雑念

キャッチコピー

●マナーの悪いお年寄りにも、席を譲ろう。

●勝利の美酒、敗北の養命酒。

●眠れぬ夜のコーヒー牛乳。

マラソン

 その昔、人は「勝った」という一言のために命を賭けて走った(マラトンの丘)。

 けれど、今はメール1本で済む。
 言葉がどんどん軽くなっている気がする。

日本フリースクール協会とフリースクール全国ネットワーク

●フリースクールに関しての全国団体には2つがある。日本フリースクール協会とフリースクール全国ネットワークの2つである。

●両者は何が違うのかを比較してみる。

はじめに日本フリースクール協会(JFSA)。こちらは「日本初のフリースクールのネットワーク団体」と謳っている。自団体についての説明を見る。https://www.t-net.ne.jp/~eisei/jfsa/jigyou/jigyou.htmlより。

1998年5月に発足したNPO法人日本フリースクール協会は「不登校」・「引きこもり」等に対して、学校教育の枠にとらわれない「学びの場・居場所作り」を目指して活動している教育機関です。活動は年間数回のセミナー・相談会を実施しております。

 続いてフリースクール全国ネットワーク(通称 フリネット)。こちらは私がボランティアをさせていただいている場所だ。https://www.freeschoolnetwork.jp/#%E3%81%8A%E3%81%97%E3%82%89%E3%81%9B

NPO法人フリースクール全国ネットワークは、日本全国の、子どもの立場に立ち活動するフリースクールをつなぐネットワーク団体として2001年2月3日に誕生しました。各地のフリースクール・居場所、または世界中のフリースクールとの架け橋として活動しています。

発足年では日本フリースクール協会の方が3年ほど早い。

●正規団体数はどうか?

日本フリースクール協会は41団体。
フリースクール全国ネットワークは45団体。

若干、フリースクール全国ネットワークの方が多い。

●続いて、役員についてみていく。
日本フリースクール協会の役員。https://www.t-net.ne.jp/~eisei/jfsa/bosyu/itiran.htmlより。

理事長 武藤 [NPO法人 楠木の学園]
副理事長

中島 [ K&K ]
副理事長 難波 [カナディアンアカデミー]
理事 月岡 [相模湖フリースクール]
理事 荒井 [東京国際学園高等部]
理事 高橋 [登校拒否文化医学研究所]
理事 木谷 [日本アウトワードバウンド協会]
理事(事務局長) 田中 [フリースクール ゆうがく]
理事 須藤 [須藤教育研究所]
理事 高栁 [茶屋町総合学習センター]
理事 川合 [フリースクール英明塾]
監事 雨宮 [フリースクールあおば]
理事 吉田 [学舎直夢]
理事 長森 [渋谷高等学院]
理事 平井 [W・S・Oセンター]
理事 梅津 [特定非営利活動法人フリースクール ゆうゆう]
理事

馬場 [フリースクール ぱいでぃあ]

理事 幸田 [ウォーム・アップ・スクール]
理事 坂詰 [NPO法人 和泉自由学校]
理事 後藤 [Xing(クロッシング)]
理事 丸山 [フリースクール育心塾]
理事 矢吹 [マインドヘルスパーソナリティセンター付属健康学園]
理事 山本 [YGS高等部]


フリースクール全国ネットワークの役員についてはhttps://www.freeschoolnetwork.jp/history/history.htmから引用する。

各地のフリースクールの代表者が理事を務めています。
 <特定非営利活動法人フリースクール全国ネットワーク役員>
代表理事 奥地圭子(NPO法人東京シューレ理事長)
       増田良枝(NPO法人越谷らるご理事長)
   理事 江川和弥(NPO法人寺子屋方丈舎常務理事・事務局長)
       木村清美(フリースクールヒューマンハーバー主宰)
       高橋徹(フリースクール僕んち代表理事)
       田辺克之(神戸フリースクール代表)
   監事 児玉勇二(弁護士)       

●加盟団体で見ると、日本フリースクール協会にはサポート校などの「学習」寄りの者が多い。「対人関係の回復」など、ある意味の学校復帰色が強い。また「このフリースクールではこういうことが学べます」ということを謳っているフリースクールがおおい(あくまでネットで見た限りです)。 けれど、フリースクール全国ネットワークは「過ごす」ことを重視したフリースクールが多いのだ。子どもが自由に過ごし、学びたいときに学び、遊びたいときに遊び、帰りたいときに帰る。こういう色が強い。

