雑念

国立東京近代美術館

 友人Nのすすめで、国立東京近代美術館に行く(最寄り:東西線竹橋駅)。ゴーギャン展を素通りして(前回来たから)常設展のみ見る。学生130円はバカなくらい安い。行かないのは損である。

 Nの話では「日本の近代絵画の、明治時代から現在までの変遷がわかる」とのことだった。受験用の日本美術史程度の知識しかない私の目には、はっきり言ってあまり絵画の変遷がよくわからなかった。しかしながら黒田清輝など、名前だけ知ってる画家の作品を知ることができた点は大きかった(受験知にも効能があるものだと実感する)。一通り見た後、戦後絵画史上で岡本太郎だけが一種独特な雰囲気をもっているように感じた。

 個人的に好きだったのは、2階の田中新太郎の展示。パネルを展示する柱のような作品「偏光」を、私は作品と思わずに跨ごうとした。すぐに背後から係員の「跨がないで下さい」との注意が飛んできた。真鍮で出来たその作品は、作品と言われないと作品には見えない。
 会場に田中新太郎のトーク映像が上映されていた。ネオダダの流れを汲む田中の絵画論は、本当に面白かった。
〈私たちは言葉で考える「思考」を行っている。そうではなく、目で考えるという「視考」を行うべきだ。言葉でじっと考えるのでなく、目で視考するのだ。対象に寄り添って共有をするのだ〉
 このメッセージを聞き、「臨床の知とは何か」という岩波新書を思い出した。対象の分析ではなく、対象を共有していく態度の重要性を謳った本であった。
 このVTRを見るだけでも、竹橋まで来た甲斐があったように思う。

お札と切手の博物館

 夏休みは、何もすることがない。
 自宅そばにある「お札と切手の博物館」に行ってみる。
 夏休みということもあり(入場無料ということもあり)、親子連れが多かった。

 いままで日本のコインは「型に流し込む」という鋳造コインであると思っていた。本当は金属片に型をあて、上から叩いて模様を付けていたそうだ。打刻コインというらしい。

 教育社会学者を目指すものとして、本展示の「隠れたカリキュラム」を探っていきたい。国立印刷局が「お札と切手の博物館」を開く意図はどこにあるのだろう。

 国家は、さまざまな制度を「国家のみがそれを行うのだ」という強烈な意志を持っている。人々の商取引の際、なくてはならない存在である「貨幣」は、国家の信頼の証しである。古来より、洋の東西を問わず贋金づくりは極刑に処せられてきた。何故か? 貨幣の信頼は国家自体の信頼にもつながるからだ。
 「お札と切手の博物館」内では、何度も次の説明に出会う。
 《日本の紙幣の印刷技術が高いので、日本の紙幣は偽札をつくりにくいことで有名です》。
 まさに、偽札が出回らないことこそ、国家信頼の基であると、国立印刷局が語っているのだ。

 もう1点。博物館の中に海外の紙幣を展示しているコーナーがあった。聞いたこともないような国の、見たことのない人物の描かれた紙幣。よくニュースに登場する、ドルやユーロの紙幣。こういった様々なものを見ていると、各国それぞれ別の紙幣を使用していることが見学者に伝わる。それと同時に、「紙幣を出せるのは政府だけだ」というメッセージを見物人に伝えることができる。
 江戸時代、日本で使われていた紙幣は「藩札」であった。全国の藩が、領内のみでつかえる紙幣を勝手に発行していたのだ。明治政府以降、一時期は銀行が勝手に紙幣を出せた時代もあるが、発行するのは一貫して政府であった。

 貨幣の発行主体こそ、国家に他ならない。各国の様々な貨幣を目にした見学者は、知らず知らずのうちに「貨幣をつくっていいのは国家だけなのだ」ということを学んでいく。
 意図的か知らないが、この博物館には「地域通貨」の説明が一切ない。

注 「隠れたカリキュラム(潜在的カリキュラム)」について、田中智志『教育学がわかる事典』(日本実業出版社、2003)には次のようにある。

「潜在的カリキュラムの内容は、教師によって明言されることはすくないけれども、教育関係が成り立っているところでは、それは暗黙のうちに子どもに強要され、暗黙のうちに子どもに了解されている。それは、たとえば、教師を尊敬するという態度、衆人環視のなかでの自己表現・自己防衛する知恵など、教育関係を存立可能にしている基本条件である」(109頁)

