映画

映画『エクソダス:神と王』2014

ユダヤ民族の預言者・モーセをめぐる話は、昔から映画化の定番である。

例えば→「十戒

出生の秘密(「王子と兄弟のように育っているが、実はお前は、奴隷の息子なのだ」)や迫害者からの逃避、放浪、そして海を渡るなど、映画的要素にあふれた物語である。

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エクソダスとは「出エジプト」。
つまり、迫害を受ける地からの脱出である。

モーセやエクソダスについてが映画・物語となる背景には、「ここから、別の世界に行きたい」という人びとの潜在意識の反映である
(そのような意味で、不登校をテーマに村上龍の描いた『希望の国のエクソダス』という作品がある)

ここではない、どこかへ。
隷従ではなく、自由を。
たとえその自由が困難に溢れていても。

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人びとは「普通」の暮らしに満足する反面、
「これでいいのだろうか」感をなんとなく、感じている。

だからこそ人は旅に出たり、転職をしたりする。
『エクソダス:神と王』に興奮するのは、
「ここではない、どこかへ」連れて行ってくれる人へのあこがれがあるからだろう。

そう、人は自分のモーセを求めているのだ。

映画『平成ジレンマ』

 さいきん、小説が読めなくなってきた。まどろっこしい人間関係を頭にいれ、なおかつ作品のメッセージを読み取る。あるいは世界観を楽しむ。それが面倒になってきた。
 同様に、映画も見れなくなってきた。物語がある映画に入り込めなくなった。しかし、ドキュメンタリー映画は面白い。同様にノンフィクション小説も。字t実を知るほうが面白く感じるようになってきた(『僕らの頭脳の鍛え方』における立花隆の立場だ)。
 そんなわけで先日、ドキュメンタリー映画『平成ジレンマ』をポレポレ東中野で観た。「悪名高い」戸塚ヨットスクールの「現在」のドキュメンタリー。
 校長の戸塚宏氏は「体罰」による教育効果を語る人物。「脳幹論」をもとに教育論を構築する。
 戸塚の視点は子どもは人格が出来ていないため、「体罰」を使い人格を向上する、と語る。映画冒頭に戸塚はこういう。「進歩を目的とした有形力の行使」が体罰である、体罰・いじめによる「恥」が人間を進歩させる、と。教育学徒として、違和感のある書き方だが、それは昨今の教育学の前提が子どもの「人格」の尊重にあるためである。子どもの「人格」の未完成性を指摘するのが戸塚であるのに対し、子どもの「人格」ならではの可能性を見るのが教育学者である(「子どもの作品は素晴らしい」などの言説)。
 全体的に見て、戸塚ヨットスクールは「悪」「体罰」の代名詞となっている現状への批判が本作品のテーマであるように思えた。マスメディアは戸塚ヨットスクールを「悪」であるようにいうが、内実をまったく見ていないのではないか。「認識せずして評価するなかれ」のテーゼの重要性を感じた。
 本作品を通じ、非常に勉強になったのは戸塚の示す「近代的主体」としてのあり方だ。周りが何といおうと、自分は自分の信じる「正義」を行使する。まわりがヒール(悪者)呼ばわりするなら、それもよかろう、自分は自分のやり方で日本の教育を少しでもよくしてやるのだ。それが「本当はやりたくない」(映画内での戸塚の言葉)ことであっても。そういう「熱さ」に感銘を受ける作品だった。
 以前、筆者は現代の日本は「一億総教育評論家社会」と書いたことがあるが、評論するだけでは教育は変わらない(教育学を研究する者の「無力さ」もこの辺にある)。であれば、たとえある者に「ヒール」と言われようとも「ありうべき」教育のバリエーションを増やす実践をする人物に対し、何らかのエールを送る必要があると思えてくる。
 しかし、「戸塚ヨットスクールの、現在」(映画宣伝ビラより)を映したものであると言いながら、本作品で述べられていない部分の存在が気になった。間もなく選挙を迎える石原慎太郎氏の存在だ。出所後の戸塚に対し、ヨットスクール再建を応援している人々が存在している。戸塚ヨットスクールをめぐる支援者の状況を示さないことには、「戸塚ヨットスクールの、現在」を呈示することにはならないのではないかと考えられる。

