にいなくなるもの」であった。
 その後、「教育」が必要とされるにつれ、子どもへの親の視線は強まった。子どもの人数も減り、ついには一人っ子が珍しくなくなった。するとどうなるか? 昔は親の視線は複数の子どもに分散されていた(あるいは親の視線がほとんどなかった)。それが数人、あるいは一人の子どもに集中する。子どもにとって、それは息の詰まる状態。学校でも家でも塾でも、常に親の視線を感じることになる。フーコーも言っているように、「見る―見られる」という関係は権力なのである(生−権力)。
 親の視線を感じる子どもは、つねに「いい子」でいようとする。親に認めてもらうために。この姿勢は、学校でも塾でも子ども社会の中でも内面化される。その内面化された姿の現れが、「空気を読む」という事になったのではないか。
 現在の子どもの生きづらさは、子どもへの親の視線の強化が原因の一つであるように思われる。