早稲田大学教育学部 自己推薦入学の裏側

 わが早稲田大学教育学部には、自己推薦入学試験制度がおかれている。自己推薦入学試験(いわゆるジコスイ)とは、部活の全国大会優勝などの実績をアピールし、受験する試験制度である。早稲田の全学部に自己推薦入試があるわけではない。そのために、「一芸」に秀でた人々は「教育」に興味がなくとも教育学部にやってくることとなる。

 ちなみに「一芸」入試で有名なのは亜細亜大学である。登山家の野口健はこれを使って入学した。彼の著書は『落ちこぼれてエベレスト』。私はそれをもじって『落ちこぼれて亜細亜大』と呼んでいる。
 閑話休題。その早稲田大学教育学部の自己推薦入試であるが、合格してきている人々はどんな「一芸」に秀でているのであろうか? やはり全国大会1位などが多くなるはずだろう。どんな人たちが合格しているのだろうか。
 そう思い、さっそく早稲田大学の教育学部の学部事務所に行った。そして「自己推薦入学のご案内」というパンフをもらった。以下はパンフに載っていた昨年度のデータである。
 なお、下の学芸系とは「全国書道展1位」などの文化系での実績、スポーツ系とは「サッカー全国大会3位」などの体育会系での実績、全校的活動系とは「生徒会長」などの実績で合格した人のことを指す。
 自己推薦試験、志願者は計390名。そして合格者は61名。
 では学芸系での合格者から。志願者128名、合格16名。倍率は約10倍。
 続いてスポーツ系。      志願者175名、合格23名。約8倍。
 最後に全校的活動系。    志願者87名、合格22名。約4倍。
 なんと、最も合格率が高いのは「生徒会長」「生徒会副会長」などの「全校的活動系」の実績で受験した人達なのだ。ときどき生徒会長になることを「大学入試のための点稼ぎ」と悪くいう人もいるが、「確かにそうともいえるよなあ」と思ってしまうデータであった。
 ちなみに、私は高校では生徒会長。ああ、ジコスイを使えば早稲田に簡単に入れていたのか・・・。あんなに苦労しなくても良かったのに・・・。悔やむ心が起きてくる。
 
 ところで、「いない」とは思いますが、これを読んでいる受験生で、かつ生徒会長の方へ。早稲田大学教育学部への自己推薦試験を受けてみることをお奨めします。「教育」への興味はなくて構いません(私も教育学部は第五志望。まさかここへ通うことになるとは)。だって倍率はたかだか4倍なのですから・・・。

猛省、猛省。

今日も12時まで寝てしまった。その後、映画『燃えよドラゴン』を見つつ寝てしまい、行動開始は16時。何という自堕落な生活だ!

先日中学時代の友人に電話した。彼は上京して現場監督として働いている。電話口の声が疲労で溢れていた。その彼の話を思い出す限り、「大学生」を味わわせてもらっていること自体に申し訳なさを感じる。

アメリカの大学は、大学生が週に45時間勉強することを想定してカリキュラムを組んでいるらしい。授業が15時間あり、残り全て自習という想定。
何故45時間か? それは一日8時間労働×5日+土曜は半日(5時間)労働、という一般企業の労働体系を学問にも合わせているからだ。
「君たちと同い年の人間は、週に45時間くらいは働いている。だから君たちもそれくらいは勉強しろよ」という、考え方なのだ。

アメリカでは一度社会に出てから大学に行くことも多いらしい。そのようなとき、「労働するのと同じくらいは大学で学ぶ」という考え方には納得できる点が多いであろう。

私も、猛省をしなければ。明日は7時に起きて、即行動開始をしよう。

高校生畏るべし

 私が母校の寮に学生ボランティアとして関わるようになって、今年で3年になる。関わりはじめた頃の高校1年生が、来年には卒業していく。感慨深い年である。高校生と話す方が、早稲田生と話すよりもためになる事がけっこうあるのだ。
 昨日は寮生のK君と洗面台のそばで話した。彼は高校1年生である。

