本日の読売新聞から。
高校段階での「学費未納」問題。
国が個別に補償する/奨学金制度を充実させる/高校無償化を行う以外に、どんな解決策があるだろうか? 民間の緊急貸し出し(マイクロクレジットなど)などはどうだろう?
ともあれ、真夜中の高田馬場ロータリーの「学ばない」早大生を見ていると、「高校に金がないから行けない」人の存在を伝えたいものだ。
本日の読売新聞から。
高校段階での「学費未納」問題。
国が個別に補償する/奨学金制度を充実させる/高校無償化を行う以外に、どんな解決策があるだろうか? 民間の緊急貸し出し(マイクロクレジットなど)などはどうだろう?
ともあれ、真夜中の高田馬場ロータリーの「学ばない」早大生を見ていると、「高校に金がないから行けない」人の存在を伝えたいものだ。
相変わらずのプレジデント・ファミリー。
ノートくらい、自由に取らせてあげてもいいのでは? ノート取らずに勉強する人はどうするのか?
終わりなき街の片隅で
僕は小さく息をした
ため息だけが白くなり
どこか遠くへ消えてった
ため息はどこへ行くのだろう?
行方不明のため息が
誰かの口へと入ってく
人から人へと ため息は
リレーの如く連なって
やがてゆっくり溶けていく
昨日、友人たちと読書会。自発的な「学びの共同体」の実践は面白い(逆に言えば、制度的な「学びの共同体」は時に地獄となる)。広田照幸の『教育』をもとに話し合った。
第三に、分配に軸足を移した経済システムという前提のもとでは、知識重視型の教育が必要なのではないかということである。(93頁)
その特徴を一言で言えば、文化的な創造を求めてあらゆる努力を惜しまない人々、ということになるだろう。ボボズは「創造としての自由」を人生最大の価値とする。(220頁)
かつてシェイクスピアの『ヴェニスの商人』を読んだ時、はっきりいって≪血を出さずに肉だけを1ポンドきっかり切り取れ≫と裁判官に言われたシャイロックが、気の毒で仕方なかった。そのため、イェーリングがシャイロックの弁護にあたる論理を展開している本作は、非常に興味深かった。
このユダヤ人(石田注 シャイロックのこと)は権利を騙し取られた、と言ったのは私の言いすぎだったろうか? むろんこれは、人道のためになされたことである。しかし、人道のためであれば不法は不法でなくなるものであろうか? かりに神聖な目的が手段を正当化するとしても、なぜそのことを判決の中で行わず、判決を下したあとで行ったのであろうか?(18頁)
「権利を騙し取られ」ることに対し、イェーリングは注意を促している。
何の苦労もなしに手に入った法などというものは、鸛(こうのとり)が持ってきた赤ん坊のようなものだ。鸛が持ってきたものは、いつ狐や鷲が取っていってしまうか知れない。それに対して、赤子を生んだ母親はこれを奪うことを許さない。同様に、血を流すほどの苦労によって法と制度をかち取らねばならなかった国民は、これを奪うことを許さないのである。(41~42頁)
日本国憲法は別名「権利のカタログ」。あらゆる権利が突然認められた。そのため日本人にとって権利は「何の苦労もなしに手に入った」ものである(昔からこんなことをいう人って結構いますね)。ゆえに自己の権利は簡単に奪われてしまう。
そのため、イェーリングは「権利のための闘争」を行え!と叫ぶのであるが、それは別にクレーマーになれ、ということを意味しない。
自己の人格を害するしかたで権利を無視された者はありとあらゆる手段で戦うのが、あらゆる者の自分自身に対する義務なのである。そうした無視を黙認する者は、自分の生活が部分的な無権利状態に置かれることを認める結果[権利能力の部分的放棄]となるが、そんなことにみずから手を貸す自殺的行為は誰にも許されていないのだ。(52頁)
「自己の人格を害する」時に、「権利のための闘争」を行うべきなのだ。
現在、私はフリースクール全国ネットワークのボランティアをしている。そのネットワークの中でオルタナティブ教育法という法律案の作成が続いているが、これもフリースクールに通う子どもたちが「自己の人格を害」されているからこそ、作成するものなのだ。不登校というだけで付きまとう「ダメな人」という視点、行政側から何のサポートもなく教育を自費で受けるという点えとせとらetc。こういう「権利のための闘争」は積極果敢に行っていかねばならないはずだ。
本作のラストはゲーテの次の文章の引用で締められる。
智慧の最後の結論は斯くの如し。
自由と生を享受して然るべきは、
日々それを勝ち(石田注 原作だと旧字体)得ねばならぬ者のみ。(140頁)
〈自由になろう〉とする者のみが、自由になることができるのである。同様に、権利を勝ちとるために戦う者のみが権利を勝ち取れるのだ。
権利とは誰かに与えられるものではない。自分の力で、勝ち取るものなのである。かつて、高校現代文の教科書に『「である」ことと「する」こと』(岩波新書では『日本の思想』に掲載されています)という丸山真夫の文章が出ていた。その結論は、≪権利を行使「する」ことなく、権利者「である」ことに安住すると、自分の権利がなくなってしまう。ゆえに権利のためには常に権利を行使し続けないといけない≫というものであった。おそらく丸山も『権利のための闘争』を参考にしてこの文章を書いたのであろう。
私はプレジデントファミリーという雑誌が好きになれない。中学受験ありきの話しかしないからだ。あとは「子どものやる気を引き出す」など、親による子どものコントロール欲を感じてしまう。
城山三郎の小説『素直な戦士たち』。東大にいくことを至上目的とする母親に振り回される子どもたちの姿と彼らの反乱が描かれる。
プレジデントファミリー読者の将来が、こうならないとは誰も断言できないであろう。
一之瀬学『誰も教えてくれない[学習塾]の始め方・儲け方』(ぱる出版、2007)読了。
この経営者は、そのノウハウが時代に合わず、通用しなくなったからこそ、生徒が減り続けているという現実には気づいていない。錆付いた過去の栄光にしがみつき、それを手放そうとしないからこそ、経営がうまくいかなくなっているのに、である。これは塾だけでなく、どの業種でも成功した個人事業者が最も陥りやすい自己過信の弊害である。(208頁)
子供たちとの接点は、ほんのわずかであっても、その一瞬にすべてを注いでいく。しかも学校とは違って、明日にはその子は辞めてしまうかも知れない。だからこそ、今という瞬間を絶対にムダにはできあに。それが塾の現場だ。たとえ一瞬でも、たとえお礼の言葉をかけてもらえなくても、人生のほんのわずかな時間的空間を共有できたことに感謝したい。いつか、一人ひとりの心に蒔いた種が、小さな花を咲かせることを願って。(197頁)
文と理があたかもずっと対峙してきたように訴える看板。しかし、これは事実だろうか?
ネタとして語ることはあっても、現実として文理が敵対してきたことはない。そうでなければ学問はできないからだ。
山本哲士の本を読んでいると、生きるのが辛くなる。彼の本を読んでいると、つねに権力関係を自覚してしまうからだ。