映画『シングルマン』(2009)〜『こころ』との対比、あるいは死の贈与論〜

 夏目漱石の『こころ』を同性愛小説として読むよみ方がある。まず「私」と「先生」が出会う場面は鎌倉の海水浴場。「私」は「先生」の泳ぐ姿に着目し、「先生」が着替えるところを絶えず見つめている。個人的に私淑する「私」は「先生」の家に行き、恋愛論等を尋ねていく。始めは戸惑っている「先生」も、ついには自分の生き様を手紙の形で克明に描いて「私」に送り、自殺をするところで本作は終る。矢野智司の『贈与と交換の教育学』にもあるが、「先生」を敬愛する「私」は「先生」の死という贈与を、いわば突然受けたわけだ。「私」は残りの半生において反対給付をする義務を負ってしまう。石原千秋『こころ 大人になれなかった先生』にあるように、「私」は《誰にも見せないでください》「先生」が書き残した手紙の内容を、小説の形で表すことで「先生」を超えること―大人になること―を志向した。これが「私」が「先生」に大して為す反対給付としても見ることができるだろう。

 思わず『こころ』論を書いてしまったが、私が昨日見た『シングルマン』(トム・フォード監督)は『こころ』と同じ構成をとっていることが分かる。『シングルマン』の主人公は大学の文学教授。ゲイのパートナーの突然の事故死から立ち直れない(書きそびれたが、本映画ではこの教授自身がパートナーの死という贈与を受け、その反対給付の仕方に戸惑う姿が描かれている)。ピストルに銃弾を詰め、自殺を志すもいろんな邪魔が入って結局死ねずにいる。ラストの場面で、この教授は教え子である男子学生との束の間の相互作用(これがゲイであることのカミングアウトでもあるが、性行為にいたらないのがミソである)の中で生きる意欲を得る。『こころ』の「先生」は親友Kの自死から立ち直れない(文学論によっては「先生」と「K」との間でも同性愛関係があったのでないか、との指摘もある)。そんな折、自分を私淑する「私」という大学生との出会いが、「先生」の日々に明るさを与える。
 両作で違うのは視点である。『こころ』では教え子(=弟子)の視点(ただし、最終章は「先生」からの視点)で描写されるのに対し『シングルマン』は終止「先生」の側からの描写なのである。
 『シングルマン』のラストは実に切ない。「先生が心配だ」という、自分を心配し必要とする他者の存在に気づいた教授は、家の窓を開ける。フクロウが飛び立つ夜空に満月が浮かぶ。教授の感情描写的に爽快な場面だ。ピストルは引き出しにしまい、硬く鍵をかける。人生の有意味性を教え子から学んだのだ。けれど、突然の心臓発作のせいで教授は死んでしまう。

 両作のポイントは、師弟関係にともなう同性愛的気質である。師匠と弟子が親密な関係性を持っているとき、その関係性は容易にプラトニックな愛、あるいは肉体的な愛に転化する可能性がある。そういう「危険性」を意識しても、どうしても師匠から学びたいという切実さが、師弟関係を支える要因なのである。たとえどうなろうとも、この人から学びたいのだ! そんな「熱い」思いを持つ弟子のみが、師匠から多くを学び、師匠から贈与(むろん、師匠の死だけではない)を受けることができる。だいたいにおいて、師匠は弟子より年長であるため、自殺でなくとも弟子は師匠の「死」という贈与をどこかで受けなければならないのだ。その贈与に対し、弟子はかならずその贈与を受けなければならない。その上で、その贈与に対する反対給付を為す必要がある。でなければ師匠の死は無駄な贈与になってしまう(つまり贈与しようとしても誰も贈与を受けてくれなかったわけだ)。
 『シングルマン』の弟子こと男子学生は、映画中では心臓発作で死んだ教授の死の「贈与」をどのように受け止めたか、全く描かれていない。しかし、想像は容易である。ゲイと噂される教授の家で、男子学生が泊まった。その日、教授が心臓発作。タブロイド紙の記者でなくとも、男子学生が教授の新たなパートナーであると噂されるのは必然であろう(もしくは教授は腹上死したのではないかと勝手に思われる)。この際、男子学生は自分の秘密(=ゲイであるということ)を打ち明ける必要性が出てきてしまう。ゲイであることを否定するのか、それともカミングアウトするのか。どうなるかは分からないが、おそらくは後者の選択をするだろう。映画『シングルマン』自体が、監督(トム・フォード)の生き方をさらけ出すと言うカミングアウト映画という側面を持っている。男子学生が教授の死の贈与に反対給付するための第一歩は、ゲイである自分を認め、周囲にもその理解を求める戦いをすることなのだ。教授の授業シーンでも、マイノリティの迫害について教授が「熱く」語るのが印象的だ。

