見田宗介『現代社会の理論』読書会を終えて・・・

本日5/23(土)、『現代社会の理論』読書会を実施。

東大社会学で長らく日本の社会学を引っ張り続けてきた見田宗介(みた・むねすけ)。

その1996年の著書『現代社会の理論』は、素朴な情報化社会賛美も見られるが、「消費社会」を乗り越える方向性を示す点で得るものの多いものだった。

url見田宗介

 

見田宗介の本は、論理一本槍ではなく、ところどころに「詩的」部分が存在する。




「ちょっといいこと」を言っているのだが、そこがグッとくる。
東大社会学の見田門下生が見田を慕うのも、なんとなく分かる(ような気がしてくる)。

 生きることが一切の価値の基礎として疑われることがないのは、つまり「必要」ということが、原的な第一義として設定されて疑われることがないのは、一般に生きるということが、どんな生でも、最も単純な歓びの源泉であるからである。語られず、意識されるということさえなくても、ただ友だちといっしょに笑うこと、好きな異性といっしょにいるということ、子供たちの顔をみること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと、こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、どんな生活水準の生も、生でないものの内には見出すことのできない歓びを感受しているからである。このような直接的な歓喜がないなら、生きることが死ぬことよりもよいという根拠はなくなる。
どんな不幸な人間も、どんな幸福を味わいつくした人間も、なお一般には生きることへの欲望を失うことがないのは、生きていることの基底倍音のごと歓びの生地を失っていないからである。あるいはその期待を失っていないからである。(141)

こういうことをサラッと、理論文の中で言ってのける。
そこに私は「グッ」ときてしまう。

Z

十勝コーヒー部、好評開催!

今年3月から開催してきた「十勝コーヒー部」。

第1回はコーヒーの淹れ方の定番中の定番、「ドリップ」について学習しました。

第2回はフレンチプレスなどの様々な機器について。

そして今日5/22(金)、3回シリーズの集大成として「豆」をテーマに開催しました。




11150332_689370474507950_4963843339455773467_n

十勝コーヒー部vol.3「ものすご~く深い、豆の話」

講師は、帯広畜産大学大学院で研究をする、鈴木孝直さん。
趣味が高じて、コーヒーをもとに農業経済学を研究している大学院生です。

帯広畜産大学内にある喫茶店でも働く鈴木さんのウンチクとテクニックを堪能するイベント、となっています。

写真 2

今回はまず「ふつうの」コーヒー(市販品。粉が引いてあるもの)を飲んでみます。

写真 1その後、「スペシャリティコーヒー」を飲んでみます・・・。

「あ、味がぜんぜん違う!」
「こちらのほうが、フルーティーな感じ!」

・・・ものすごく質の高いコーヒーであるスペシャリティコーヒーを体験し、率直な感想が聞かれました。

写真 3

「コーヒーを美味しく淹れるのには、【おもてなしの心】が必要です」との締めくくりの言葉。

ドリップコーヒーも、人数分いっぺんに用意するのでなく、一人分ひとりぶん淹れていくほうが、味はよくなります。

一気にお湯を注ぐのでなく、少ししずつ円を描きながら淹れるほうが、よりよい味が出ます。

茶道とおなじく、「コーヒー道」とでも言えるようなものも、教わる機会となりました!




本当はこの3回でシリーズ完結の予定だったのですが、
好評のため継続が決定!

次回は7/3(金)19:15-20:45、とかちプラザの403号室にて開催します!

FBイベントのページはこちら

次回のご参加もお待ちしています!

☆十勝コーヒー部とは?・・・地域活性化の新たなカタチ、「十勝◯◯部」。部活動のように、好きなこと・楽しいことで人が集まり、地域を元気にしていく取り組み。そのコーヒー版です。

問題解決型学習(PBL)とは、何か?