なりますというフリースクールは両団体に加盟。ポケットフリースクールも両団体加盟である。両者の壁は意外に薄いのかもしれない。

追記
●ネットで調べていると、日本オルタナティブスクール協会というものもあった。こちらはサポート校の集まりという色がハッキリ出ている。8「校」が加盟。こっちははっきりと「加盟校」という。学校扱いなのだ。学校色の薄いフリースクールならば「団体」という言い方をよく使う。
 下は団体の説明をしているページ。協会のウェブサイトよりもってきた。

これまでの学校教育における、「いじめ」「不登校」「校内暴力」などの様々な歪みや弊害を改革するための教育活動を行い、全国に広がっている通信制サポート校。
その通信制サポート校が、厳しいガイドラインを設け、自主規制を行いながら、行政や社会に対して認知活動を行うことを目的に、1996年、全国通信制サ ポート校協議会を発足させました。そしてこの協会が、より幅広い活動をするために、またより明確に会のあり方を示すために、2000年3月1日付をもって 名称を変更し「日本オルタナティブスクール協会」とし、現在に至っております。

●「学習」寄りか、「過ごす」寄りか。日本フリースクール協会とフリースクール全国ネットワーク、日本オルタナティブスクール協会の3者を立て分けると次のようになるだろう。
「学習」寄りの順には、
日本オルタナティブスクール協会・日本フリースクール協会・フリースクール全国ネットワーク、となる。

食事をするように本を読む。

1回1回の食事に、意味はほとんどない。けれど、これが自分を作る。

同様に、次に読む1冊の本にはそんなに意味はない。けれど排泄するように読んでは忘れ、読んでは書きを繰り返すうちに、体は育ち・頭も育つ。

本1冊の力は大きいが小さい。次に読む1冊にそんなに期待せず、淡々と本を読み続け、考え続け、忘れ続けることが大事なのだと思う。

頼まれていない原稿を書く。

ブログを書く。定期的に。

このことで私はいろんな発想(それこそブログを書く行為をしなかったら決して出てこなかった発想)を得ることができる。

不思議なことだが、「話さなければならない」「書かなければならない」状況に追い込まれた時、人は何かを語り、何かを書くことができる。平常時なら思いつかなかったことも、何故か出てくる。

 




 

古来、知識人はよく手紙を書いた。ベートーヴェンの書いた手紙も、ネルーが娘に書き送った手紙も、〈名著〉として今も残っている(ちなみに『ベートーヴェンの手紙』と『娘に語る世界史』である)。手紙を書くとき、無意味なことを書けない。ひょっとすると、あえて手紙を書くことで何らかの発想を得ようとしたのではないか。

私は〈知識人とは、出版社の原稿依頼を受け、それから発想する人〉だとイメージしていた。子どもの考える漫画家像そのままである(これに編集者から如何に逃れるかという展開がついてくると、完全に手塚マンガの世界だ)。けれど、おそらくは原稿依頼がなくても何がしかの原稿を書いているのが真の知識人なのではないか。

日々、誰に言われなくてもブログを書くとき、〈頼まれていない原稿〉を書いていることになる。人間は自由すぎると何もしない。だからこそ「毎日、何かをブログに書かないといけない」状況に意図的に自分を追い込んでいれば、日々何かを発想できるのではないだろうか。

 

 

 




