雑念

石田一とは誰だ?

石田一というペンネームを用いて、私はずっとブログを書いてきた。私が「石田一」を名乗るわけであるから、「石田一」イコール「私」であるはず。けれど、読み直すとブログにいるのは「私」ではなく「過去の私」しかいないことに気づく。「あれ、俺こんなこと書いたっけ?」。ずっと昔の記述とほぼ同様のものが書かれていることがあるのはそのためだ。「過去の私」の別名が石田一である。

内田樹(本当によくこのブログに最近登場するなあ)はこう言う。自身のブログ〈内田樹の研究室〉の著者は「ヴァーチャル内田」である、と。「ヴァ―チャル内田」はホンモノの内田樹よりも人間性の高い人物である、という。

このブログを書いている瞬間の「私」はまぎれもなく「私」である。この時において石田一は「私」をさすのだ。けれど、ブログに投稿後、ネット画面を確認して読んでいるとき、もはやその文章は「石田一」の文責となる。一瞬間後の「私」は「石田一」にほかならず、「私」ではないのだ。

私がこのブログを読むとき(特に2年ほど前の記述を)、石田一という人物と対話をしている感覚になる。

今日は、やけにややこしいことを書いてしまった。今から明日のゼミのレジュメを作らないといけないため、気晴らしに書いていた。これも「石田一」が書いたのであって、現実世界の「私」が書いたわけではない(責任逃れ)。

追記
調べてみれば、さっそく見つかりました。「俺オリジナル」と思っていた発想が、実は誰かの発想をそのまま口にしていた、というケースが。https://nomad-edu.net/?p=501

4月2日の投稿より。

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 本日読了。相変わらず内田は面白い。 

レヴィナス老師は「時間とは私の他者との関係そのものである」と書いた。
 時間 のうちで、私は絶えず私自身ではなくなり、他者も別のものとなってゆく。私は他者といつか出会えるかもしれないし、出会えないかも知らない。私は他者に 会ったことがあるのかも知れないけれど、今のところそれを思い出すことができない。時間とは、端的に言えば、この過去と未来に拡がる未決性のことである。 私の現在の無能がそのまま底知れない可能性に転じる開放性のことである。(pp25~26)

問題は「意味」なのである。
「意味がわからないことは、やらない」
 これが私たちの時代の「合理的に思考する人」の病像である。
 ニートというのは、多くの人が考えているのとは逆に「合理的に(あまりに合理的に)思考する人たち」なのである。(p31)

 

 

そうだったら、いいだろうな

歴史には裏話がつきものである。
フランス革命。バスチーユ牢獄には政治犯は一人も入っていなかった。〈にもかかわらず〉、「政治犯を解放する為にバスチーユ牢獄を襲撃した」と説明される。「そうだったら、かっこいいだろうな」という願望が嘘を事実に見せかける。

「そうだったら、かっこいいだろうな」という思いが、義経をチンギス=ハーンに成し上げる。

そんな先のことはわからない。

B:今晩はどうするの?
A:そんな先のことはわからない。

映画『カサブランカ』内の言葉である。

私の場合も、その日がどうなるのかよくわからない。妙に親近感を覚える言葉である。

就活生

このところ、私の周りの友人の就職活動が少しづつ決まり始めている。不景気なだけに、すばらしいことである。

ただ、夢を妥協させる形で内定を得ている人が多い気がするのは杞憂だろうか。
内田樹は‘仕事は「やりたいもの」ではなく、「やりたくないもの」を除外して、それでも残ったものをすべきだ’と書いていた。この考えを多くの人が実践しているのだろうか。
昨夜、後輩一人・先輩2名と早稲田のOutsiderで飲む。その時飲んだラスティ・ネイル(ちょうど店内で『オーシャンズ12』をやっていたので、ブラピにあやかった)が未だに残っていて、頭が痛い。
就職について何も対策していない私が、こんなお気楽な生活を続けていいのだろうか。この私が、他人に揶揄することはできないのではないか。反省しつつ、筆をおくこととする。

眼鏡

本日より、メガネに復帰。

よく「タバコを始める」という言葉を聞く。それよりは価値的な行為だろう。

眼鏡をかけて見える世界。裸眼とはまったく違う。看板の見え方、人の見え方。鏡を通しての自分の姿。

眼鏡をかけて見える世界と、裸眼の世界。同じはずなのだが、少し違って見える。余計なものがみえてしまう。

モンゴルの大草原などで育った人の視力は6.0であることもあるようだ。そんな人たちの見る世界はゆたかな世界なのだろうか。少なくとも、東京で視力が「よすぎる」と無駄な看板/人ごみで吐き気を催す。

雑念集

●一日中/学問やって/過ごしたい/家に行けども/お留守のときは

●人間一人の小さな動きが、歴史を作っているのではないか。ちょうど、トインビーの「水底の小さな動き」のように。

●ジョセフ・ナイの言葉「リーダーは天性の資質だけで深まるのではなく、主としてつくられるものであり、リーダー・シップは学習可能である」

●一人で演劇にいくと寂しい。自分が舞台に立ちたくなるからだ。それは一体何故だろう?