K「石田さんは今まで何冊本を読んできたんですか?」
私「大学時代に、ざっと750冊くらいかな」
K「じゃあ、良書は何冊読んできたんですか?」
私「良書? 『カラマーゾフの兄弟』とか『エミール』とかのことだよね。大体50冊くらいかな」
K「あんまり良書は読んでおられないんですね」
私「……。」
K「石田さんは『カラマーゾフの兄弟』を読んでるんですよね。読んでどう変りました?」
私「え、……。でも『モンテクリスト伯』を読んだ時はめちゃくちゃ感動したよ」
K「そんな本も読まれてるんですか。にじみ出ませんね」
私「う……。」(涙)

 大学の友人や先輩/後輩、大学の教授が聞いてくるレベルを遥かに超えた発問であった。グサグサ胸に刺さってくる。K君は決してイヤミで言ってくるのではなく、にこやかに話してくるのだ。この文章を読んでいる方。高校生にこのように言われたら、私同様泣くしかないですよね? 
 よく教育において〈子どもから学ぶ〉姿勢が大切だ、と言われている(灰谷健次郎の十八番である)。タテマエでも何でもなく「まさにその通りだなあ」との思いを新たにした。深夜2時にも関わらず、一気に眠気がひいたのである。

 K君の話の中で注目すべき点がある。それは学ぶという事は学ぶ者に〈変化をもたらす〉ものだという認識である。K君の「どう変りました?」「にじみ出ませんね」という言葉に象徴的に現れている。ある教育学者は「学んだことの証しは、ただ一つで、何かが変わることである」(林竹二『学ぶということ』)という言葉を残している。これは昨年読んだ教育関係の書の中で最も印象深かった言葉である。K君はおそらく直感的に学びの本質を見抜いていたのであろう。後生畏るべし、との思いを強くする(ここでは後生ではなく、「高校生」とすべきであろうか)。相手が子どもというだけで軽く見てはならないのだ。

 この文を、私は寮からの帰りの西武線車内で書いている。もうすぐ〈我らが母校〉の高田馬場に到着する。さて、〈良書〉を久々に買いにいくとするか。

映画『ウォーリー』

 早稲田松竹で公開中の映画『ウォーリー』が面白くて仕方ない。大学に入ってから結構映画を見てきたが、同じ映画を映画館で2回以上見たのは本作が初めてだ。

〈環境汚染のため、人類が地球を見捨て宇宙に出た。その際、一台だけスイッチを切り忘れたロボットがいたならばどうなるのだろうか?〉。このアンドリュー・スタントンの問題意識が、本作を構成した。

 設定ではウォーリーは700年間一人で働く中で感情が芽生えてきた、とされる。ウォーリーはクライマックスにおいて一度故障し、マザーボードを交換しているが、その際彼はプログラムに忠実に従うだけの存在となってしまう。本来のウォーリーには感情も何もなかったのだ。
 時の経過により、感情を得たウォーリー。彼には他のロボットに感情を与える作用があるようだ。ロボットに感情を与えるという〈啓蒙〉を行っている。ウォーリーと会う以前は従順にオートパイロットや人間の命令に従っていたであろうロボットたち が、ウォーリーに味方をし、反乱を起こすようになるのはそれが理由であろう。
 イヴというヒロインのロボットは初め、全く女性性を見せない。他のロボット同様、ウォーリーとの交流の中で、徐々に女性性が発揮されるようになってくる。だからこそ大団円でのウォーリーとの〈握手〉は非常に印象深いものとなっている。
 
 映画のラスト。アクシウム艦が地球に帰還する。植物が育つようになったとはいえ、砂嵐が頻発するなど(映画中、ウォーリーは2度も嵐に教われていました)自然環境はまだまだよくない。イヴは原子力発電所のプラントを破壊していたが、放射能汚染はないのだろうか? 
 ラストシーンを見ていて、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』を思い出した。『ナウシカ』は「火の7日間」により文明が崩壊した後の物語である。一度絶頂を迎えたあとの残滓で人々が暮らしている。中世同様の生活をしていながらも、何故か一人乗り飛行機(メーヴェですね)や飛行艦隊が存在する歪な世界である。アクシウム艦の住人にはコンピュータの蓄えた膨大な知識と智慧が与えられている。けれど聞かない限りこれらの知識をコンピューターは教えてはくれない(艦長は「土って何?」「海って何?」という三歳児レベルの質問をコンピュータにするまで、これらの存在を知っていなかった)。ロボットも多数存在する社会ではあるが、もはや住人はその構造すら知っていない。
 はたして映画のあと、この世界はどうなるのだろうか。私ならば「アクシウム艦に乗っていた頃が懐かしい」と復古主義に走る。艦長は「生き残るのではなく、生きたい」と主張するが、この生き方は相当ハードである。自分で道を開かないと行けないのだから。少数には可能でも、大多数の人間にとってやはり「宇宙こそパラダイス」(映画中に出た、BNL社のCMより)であり、懐かしき故郷となるのではないだろうか。