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映画『ナイト・トーキョー・デイズ』〜会話分析の手法から見る〜

 外国人が撮った日本の映画は、だいたいは「フシギな日本」を示している。海女がいる『007は二度死ぬ』、沖縄の寿司職人が実は刀鍛冶という『キルビル』(飛行機には刀ホルダーもついてましたね)はじめ、日本人としてみていて逆に面白くなってくる。さいきん新宿武蔵野館でみた本作も、正直な話、そんな感じの日本を描いていると思っていた。映画のオープニング。なんと寿司の女体盛り。日本人と白人の男性集団が寿司を食いつづけている。ああ、やっぱり「フシギな日本」を描いている…と思ったら日本人がこう言うではないか。

上司:〈なんで体温で温まった寿司を食わなきゃいかんのかね〉
部下:〈外国のお客様が描く日本の姿を示せばいいんですよ。接待なんですから、こうやっていい気分にさせておけば商談も上手くいきますよ〉

 サイードの『オリエンタリズム』にも同様の話があった。東洋の観光地に来た西洋人はオリエンタリズム性を見いださなければ満足しないのだ。映画冒頭ではじめからこのオリエンタリズム性の種明かしをしているのだ。この映画の監督は、メタ的手法で「フシギな日本は描かないですよ」と示して見せてくれた。この技法は素晴らしい。冒頭の戦略が功を奏し、映画は「これって、日本映画じゃないのか」と思うほど、自然な出来だった。

 本作のなかで興味深いのは、狂言回しをする「私」という人物である。ヒロイン・リュウの会話を録音し、家で何度も繰り返し聴く変な性癖を持っている。彼は「音」にこだわりをもち(そんな仕事をしている旨も語っていた)、リュウの会話を録音するようになったのも「ラーメンのスープを啜る音が母親によく似ていた」ということだった。…音フェチ、と言えなくもない。
 「私」はリュウとよく会っており、その度ラーメンや居酒屋・おでん屋などで食事をする。リュウとその「恋人」との密会も、ラーメン屋がよく舞台となっている(そういえば内田樹の村上春樹論に、「村上の小説には飲食するシーンが多い」旨が書かれていた)。プラトンの時代から、高尚な会話もそうでない会話も「饗宴」という飲み食いの場で多く語られていた。「私」がスムーズにリュウの会話を録音するためにも、飲食という条件は必要なのである。

 「私」はリュウの録音を聴き続ける。昼も夜も絶えず。その会話ではプライベートなことは何一つも話していないが、なぜか「私」はリュウの実の仕事(殺し屋)や秘密(依頼を受けた暗殺対象者と恋仲になる)をいつの間にか知るようになっている。どうでもいいことのようだが、その点が気になった。
 社会学を学ぶものとして、「私」が実は社会学者であったのではないか、と推測している。社会学の調査手法にも「会話分析」というものがあり、その手法を使う研究者も「私」のように病的に同一の会話テープ(あるいはレコーダー)を聴き続ける。「私」すらやらなかった会話の文章化もする(こうやって作ったものをトランスクリプトという)。なぜ社会学者はこんなマニアックなことをするのか? それは会話の進め方・間の取り方のなかに隠された社会的関係が存在していることがあるためだ。

 「私」は絶えずリュウの声をテープで聴く。「私」の会話をリュウがどのように受けているか分析している。長くそれを続けると、過去のリュウの会話と現在のリュウの会話の違いも分かってくる。何か大きな出来事があったのか、恋人ができたのか等など。人間は言葉を使い思考し、感情を表現する存在である以上、会話には本人の意思以上のものがあらわれる。