追記
思えば私はこうした〈頼まれていない原稿〉を結構書いてきた気がする。小三のときの係決め。黒板に書かれた〈係リスト〉には無かった壁新聞係を発案した。結果、初代新聞係に就任。題字・アンケート企画・記事・四コマ漫画、全て自分一人で書く。好評ではあったが、マンネリのため一学期のみの発行に終った。
高校。寮の中で清掃委員長になる。頼まれてもいない〈清掃委員マニュアル〉を勝手に作り、清掃委員に代々伝わるようにしようと努力。最近寮生に聞いたらまだ私の文章が残っているらしい。赤面。学校で生徒会長をしていた時も、やたら議論を書き残そうと一人パソコンに向かい文章化。「議論の見える生徒会」がテーマだったが、結局パソコンの小さな字を誰も読まなかった(それよりも、生徒会の活動に誰も興味を示さず、読む気もしなかったというのが事実かもしれない)。
大学。サークルの集まりの際、『めもらんだむ』というミニ新聞を作って配っていた。書評や自分のエッセイなどが書かれていた。
別のサークルでは年に2回、講演会を企画。その際に配る言論誌には毎回必ず原稿を書いた(たぶん今年も書く。めざせコンプリート)。昨秋の言論誌作成ではちょっとした波紋を起こす。「書いてくれ」と言われていないけれど、私は原稿を8本書いた。他の人は1本がやっと。とうとう原稿を書かなかった人もいた。結果、採用されたのが3本。クオリティはけっこう良かったのに。それだけで終らず、「お前が原稿を書けるのは分かった。けれど、その分の努力を1年生が書けるよう手助けしてあげるべきではなかったのか」と怒られてしまう始末。「確かにそうなんですけど…」と不満が残った。批判は〈原稿も書かず、1年生の手助けもしなかった上級生〉にこそしてほしかった(それに私は1年生が原稿を書けるようにネタを教えてあげたり、レポートで1年生が書いたものを原稿化できるようアドバイスもしたんですよ)。
O先生のゼミでは毎回書評を書いて持っていった(ほとんどの人は持ってこないのに。私はKYな奴である)。
概観すると、私は書くことが大好きな人間なんだと思う。それも〈誰にも頼まれていない原稿〉を書くことが。結果的に他人に悪く言われることも多い。おお、不運。
教訓。〈誰にも頼まれていない原稿〉は需要がない分、無駄に終るか、他人に評価されないで終るか、キレられてしまうかというマイナスの結果をもたらすことが多い(ますます不運)。
でも、書いてしまうのが俺なんだよな…。ブログがあって、本当に良かった。ブログを書いても、誰からもキレられないで済むからだ。

再記
頼まれない原稿を書くと、なぜマイナス要素が発生するのだろうか? それはまさに〈頼まれていない〉からだ。
需要の無いところに供給をしても反発をされるだけだ。
ブログは将来の需要を見越して先に供給されている(だってGoogleで検索すればすぐ出るからね)。

さらに追記。
●ルターやホセ=リサールが迫害を受けたのも〈頼まれていない原稿〉を書いたからではないか。往々において、〈頼まれていない原稿〉は現体制に批判的であったりする(だって誰も依頼しないからね)。

大学生なら授業は潜れ。

授業は潜った方がいい。たとえ正式な学び方でなくても。

単位のために勉強するなんて、バカらしくないですか?

重要なのは大学で何を学んだかであって、何を教えてもらったかではない。それはイリイチが口を酸っぱくして人びとに伝えてきたことである。教えられるのを待っていると、そのうち〈教えてもらう〉ことだけに価値があると考えるようになる。

「学校化」(schooled)されると、生徒は教授されることと学習することを混同するようになり、同じように、進級することはそれだけ教育を受けたこと、免状をもらえばそれだけ能力があること、よどみなく話せれば何か新しいことを言う能力があることだと取り違えるようになる。彼の想像力も「学校化」されて、価値の代わりに制度によるサービスを受け入れるようになる。(『脱学校の社会』13頁)

大学生って、何かを学んでいる人のことだと思う。単位のためとか就職のためとかを気にせず、自分が「学びたい!」という熱意に突き動かされてしまう人。それも自分と同年代の若者が週に40時間労働しているなら、「同じくらいは学んでやろうじゃないか!」という人。現代では少数になった「変人」。それこそ大学生だろう。

私はここに書いたような大学生ではない(念のため)。まあ、目指してはいるんだけどね。単位申請していない授業に出る際(つまり潜るということです)、ちょっとかもしれないけれど理想の「大学生」気分に浸ることができるのだ。

ちなみに今年は潜り率50%です。

週刊誌不買と教育社会学

バイト先で『SAPIO』2009年3月11日号を目にする。特集は「渡る世間は偽善ばかり」。表紙を見て教育に関しての記述があることを知り、読んでみた。

久々の週刊誌。何と言うか、ずっと学術系の文章(内田樹くらいしか読んでないが…)しか触れていなかったので「雑だな」と感じた。文章だけでなく、書かせるライターもベスト・セレクションであるとは思えない。教育問題は政治評論家ではなく、教育学者や現役教師に書かせるべきだ。自称〈評論家〉の勝手な文章を雑誌に載せるのなら、それなりの覚悟が必要である。

