2010年 1月 の投稿一覧

フリースクール スタッフ養成講座の合宿。

 先週の土・日・月と、フリースクール全国ネットワーク(通称フリネット)が開催する合宿に参加した。ボランティアのスタッフとして。非常に勉強になった。ふだん、フリネットのボランティアはしんどいため、嫌々やっていることがあった。フリネットへの「不登校」という状態だろうか。この合宿に行き、「しんどいけれども、意味のあることだったのだ」と再認識できた。いいことである。

 講師の話にあった内容から、印象に残った点をいくつか。
 
 インドの子どもが、フリースクールに通う日本の子どもと交流した時の言葉。
「〈学校に行きたくても、貧しくて行けない〉ことと、〈学校に行きたくないのに、無理やり行かされる〉ことは、同じ問題なのだ。子どもの権利から見るなら、どちらも同じことなのだ」
 私たちは、よく「学校に行きたくても行けない子どもがいるのだから、頑張って学校に行こうよ」という。学校に行ける状態であるのに不登校でいることは、「ぜいたく」「わがまま」だと考える。けれど、本当はそうではないのだということが、この話から解った。
 いい合宿であった。

生きることはリハビリ?

ある雑誌広告に、ゴミ出し作業をしていて気付く。

「生きることがリハビリ」

何とも言えない違和感を感じる。

リハビリは、よりよく生きるために行うものだがリハビリが人生それ自体を意味するような言葉だと思うからだ。

ツイッターを始めました。

『Twitter社会学』(津田大介、洋泉社)を読了。「速さ」がネット時代において強烈な力になることを実感した。

 それに刺激されて、私もツイッターを始めた。
 
 「IshidaHajime」との名前で登録しているので、探してみていただきたい。

孤独であるためのレッスン。

 いろんな道を歩いても、自分と言う物語は一つである。ならば自分の決めた道を貫くしかない。「十年一剣を磨く」である。

 一人でいる時間を大事に出来ない人は、真に人と出会うことができない。ひとりでも過ごせる人が最も強い人だ。先日、兵庫に帰省したとき神戸の街に私は一人で佇んでいた。だからこそ神戸の夜景に感動したし、クルーズの際に船酔いする自己の弱さと向き合うことができた。他者の有り難さにも気づくことが出来た。一人で過ごすからこそ、他者や自然の美しさと出会うことができるのだ。
 一人でいることをネガティブに考えてはいけない。一人の時間を大事にせよ! 私たちに必要なのは、まさに『孤独であるためのレッスン』なのである。

モンテッソーリの教育法。

 本日、カフェスローで「幼児教育から生涯教育へ」というテーマで講演会が行われた。講師はジュディ・オライオンというモンテッソーリ協会公認の教師養成者。講師も通訳も、そして聴衆の大部分が女性。来ている男性も「夫婦」で来ている人ばかり。学生の男一人は目立った。

  
 いままで全く幼児教育には関心がなかったが、今日の講演会で認識を新たにした。それは質疑応答時に私が次のように質問したことと関連している。
「本日のテーマは〈幼児教育から生涯教育へ〉ということでしたが、全体的に幼児教育と学校教育の話ばかりで、生涯教育についてのお話があまりなかったように感じます。もしよろしければ、モンテッソーリ教育における生涯教育はどのようなものになるか、お話いただけますか」
 講師のオライオン氏はこう答えた。
「大人になった時、土台がしっかりしていたならば誰にいわれなくとも自分で自分を育てることができます。そうした〈根〉の部分が確立していると、制度的な生涯教育は不必要になるのです。人生の最初の24年間に、〈根〉を確立できなかったならば60歳くらいになる時に困ることがあるかもしれません」
 この話は非常に示唆的だった。生涯教育というと、どうしても何か「機関」や「制度」が必要だと感じてしまうが、そうではないのだ。それまでにきちんと育つことができれば、特に生涯教育というものを用意しなくても、個人が勝手に学び、勝手に成長していくのだ。
 制度的な生涯教育を否定するのが、モンテッソーリ式の生涯教育なのだ。
 
 モンテッソーリ教育の特徴は「命」に沿った教育を行う点である。モンテッソーリ式の幼稚園では2歳半から子どもたちの相互の助け合いが起こるように集団での生活を行う。子どもの「命」の発達段階に応じて、子どもが自分で学べるような教具や環境を提供する。小学校段階からグループでの探求活動を行い、研究旅行の行き先や計画すら子どもたちで行えるようにする。「子どもだから、これは無理だろう」と決めつけていないのだ。そこを見て、子どもを決してバカにしてはならないのだ、と感じた。そのため、モンテッソーリ教育は〈子どもという人間性を軽視してはならない〉ということを伝えているように思える。
 前に私は「イリッチは〈人間の復権〉を形をかえて伝えようとしたのではないか」、と書いた。《例えば消費者という言葉。ただ消費だけを行う者という意味だ。人間を消費者と生産者に分けるのではない。本来、人間は生産も消費もどちらも行ってきた存在である。それを「生産者」「消費者」に分けることは人間を軽視することだ》と。私たちは「子ども」というものも、軽視してきたのではないだろうか。
 そんな風に感じた。

コンビニ本恐るべし

JR加古川駅のコンビニで、網野先生の日本史本を購入した。

こんなところで買えるとは…。

コンビニ本、恐るべし、である。日本の文化性の向上とも言えようか。