追記
●いい映画は、何度見ても鑑賞に堪える。もう一度、観に行ってこようと思う。実は『ウォーリー』もそうだが、同時上映の『マジシャン・プレスト』も見たいのだ。
 中谷彰宏は〈同じ物からいくらでも学べる人が学習力のある人だ〉といっていたのを思い出す。自分が「これだ!」と決めた本・映画を徹底して学んでいく姿勢も重要なのである(おそらく師匠などの「人」もその対象に入る)。いまは16時。17時上映分を観に行こう。
●それにしても。この映画で主役たちを「食って」しまうほどの演技(活躍?)をしたのはモーというロボットだろう。〈汚染物質〉まみれのウォーリーの足跡(キャタピラの跡)をひたすらに掃除し続ける執念が、観客に笑みを与える。エンドロールでも大活躍であった。
●映画『ナウシカ』を観た時と同様、観賞後に非常に感傷的になる映画だ。映画の世界にノスタルジーを感じてしまう、ということだろうか。
●ウォーリー、イヴ、モー、オートには、目しかない。けれど目の存在により、人間らしさが表現されているように思う。人体において「目」の存在は大きいのかもしれない。
●『2001年 宇宙の旅』が下地になっている。オートの目が赤く、一つ目であるのも『2001年』の影響だ。艦長が立ち上がってオートと格闘するシーンでは『2001年』のテーマが流れるのである。
●艦長は地球に戻ることを、はじめ嫌がる。それは「いつもと同じ」に憧れるからだ。けれど、ウォーリーの体に付着していた物質(「土」のことです)を契機に、地球についてをコンピューターから教わって後、艦長は自らの意思で行動を開始する(それまではオートパイロットの言いなりであった)。これは何故であるのか。
 ベーコンは「知は力なり」といった。知ることが力になる、との意だ。自分の行動の意義を「知る」ことによって、人は主体的な行動がとれるようになるのであろう。艦長は地球復興を目指す。ようやく2本足で立てるようになった(比喩ではなく、文字通りの意味です)艦長たちが、世界を新たに造っていくのは不可能ではないだろうが、かなりシビアなことである。けれど不可能そうなことに挑んでいく上で、「知る」ことは大きな力になるようである。
●宮台の『終わりなき日常を生きろ』。そこには最近のアニメが「ハルマゲドンそのもの」を描くものから「核戦争による終末後の世界」を描くものに変わっていったことが書かれている。本作『ウォーリー』は後者の「週末後の世界」を描いていると考えられる。

葬儀の持つ、根本的問題点について。

葬式に来てほしい人を、死んだ本人が決めることはできない。そのためしばしば来てほしくない人が葬儀に来て、来てほしい人には死んだことすら伝わっていないということがよくある。けれど本人が死んでしまっているが故に、誰もこのことを問題にしようとはしないのだ。

あきらめ

 大和少年野球クラブに私は入っていた。兵庫県にある八千代西小学校という1校の生徒から構成されている、地域の野球クラブである。町の中には(注 その当時、わが八千代町は合併前でした)北小・南小で構成された八千代少年野球クラブも存在した。なかなかに練習がハードであった。
 実力はなく、弱々しい私であったが、人数が少ないのと、たまたま「9番目」前後の力量を保っていたため9番ライトのレギュラーだった。一番軽い場所にいたわけだ。よく考えると、ギリギリ「レギュラー」というあり方は今のサークルでの私の立ち位置と同じである。
 少年野球をやっていたとき、はっきりいって私はやる気がなかった。けれどやめるのも色々面倒なので(チームメンバーとは基本的に学校でも会うため気まずいのだ)、しかたなく不本意ながらやっていた(でもやってる中では楽しくなるんだけどね)。これ、いまの私のメンタリティーとも共通する。
 人生、〈気づけばイヤイヤながらやってしまっている〉ことが多い気がする。あきらめが肝心なのかもしれない。そう、辛くて当たり前だと認識して、「少しでも楽しむにはどうしたらいいか?」考えていく姿勢こそ必要なのだ。

追記
●タモリの「やる気のある者は去れ」との言葉は私のためにあるのかもしれない。

さらに追記。
●教育実習にいたとき、大和少年野球クラブが無くなったことを知る。ショックである。クラブの横断幕はどこへいったのだろう?