●演劇は常に暗闇になるところから始まる。

●劇場の広大な空間に一人座っている小宇宙としての「私」。

●「学校に感じる気持ち悪さは何だろうか」。私がフリースクールを大学院で研究したい理由。

●小林秀雄の『考えるヒント』に、〈書く前に内容を考えるのではなく、書きながら考える〉とあった。ブログを書く身として共感した。

●メガネをつけると、まるで写真のように夜景が見える。

●「どうして〜何だと思う?」と、相手の発言から相手の本当の弱点を気づかせていくという対話法があることをYさんとの会話で実感した。

王子駅にて。雑念集。

駅前の白い服を着た老人が、カーネルサンダースに見えた。

乗り換えるべき駅が、馬込か駒込か、分からなかった。

『がんばらない』の鎌田實が「みかんの皮が剥けるようになったら大人だ」と言っていたが、知らないことが多すぎる自分はまだ「みかんの皮が剥けない」子どもなんだと思った。

スペアキー

早稲田駅前の鍵屋さんで、我が家のスペアキーを作った。

オリジナルを元にして、おじさんが機械で削る。その時間、3分弱。

あっという間にスペアキーができた。

不思議なことに、スペアの方がオリジナルのキーよりも鍵の開閉が楽なのだ。今ではもっぱらコピーを愛用するようになった。オリジナルの方がスペアになったのだ。

 スペア(コピー)の方が、オリジナルよりも価値的。
 考えてみれば不思議だが、現実社会でもオリジナルよりコピーの方が扱いやすいことが多いのではないか。タブローに描かれたモナリザも、印刷され人びとの手元に美術集として掲載された方が多くの人に見てもらえる。多くの人が芸術に親しめる。案外、遠くにあるものよりも手身近なもののほうが価値を感じるようだ。
 昨日、やはり早稲田駅前の あゆみBOOKS で『叶恭子写真集』が売られているのを目にしたが、これも写真で鑑賞する方がオリジナルの叶女史よりも美しいのではないのだろうか。
 モーセがシナイ山にいるあいだ、イスラエルの民衆は「遠くの目に見えない神より、近くの神がいい」といって金の子牛を作った。オリジナルの神よりコピーの方が価値的だと感じたのだ。
 コピーがあるにもかかわらず、「オリジナルの方が価値が高い」とされるのは何故だろう。コピー/オリジナル問題は、オリジナルのもつカリスマ性を認知されるか否かにかかってくる。

 話は変わるが、私の座右の書『小論文を学ぶ』には、コピー/オリジナル論が出ている。そこには「オリジナルとコピーの境界がなくなるとき、それはオリジナルの権威も失墜することを意味する」(p110)とある。

「オリジナル」と「コピー」が融解して何がホンモノで何がニセモノであるかわからないような世界のありかたを、フランスの社会学者のボードリヤールというひとは、「シミュラークル」という概念で言い表そうとしているが、現代はハイパー・リアルな「シミュラークル」化した世界になろうとしているといっていいだろう。(p110)

 作者の長尾氏はオリジナル/コピーが対等であるというシミュラークルを元に議論をしている。
 けれどこの論に【時にはコピーの方が価値が高いことがある】という事実についても含めて、考察をすべきなのかもしれない。
 私の家の鍵のように。

内田樹・鈴木晶『大人は愉しい』

内田
 

インターネットで発信することの余得は、そうでもしなければ誰も聞いてくれないはずのとりとめのない「思い」を受信し、耳を傾けてくれる誰かがいるという期待のせいで、何だか生きている「張りが出て」くるということにある。
 「インターネットは人間を変える」とはこのことである。

 おっしゃる通り、ブログを書きはじめてからこのことを実感している。

人生、うまくいかない

 人生、うまくいかないことの方が多い。早稲田大学に入るまでもそうだし(私は早稲田の教育学部は第5志望だ)、早稲田に入ってからもそうだ。弁護士を目指すも予備校で落ちこぼれた。私の今までの経験からも、また私の見てきた幾多の人びとの姿からも、帰納できることである。

 人生、うまくいかないことの方が多い。
 ずっと勝ち続けることができればいいが、それは理想にすぎない。すっきり「全てに勝った」状態を見たことがない。
 現実には勝利を目指していても一日単位・一時間単位で「もう嫌だ!」と投げ出したくなることがある。

「葛藤しているときが人間はいちばん自然で、いちばん安定しているのです」とは内田樹の言葉だ。

 日蓮は「よからんは不思議わるからんは一定とをもへ」と書いている。

 うまくいかない方が自然だ。こう考えた方がよいのではないだろうか。逆に、順調にいく方がレアなのだ。

 人生、うまくいかないことの方が多い。だからこそ、途中の失敗に恐れないことが重要なのではないか。勝つことよりも、負けないことの方が大事なのだ。仮に負けても、自分には負けない。「どうせ俺はこんな奴だ」と腐らずいくことだ。

 人生、うまくいかないことの方が多い。だからこそ、負けないことが大事なのだ。途中の勝ち負けを気にせず、次の勝利を目指すのだ。