 「私」が実は社会学者だと思うと、「私」という中年男性とリュウという若い女性との関係性も見えてくる。「私」はリュウに好意を抱いてはいるが恋愛感情はもっていない。リュウはリュウで〈会話を録音したがる変な男だが、まあ暇だから食事くらいしてあげようか〉くらいの感情をもっているのだろう。「友情」といえるかも微妙な関係であるが、調査者と被調査者の関係だと思うと自然になる。調査者は親しすぎる人にはズバズバ質問しにくいのだ。その点ではグラノベッターのいう「弱い紐帯の強み」に近い。人間は親しい人よりも「あまり知らない」人からの情報を重視するのだ(親しい人とは元になる情報が同じ場合が多く、真新しい情報がなくなってしまう)。ただ、こんな微妙な関係ではあっても「私」とリュウにとって2人で会う時間はお互いに有意義だったのではないか。双方、ベタベタしない付き合いを求めていたようではあるし。

映画『真夜中のカーボーイ』(1969)からみる、「死」の贈与論。

 文字通り、真夜中に本作を見て書いている。

 ストーリーなどはネットでいくらでもあがっているので、社会学的(ないし教育学的)考察点を中心に描くことにする。

 親には愛されないが、祖母には愛された主人公・ジョー。職場のレストランでも、ニューヨーク行きのバスでも、ジョーは誰とも会話(=対話)が成立しない。話を振るが、相手は会話に乗らず、モノローグに終ってしまう。他者からのすれ違いをさんざん示す本作は、会話の成立しない「孤独さ」を強烈に表現している。
 回想シーンには子ども時代と前の恋人のシーンばかり。ジョーは過去にすがって生きている。それが嫌で大都会へ行くのだが、やはり上手く行かない。そんなこんなでダスティン・ホフマン演じるリッツォと共同生活を送ることとなる。

 はじめ、誰とも会話が成立しないジョーであるが、リッツォと出会ってから会話が成立するようになる。リッツォはいわば潤滑剤である。本作では2回バスに乗ることで場面が転換するが、1回目とちがい、2回目ではリッツォとジョーは楽しげに談笑をするようになっている。しかし、フロリダ行きのバスから降りた後、ジョーは誰かと会話をすることは本当に可能なのか(後述する「贈与」が働いている、とみるならばジョーはバスに乗る前よりも成長できているため会話が成立する可能性が高い)?

 本作を見て疑問に思うのは、何故ジョーは自分を騙した(=男色の斡旋人のもとに送られる)リッツォに友情を覚えるのかという点だ。宿を提供してもらったとは言え、憎しみすら抱いた相手である(内面のシーンでは首を絞めている)。おそらくではあるが、都市の片隅で自分同様「孤独」を感じる点にシンパシーを覚え(人間は間共振的律動系である以上、波長が同調している、ということである)、リッツォの存在自体から救済を得ていたのではないか。「自分は1人じゃない」という認識を得るためにリッツォに友情を抱いていたのであろう。

 こうなると、リッツォの方が逆に「贈与」(マルセル・モース)を受け続けることになる。病人の自分の世話という「シャドウ・ワーク」の受け手に、ジョーが志願して行ってくれている。ジョーの献身(=文字通りの売血も含む)という「贈与」に対し、リッツォは何も「反対給付」することができない。ラストでのリッツォの死は、ジョーの「贈与」に対する「反対給付」としての「贈与」であったとは考えられないであろうか。

 『贈与と交換の教育学』において矢野智司は、時に人は他者から「死」を贈与され、それを背負って生きていくことを余儀なくされる、と述べている。本作がまさにそれである。リッツォの「死」を贈与されたジョーは、何らかの形でその贈与への反対給付の義務を負う。マルセル・モース『贈与論』以来の構図である。
 本作を通してみると、ジョーはこういった「死」の贈与を2回、精神病院に送られた「恋人」もカウントするなら3回、「贈与」を受けている。その度にジョーは生き方を変える決断をする(リッツォへの反対給付の仕方は本作では明らかではない)。「恋人」の別れ(=死に近い)がニューヨークでカウボーイ(=男娼)として生きる決断につながり、祖母との別れが子ども時代の甘い記憶からの「別れ」に繋がった。ジョーは生きるのが下手な人物ではあるが、「死」の贈与への反対給付を絶えず行いつづけている点では評価できるのである。

 月並みな表現を使えば、他者の死と向きあう分(「死ぬのはいつも他人ばかり」とは寺山修司の名言である)、人間は強くなるというテーゼにまとめられる。他者の「死」という「贈与」を受け止められるとき、人間は成長する。あるいは、受け止めようと努力することが自分を成長させる。この場合、他者の「死」という「贈与」に、個人が自分の一生をかけて「反対給付」する義務を負うためである。この「反対給付」が成長である。
 逆に、この「死」の「贈与」から逃避したとき、人間の成長は止まる。個人の成長という「反対給付」から逃れているためである。
 親しい人物からの「死」の「贈与」は重々しく個人の中にのしかかってくる。この「贈与」の重みから逃れず、「反対給付」としての成長を遂げることが、人間の人間たる所以なのである。
 