教育的作用について

ある日。

飲み会の後、私は新宿歌舞伎町をうろついていた。2次会にいく金が無く、だからといってまっすぐ家に帰るのも億劫だ。あてもなくうろつく。

まわりには派手な立て看板とそれを飾るランプ。キャッチや集団の騒ぎ声、喧騒。

ふと、私の視線が一カ所に定まる。風俗店の営業時間の表記。12時から24時までとなっている。

常識的に考えて、昼間から風俗店にいく人は少数派だろう。仕事帰りの18時から24時までの営業でもよいはずだ。それにもかかわらず、営業時間が昼間からなのは何故か。

その理由には教育的側面があるのかもしれない。夕方からの営業にしたほうが確かに合理的だ。けれどそうではないのは、入ったばかりの従業員が店に慣れるためではないだろうか。昼間は人が少ない分、新人は客とのやり取りや会話・〈仕事〉を学ぶことができる。夕方以降の繁忙期はベテランに仕事を任せることで売り上げを確保する。店の長期的運営を考えるなら、新人を教育できる時間帯を持っているほうがよいだろう。いまはやりの〈持続可能性〉を高めることになる。

そういえば、落語家が寄席を守ろうとするのは弟子の教育のためだそうだ(今井むつみほか著『人が学ぶということ』)。客商売も長期的スパンでものを考えるなら、一見非合理的に見える側面にも力を入れていかなければならないのだと思う。

ちなみに、ここに書いたものはすべて私の想像です。

「話せば分かる」のか?

話せば話すほど、生じる誤解。

「話せば分かる」とはよくいわれるが、話せば話すほど誤解の深まる時もある。

友人はいう。「本音を言ってくれ」。
けれど本音や本心なんて、本当に人間にはあるものであろうか? 話す時々の「思い」はあっても、本音というものは存在し得ないのではないだろうか。

先ほどまで、拙宅で種々の話を友人2人と行った。「本音を」というから、思ったことや感じてきたことを話した。どうやら、多大な失望を与えてしまったようだ。話さなかったほうが良かった気がする。

ただ、「ここから関係を良くしていく」というM君の最後のセリフは一筋の希望ではある。
ところで。ただでさえ頭の回転の鈍る深夜に深刻な話をしても、「建設的な」話ができるわけない。

追記
●よく文の読み方として「批判的に読む」とある。著者の意見に同調しすぎず、「どこかに批判すべき点があるのではないか」と考えながら読む手法のことだ。クリティカル・リーディングともいう。この方法には欠点があるように思う。批判的に読むとき、主体である「私」が成長/変化することが制限されることがあるという点だ。
 批判をするとき、人は批判される対象よりも高い位置にいるという前提がある。対象と同じかそれより低い位置にいる時、批判をすることはできない。その姿勢はものを学ぶ姿勢ではない。授業中、教師の揚げ足をとることに似ている。批判をするときには「学ばせていただこう」という謙虚さがなくなってしまう。その結果、批判者は批判する対象によって変化させられることがなくなる。
 本日の友人との諍い。はじめ私は「批判者」として対面していた。けれどそれでは相手の揚げ足を取り続けるだけとなり、何のために友人たちが家にまで話にやってきたのか分からなくなった。相手が「思い」を伝えにやってきたのなら、その思いを批判的に聞くだけでは相手に失礼であるし、自分の成長のチャンスも摘んでしまうこととなる。
 学問の世界では「批判的」であることは重要なようだ。けれどこの態度を貫きすぎると、小説や偉大な研究によって「私」が根本的に変化させれた、ということが無くなってしまう。そもそもの研究する意味すら分からなくなる(私は灰谷健次郎がいうように、研究という「仕事」によって〈人間的成長ができればいいな〉と考えているのだ)。
●友は「お前は自己顕示欲が強い」と言っていた。おそらく、そうなのだろう。このブログを書きながら実感している。
●「いま思っていることをいってほしい」といわれたとき、雑念で考えていたことを思わず言ってしまった。相手は不機嫌となった。不注意であった。