身体論

「学校化」された私。

 何故だろうか。

 どんなに努力をしても、どんなに「考え方を変えよう」と意識しても、自分の学歴主義を打ち消すことができない。

 今日も、本屋で『東大式 絶対情報学』との本を無意識で購入していた。「東大」という言葉に、まだ体が反応してしまう。

 早稲田大学生は、「東大を諦めた」組が多い。「負け組」認識をもっている側面もある。だから無意識のうちに、「東大」の名に反応してしまう。

 フリースクールやオルタナティブスクールに心惹かれながらも、「東大」というブランド・学歴信仰から逃れられていないのが私である。

 社会学者・宮台真司の「学校化」定義。《家や地域までもが学校的価値で一元化されることを私は「学校化」と呼びます》(『これが答えだ!新世紀を生きるための108問108答』281頁)。私の頭の中も、「学校化」されてしまっている。

 卒業論文を書く段になって、自分がいかに「学校化」された存在であるか、実感するようになった。
 
 中学では、私は「優等生」であった。優等生特有の「優等生シンドローム」も発症していた。教員の質問に、真っ先に答える能力。言われたことを、疑わずに実行する力。
 高校に入って、状況が変わる。周りは自分以上の優等生ばかり。中学と同じやり方では太刀打ちできない。私は、中学のとき以上に「優等生」になろうと決意した。
 わが母校では勉強ができること以上に、高校の創立の精神を求めていることが重要視されていた。今の時代、珍しい学校である。校歌を歌い、「真の学園生とはどのような生徒か」真剣に語り合う。無理をしてでも、学問と「精神面」を鍛えようと決意した。「俺はすごいんだ!」と言いたくて、生徒会にも入った。翌年には生徒会長に。けれど、母校では生徒会長の権限は行事の実行委員会よりも小さく、意気消沈。「何のために生徒会はあるのだッ!」と、埃っぽい生徒会室で泣き叫んだ日々もあった。 
 生徒会での自己実現を諦め、受験勉強で「俺は勝った!」と言おうと思い立つ。ちょうどその頃、クラスから見放される事件が起こり、ますます受験に専念した。休み時間は耳栓を付けた。昼食は一人で菓子パンをかじった。他者と折り合わないために。けれど、受験は第五志望にしか受からなかった。
 結局、私は「優等生」になることが出来なかった。中学以来の「優等生気質」はありながら、「優等生」にはなれない。悔しさと、惨めさ。高校の卒業文集に映った顔写真。私だけが笑っていない。
 結果的に悟ったのは、人と比べてもどうにもならないということ。けれど、「人と比べる」ことを私の身体に刻み込んだのは、学校ではなかったか。学校のシステム自体が、人と比べることを要求している。私はそのシステムに、すっかり「学校化」されてしまった。今もこの傾向は残っている。「東大」という言葉への、無意識的反応がそれである。

 ひょっとすると、私がフリースクールや脱学校論に関心を持つのも、「学校化」の成せる技ではないだろうか? つまり、東大に行けなかったという私のルサンチマン(恨み)が、学歴主義に反するフリースクールに心惹かれるきっかけとなっているのではないか、と思うのである。

 ただ、自分がいかに「学校化」された存在であるか、気づけたことだけでも、大学に行った意味があったように思う。早稲田の教育学部に行かなければ(もっといえば、脱学校論についてをK先生の授業で聴かなければ)、このことを自己認識することはなかったであろう。
 人生は、誠に奇妙なことである。第一志望に行くことだけが、幸福なのではない。私にとって、早稲田の教育学部は第五志望。夏に諦めた東大を入れるなら、実に第六志望となる。

 …自称「三流エリート」、石田一のモノローグでした。
 

*宮台真司『これが答えだ!新世紀を生きるための108問108答』朝日文庫、2002年。

陸上とは精神論なり。

中学時代、私には運命的な教員に出会った。永田先生である。

所属した陸上部(私は部長)の顧問であったのみならず、1年生から3年生までずっと担任であったという奇跡。それだけでなく、永田先生の厳しくも優しい姿勢に私は多くを教わった。今年教育実習を母校の中学で行う。まだ残ってくださっていることを祈る。

その永田先生は「走る」ということについて印象深いことを述べておられた。

「走るのは、一人になるためだ」

陸上部の伝統・練習日誌への毎日のコメント、クラスと部活での直接の会話など、私の中で「永田語録」は多数あるのだが、この一言がやたらと印象的であった。

走っているとき、人は自己と向き合わざるを得ない。試合の時は自らを追い込むため、「まだ闘うか」、それとも「もうあきらめるか」を自分自身で決定せねばならない。走るとき、走ることに体が集中するため、五感の機能が一時的に低くなる。回りと話す余裕も無ければ、よそ見をするゆとりも無い。

徹底的に自分を追い込むのだ。レースでは、〈どこまで自分を虐めることができたか〉で勝負は決まる。

陸上競技はギリシャの昔から存在していた。陸上ほどシンプルかつ歴史の長いスポーツは存在しない。

陸上とは精神論なり。シンプルゆえに人類にとっての永遠の課題を抱え続けている。その課題とは「自己とどう向き合うか」である。

自己と向き合う、とは「孤独になる」ことを意味するかもしれない。走るとき、「私」は絶対的に孤立する。他のスポーツに付き物の〈チームワーク〉なんて存在しないのだ。あるのは「自己」のみ。自らの身体の発する「もう、走るのやめようよ。限界だよ」との声に「否!」をどれだけ叫べるかである。