隣家の窓。

 ヒッチコックの『裏窓』(原題 Rear Window)を見ている。カメラマンの住む家の窓から見える殺人(のような)劇。カメラマンは窓から絶えず「容疑者」を観察し続け、犯行の内容を推理し続ける。自分の行動が実は誰かに観察されているかもしれないということがこの映画のテーマである。自分のプライベートが他者に見られていることを意識すると、何も出来なくなる。近代社会は「儀礼的無関心」(アーヴィング・ゴッフマン)を行うのがルール。「相互行為の同じ物理的場面に居合わす人たちが、互いに相手の存在に気づいていることを、相手に脅したり過度になれなれしい態度をとらずに相手に明示する過程」(ギデンズ『社会学』用語解説)。それが「儀礼的無関心」。他者に過剰に干渉せず「見て見ぬ振り」をすることである。誰かに見張られていると感じると、我々は何も行うことが出来ない。ましてプライベートなことを。

 寺山修司の映画『田園に死す』を見ると、前近代社会において覗きが日常的であったことがよくわかる。障子の穴から他人を見つめる隣人たち。同質性を要求される中世的共同体では、相互に監視しあい、目立ったことができないようになっている。

 近代の都市的生活では、「隣は何を/する人ぞ」。隣人と一切会わないまま生活することができる。

 もし隣人がこちらの行動を覗き見たり盗聴したりしていると想像するならば、もはや生活することはできない。それゆえ窓にはカーテンを閉め、鍵は二重にし、防音性を考慮した家作りをするのだろう。

 私のアパートは窓が一つしかない上に、暑さがこもるため、夏にはとても過ごせない場所である。自然と下着に近い格好で家の中を暮らすことになる。この姿が他者に覗かれていると想像するととても生活できない。

 近代社会では意外なことに、「人は覗きをしないものだ」という性善説に基づいて人々は暮らしているのである。前近代社会では障子の隙間・板戸の間から人々の生活(特に夜の生活)が日常的に覗かれている恐れがあった。

 そういえばフーコーは「見るー見られる」関係に権力構造を見いだした。この映画での絶対的な権力者は一方的に覗きを行うカメラマンの男である。あとの者は彼に「見られる」客体にすぎない。

 映画のクライマックス。覗いていた相手であるセールスマンが覗き主の家にやってくる。目撃者である彼を殺そうとして。これは「見るー見られる」関係が存在することに怒る近代人の比喩であろう。

DVD『こんばんは』と、「渇きによる学び」考。

 前に映画『学校』を観た。西田敏行が夜間中学校の教員を好演している。生徒たちと生と死について議論しあうラスト・シーンが心に残る映画だ。『こんばんは』を観て、「映画『学校』の世界は、本当に存在するのだなあ」との思いを持った。学び手たちが生き生きと学校で過ごしている。「こんな学校、いいなあ」と素直に思った。『学校』にもあったが、夜間中学校でこそ本当の教育が行われているのかもしれないと感じた。

 このように生き生きとした学びが夜間中学校で行われているのはなぜであろうか。私は、「渇きによる学び」が起きているためであると思う。「渇きによる学び[i]」とは私の造語だ。卒論の中には次のように書いている(概要)。

フリースクールは子どもを無理やり学ばせることはしない。のんびり・ゆっくり過ごすことの推奨すら行う。子どもが「学びたい」と思うまで「待つ」姿勢を貫いているのだ。だからこそ、時間が経つかもしれないが、「渇き」が起こる。渇きをいやすために水を飲むとき、馬は脇目をせずに一心不乱に飲み続ける。「渇き」が起きた時の学びもそれと同じであろう。奥地恵子のいう「ヒロベン」(テレビやゲーム、友人との遊びなど、日常生活で〈広い意味での勉強〉)が、やがて「渇きによる学び」を誘発するのである。