「もっと学歴差別を推進すべきである」とは評論家・呉智英の記事。首相が漢字を読めない。このことの原因について「そんなの、学歴に決まってるじゃないの」と説明(注 麻生首相の出身は学習院である、念のため)。マスコミ関係者が高学歴であることに触れて、「彼らは皆内心では私と同じことを思っているのに、なんではっきりと言わないんだろう。『学歴差別』と言われるのを避けているんです。偽善的だねえ」と続けている。

この呉氏の文章、非常に面白い。フランスでは政治家になろうとした場合、エリート教育機関であるグランゼコールを出なければならない。麻生首相を「学歴が低いからだめなのだ」と言い切るセンス。思わずニヤッとしてしまう。

けれど、記事の後半部がいけない。呉氏はタイトルにあるように「もっと学歴差別を推進すべきである」との主張を展開する。

学歴は実力を反映していないという批判もあります。しかしそれは学歴主義の不徹底を批判しているのです。だって、実力を正確に反映した学歴社会になればいいわけですから。(中略)学歴差別の歴史的意義、社会的意義を理解せず、因習的な身分差別と同類だとしてしまう。学歴差別はイカンと言えば、良識に合致すると思われているのです。

 この記述はいただけない。少々教育社会学を学んでいればこんな記事は書けるはずがないのだ。
本文の「実力を正確に反映した学歴社会」という言葉。これを社会学者はメリトクラシーと呼ぶ。刈谷剛彦などが編集した『教育の社会学』(有斐閣アルマ)には「より高いメリットを持った人々が、より高い地位につく社会のしくみ」(211頁)と説明されている。なおメリットとはここでは「職業に貢献できるだけの能力や実力」(271頁)を指す。高い能力を持つ者は当然高学歴を持つのだから、学歴をもとに人間の能力を判断すべきだ、という考え方である。

『教育の社会学』の記述を引く。

どれだけがんばろうとするかという意欲や動機づけは、個人がどのような社会環境におかれるかによって違ってくるのではないか。努力し続けようとする性向や、がんばってみようとする動機づけが、どのような家庭環境で育つのかによって違ってくる可能性があるのだ。さらに、努力の習慣ということも、家庭のしつけの問題だとみることができるかもしれない。そうだとすれば、学力の差異には、能力の差異だけではなく、努力の差異を通した出身階層の影響が表れる可能性も否定できない。(pp243~244)

呉氏のいう「実力を正確に反映した学歴社会」メリトクラシーは、東大にいけそうな環境にいる人しか東大には行かないという事実を見過ごしてしまう。前にブログで書いたが(https://nomad-edu.net/?p=520)、〈①大学に行くのが当然視される環境で、②周囲にも大学にいくことの賛同を受けていて、③塾や予備校・参考書代を捻出する経済的余裕があり、④勉強しやすい環境が整備されている、という条件に適う者のみがいわゆる一流大学に合格する〉のである。いくら実力があっても、大学に行かないのが当然とされるような家庭ではまず大学にいくことはない(野口英世は希有な例外だ)。

教育社会学者なら絶対に書かないような文章が載っている週刊誌。今日あらためて週刊誌不買を決意した。

追記
●先の『教育の社会学』には次の記述もある。

学歴社会というと学歴の影響が圧倒的に大きい社会を想像するが、実際には、どのような家庭に生まれるのかも依然として強い影響を残しており、しかも、どのような家庭に生まれるのかが本人の学歴に影響し、それが本人の到達階層に影響するという関係も強化されているのである。(259頁)

やはり学歴は本人の努力のみで決まるものでないことが分かる(その「努力」自体も生まれた環境によってやる/やらないがきまることも本文で述べた)。

〈よろしくお願いします〉禁止令

「よろしくお願いします」

今日、私は30回以上はこのセリフを聞いた(気がする)。東京にいる現代人は「よろしくお願いします」を頻発する(気がする。「東京にいる現代人」限定なのは、私が東京に住み・東京の大学に通っているためであり、私が基本的には日本語しか聞いて理解できないからだ)。
ゼミのO先生に「〈よろしくお願いします〉と言わないようにしよう。そうすると自分で考えるようになる」と今日教えていただいた。その際に改めて「あ、俺、けっこうこのフレーズを使っていたな」と実感した。それにしてもO先生は常に〈自分で考える〉ための素材を提供してくださる。ありがたいことだ。