 フリースクールでは、子どもが「学びたい」と思うまで待つ。けれど「学校」は無理矢理でも学ばせようとする。そのために生徒はイヤイヤ勉強をする。しまいには「学校」にいくことと「学ぶ」ことをイコールだと錯覚してしまう(イリッチの言った「学習のほとんどは教えられたことの結果だ」と勘違いするようになる「価値の制度化」が起こる)。
 夜間中学校は、「文字を読み書きできるようになりたい」・「日本語を何としても習得したい」という思い、つまり「渇き」を学習者が持っている。また、夜間中学校には自らの自由意思に基づいて通っている。だからこそ、生き生きとした学びが行われるようになるのだろう。もし夜間中学校が「いままで義務教育をうけたことがない人は全員行かないといけない」場所になってしまえば、映像にあったような生き生きとした学びは行われなくなってしまうだろう(夜間中学校が「学校化」されてしまうのだ)。

 映像を観ていて、もう一点感じたことがある。それは〈生活経験や悩んだ体験がないと、詩や小説を本当の意味で読むことができないのではないか〉ということだ。映像内では「雨ニモ負ケズ」をクラスで読むシーンがあった。同じ詩を、私は小学校の高学年で習った記憶がある。その際は「こんな生き方を希望した人がいたのだなあ」という印象を持った。宮沢賢治の詩が全く自分の内面に響いてこなかったのだ。
 けれど、映像では自らの体験を踏まえて学習者が語り合っている。自らの経験を踏まえたうえで、作品を読み取っているのだ。これは通常の「学校」では必ずしも行われていない。小学生のころの私もそうであるが、作品が自分にとって「遠い」のだ。クリステン・コルは『子どもの学校論』のなかで、本来ドラマティックなはずの聖書の物語が、「細かい章にブツ切りにされ、小さな宿題を通して暗記」させられる状況を批判している。日常生活と乖離した学問を学ぶのが、通常の「学校」になってしまっているのだ。

 詩や小説は、読まれることで初めて意味を持つ。そして読まれるためには、読み手が成熟を遂げていなければならない。よく「夏目漱石の作品は40を超えてからでないと分からない」と聞くが、これも読み手の成熟がないと本当に理解することができないということなのだ。ちょうど「バカの壁」が作品と自分との間にあるのだろう。成熟するということは、種々の経験を経ることでバカの壁に穴をあける作業を意味する。

 このように、詩を読み取れるだけの成熟を「待つ」姿勢を持っているからこそ、夜間中学校では「渇きによる学び」が起きているという側面があるのだろう。

[i] 梅田望夫は『私塾のすすめ』のなかで〈のどが渇いて水を飲むように学ぶ〉ということを書いている。その部分や宋文洲『社員のモチベーションは上げるな!』を参考にして、「渇きによる学び」という言葉を使っている。

映画『板尾創路の脱獄王』

 一定の期間ごとに、「芸能人が映画を撮る」話が出てくる。昨年は松本人志の『しんぼる』を観に行った記憶がある。今回観た映画も、芸人・板尾創路(いたおいつじ)が撮ったものだ。

 映画中、主人公・鈴木雅之を演じる板尾は一切しゃべらない。囚人である彼は何度も何度も脱獄を行い、そのたび刑務官からリンチを受ける。その際も何も口に出さない。孤高の生き方を感じさせる。 刑務官をじっと見据え、抵抗の思いを示す。マンデラやキング牧師を思い出すシーンだ。
 
 本作を観て、私は国家の持つ暴力性を感じた。脱獄をするたびに、「国家の威信を傷つけた」として懲役の年数が上がっていく。最終的には脱獄不可能・入ると二度と出てこれない「監獄島」に送られることになる。つまり終身刑になるのだ。
 終身刑を言い渡されてしまう鈴木は、そもそもどんな犯罪を犯したのか。映画では彼の調書をアップするシーンがある。そこに書かれていたのは「無銭飲食」。軽犯罪で逮捕されたにも関わらず、国家は鈴木を終身刑にしてしまう。それほど、「国家への冒涜」は重大犯罪なのだろう。とてつもない暴力性だ。おまけに脱獄のたびに鈴木は非人間的な監獄に入れられていく。

 そういえば昨日、早稲田の小野講堂で行われた「犬死に大国、ニッポン」というシンポジウムに参加した。ハンセン病療養所入所者協議会の事務局長・神美知宏(こう・みちひろ)氏の語ったハンセン病当事者の話が印象的だった。
 らい予防法という悪法により、ハンセン病患者を強制的に療養所に入所させる。その際、戸籍は抹消され、入れば二度と出ることはない。「入所者の義務」と称して、入所者に治療の手伝いや死者の火葬まで行わせる。
 板尾の映画に出てきた「監獄島」も、そんなところであった。収容者は戸籍を抹消された上で、社会から抹殺される。死んでも、出てくることはできない。ハンセン病療養所そのままではないか。