では現代人は〈よろしくお願いします〉にどのような意味を与えているのか。検証してみよう。

⑴「今後、ぜひお付き合いをしていってください」というポーズを示すときに使う。自己紹介の時などに使用される。実際には〈よろしくお願いします〉と言われても(言っても)、まったく付き合いが無いことがある。
例:「新入社員の石田です。よろしくお願いします」

⑵相手に何かを頼む。特に本来ならば依頼できない以上のことを頼むときに使う。選挙時によく聞くフレーズ。
例:「いしだ、いしだはじめに、皆様の清き一票をよろしく、よろしくお願いします」

⑶間を持たせるときに言う一言。
例:「えっと、まあ(セリフを考える)、よろしくお願いします」

⑷仕事を忘れていた相手・ミスをした相手に、「こっちは怒っているんだ」と伝えるときにいう。注意を促す際に使用する。
例:「えっ、あの仕事、まだできてないの? よろしくお願いしますよ」

うーむ、何とも偽善臭いぞ。振り返ってみると、私もよく「よろしくお願いします」を使っている。正の字でカウントすると、正が一日で9つは書けるかもしれない。偽善臭い言葉をしょっちゅう使っている自分に反省。

…この一見、非生産的なことがらをブログに書いているのは何のためか。無論、暇つぶしではない(たとえそう見えたとしても)。小笠原喜康(おがさわら・ひろやす)は卒論執筆のテクニックとして【「九」勉強して「一」考えるのではなく、「一」勉強して「九」考えよ】(『大学生のためのレポート・論文術』講談社現代新書、2002、p147)と語る。自分の頭/手/足で考えるために時間を捻出して書いているのである(希望も含めて)。

山のあなたの空遠く 「幸(さいわい)」住むと人のいう (カール=ブッセ)

どこか遠くに幸せがある。どこか遠くに自分のことを本当に理解してくれる親友がいる。

そんなわけはない。密かに期待している自分に対し、戒めの為にここに書いておく。

今いる場所でないところに幸福があるか、どうか。実際にあちこちに行ってみなければ分からない。手間も暇もお金もかかる。そんなカンタンに移動できないからこそ、人は夢を見てしまう。そして現状の慰めとして、〈遠くにある/いる幸せ〉ユートピアを設けるのだろう。もし仮にユートピアがあったとしても、そこに行き着かない可能性も考えなければならない(砂漠ではオアシスの幻が見えます。ユートピア=オアシスに向かっていても、それが蜃気楼だったら悲しすぎますね)。ユートピアの存在を信じるのはリスクが大きい。

どこか遠くに幸せはない。どこか遠くに親友がいるわけではない。だからこそ、今いる人間関係をよくしていくしかない。

幸せの青い鳥は、あんがい身近にしかいない。今までの自分は近くにいた「青っぽい鳥」をカゴからわざわざ逃がしていたのではないか。洗ってあげていれば青くなったのかもしれないのに。

どこか遠くに幸せがあると考えることにリスクがある以上、今いる現実で満足するしかない。つまり、いまの現実を楽しむしかないのだ。現実を否定して「俺は不幸だ」と考えるのは、頭のいいやり方ではない(オアシスの蜃気楼をみることになる)。

アランは「悲観主義は感情によるものだが、楽観主義は意思によるものである」と語る。意識的に楽観主義で現状を楽しむことが大切なのだ。

内田樹は‘幸せになるには開放系をとるしかない’と書いた(『疲れすぎて眠れない夜のために』)。現状の人間関係を否定せず、楽しめる方法を考えていくことが、現代の「幸せになる方法」なのかもしれない。

自分の言葉

自分の中で哲学を発見しながら、生きている。他者の本を読んで得たものも、自分の中で熟し、自分の言葉で表現できるようにならなければ本当に自分のものになったとは言えないのではないだろうか。

ショーペンハウアーも〈本を読みすぎると、自分で考えなくなる〉危険性を語る。

自分の言葉で表せなければ、借り物の知識にすぎない。

このブログの中に、こうした自分なりの哲学が多少なりとも入っている。雑文ではなく、こうした哲学的考察の記述を多くしていきたい。

まあ、内田樹にいわせてしまえば〈100%オリジナルな言葉など存在しない〉ことになってしまうのであるが。