 『板尾創路の脱獄王』は、社会派の映画であったことに改めて気付いた。

映画『僕の初恋をキミに捧ぐ』

 映画の前売り券をもらったとき、「何があっても行かなければ!」という気持ちになる。貧乏性というのであろうが、その思いがあれば「絶対、自分が行くはずがない映画」を観に行くことができる。『僕の初恋をキミに捧ぐ』はそんな映画である。まず、タイトルからして「痛い」感じが出ている。特に、23:10から始まる回に一人で行く時点で痛い。

 やはりと言うべきか、前半はとてつもなく「痛い」映画である。ジェンダー論の教材になりそうな展開だ。男が初恋に対して抱く、身勝手な欲望を描いている。幼い頃に「結婚しよう」といったことを、中学生になっても引きずる「痛い」男。また幼少期のシーンは「かわいらしい子ども」を無理に演じさせられるような気がしてくる。それに、展開の中では主人公とヒロイン、そしてライバルの3人くらいしか「子ども」は出てこない。主人公の男に男友達というものはいないのか? ひたすら「気持ち悪さ」を感じる。何度時計を見、何度帰ろうと思ったことか。
 
 しかし、まさかこの映画の後半で泣かされてしまうとは思わなかった。映画館で泣くのは久々だ。
 心臓移植しなければ生きれない主人公。ちょうど心臓移植のチャンスが回ってきたと思いきや、そのドナーが自分のライバルだった…。移植を受けるか、否か。時々涙を流したり、指がかすかに動いたりする脳死状態は人の死なのか? 臓器移植についてを色々考えさせる映画だ。
 ラストシーン。ヒロインと主人公は病院を抜け出してデートに行く。夢のように楽しい時間。お互い、「先が長くない」ことを分かっているゆえに、精一杯楽しもうとする。ヒロインがこの先、「ひと時のうちに永遠を感じる」というウィリアム・ブレイクの詩のように、主人公との思い出を残しつつすごしていくであろうことも予感させている。そしてその夜、主人公は発作が起きて帰らぬ人となってしまう。
 終わりが見えている方が恋は燃えるし、人生も充実する。そんな皮肉を感じてしまう。そういえば鎌倉時代の随想家・兼好法師が語っていた。病気の人にとってだけ死が身近なのではなく、我々にとっても死はすぐ後ろにあるのだ、と。メメント・モリ(死を忘れるな)。それは人生を充実させるコツでもあるのだ。
 
 この映画、タイトルと前半で損をしている。もっとコンパクトに前半をまとめ、後半に速やかに移行しないと。私同様、「帰ろう」とした男性一人で鑑賞にきている人もいるだろうから…。それとも前半で「痛い」シーンを満載させ、期待感を無くすことで後半の感動を招いているのか?
 
 

映画 マイケル・ジャクソン『This is it』

 私は今まで色々な映画を見てきたが、観客の拍手で始まり拍手で終る映画は始めてである。まるで昭和の映画館のよう。マイケル・ジャクソン(MJ)のコアなファンの多さを実感した。映画の合間にあがる歓声と拍手。光るブレスを付けた人の多さに驚く。

 映画を見ていて。MJは「変化し続けたかった」のではないか、と思う。顔を白くしたのも整形したのも、すべてその意志の現れではないか。
 「変化する主体」としてのMJ。リハーサルをしながら演出や振り付けを考えていくのも、「変化する主体」ならではではないか。
 変化。人間生命の本質にはこれがあるのではないか。まさに「万物は流転する」。

(・・・)
 映画が終わる瞬間、観客は日常に引き戻される。突然に、それこそ唐突に。新宿バルト9のエスカレーターで新宿の夜景を見るとき、マイケル・ジャクソンの偉大さと共に、自らの日常を思い出すのだ。それは辛い作業だろう。しかし我々は戻らねばならない。MJのいない日常に、そしてありふれた世界へと。
 映画のラスト。「さあ変わろう」。我々もつまらない日常を変えていかなければならない。
 自らが変わることで。