問題解決型学習、通称PBL
オリジナルはProject Based Learning。

教育業界の悪い癖で、教育関係者は何事も「大げさ」に言ってしまう。

プロジェクト学習や問題解決型学習というと、
なんだか「すごそう」な問題を解くイメージがある。




例)「環境問題の解決!」

例2)「貧困の撲滅!〜いま私たちにできること」 などなど。

 
・・・しかし、デューイが言ったような意味の問題解決型学習はもっと単純。
250px-John_Dewey_in_1902

例)「今日の晩ごはんは、カレーか肉じゃがか、どっちにしよう?」

例2)「お腹痛い・・・。きょう学校行こうか、行かないか、どうしよう?」

 

・・・どちらの例も、ある意味「しょうもない」。
しかし、まぎれもなく、「どちらにするか」という問題を解いている

その意味でまぎれもない「問題解決型学習」なのだ。

 

・・・こんな話を、大学院で教授から教えてもらった。
それ以来、おおげさでなく、日常の延長でできる問題解決型学習について、思いを馳せるようになった。

 1976年に設立されたマーストリヒト大学は、設立当初から、独自に「問題解決型学習方式(PBL方式)」を取り入れてきた大学です。このPBL方式は、採用後30年を経た現在、国内外の大学からも注目されています。(…)
PBL方式は、学生の〈自立性〉〈起業精神〉〈問題解決への指向性〉を養うことを目的とするものだと大学は説明しています。
大学生たちは、入学後すぐに10人未満の小グループで共同学習を始めます。それぞれの科目では指導段階ごとに、学生たちが〈問題解決〉研究に取り組むためのきっかけとなる事例がいくつも用意されています。この事例というのは、私生活の中で、あるいは、学生たちが将来就く仕事の現場で生じると考えられる様々な問題の場面や状況を設定、表記したものです。この事例の中に示された問題を解決するために、学習中の科目の知識を駆使して、小グループのディスカッションのなかでブレーンストーミング(創造的集団思考法)をし、問題となる店を絞り、それを元にして自主研究をしていきます。
小グループのディスカッションには、それぞれチューターと呼ばれる指導者がついており、学生たちのグループ討議のプロセスを監視し、討議の進む方向やレベルによっては、必要に応じてコメントを加えます。(リヒテルズ直子, 2006, 『オランダの個別教育はなぜ成功したのか』平凡社.52頁)

 

ポイントは「学習中の科目の知識を駆使して」という部分。
こういうと、さも「いま学んでいることを、問題解決に役立てているなんてスゴイ!」と思ってしまう。





でも、考えてみたら、それはある意味「あたりまえ」の話。

 

新聞を読んでいて、よく知らないニュースが出てきた場合、私達はどうするか?

普通は「きっとこんなことだろう」と推測をする。

・・・これはこれまでに学んできたこと・学んでいる途中のことをもとに推測をすることにほかならないのではないか?

 

つまり、「学習中の科目の知識を駆使して」とは、社会経験の中で得られた知識・経験を総動員して、「よくわからないニュースを解釈する」行為それ自体を指すのではないか?

 

こう考えた場合、「問題解決型学習(PBL)」というのは、「なんかスゴそう」な教育とは言えなくなる。

 

むしろ生きること自体が問題解決学習なのだ。

 

ふつうに生き、ふつうにものごとを考えていたら、それがそのまま問題解決型学習になるに決まっている。

そうならないからこそ、「ふつうの」学校教育は終わっているわけである。

2Q==

 

こちらもどうぞ!

  1. 佐々木常夫, 2010, 『働く君に贈る25の言葉』WAVE出版.①(3)
  2. 『ヒーローを待っていても世界は変わらない』? (3)
  3. 中高生が「ちくまプリマー新書」を投げ出すのは、どんな時か? (3)
  4. おおたとしまさ『ルポ塾歴社会 日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体』③ (3)
  5. 【お知らせ】ポストモダン思想が分かりやすく学べる『高校生と語るポストモダン』販売中です! (2)

ジョン・テイラー・ガット, 2006, 『バカをつくる学校』成甲書房①

もともと、私は「脱学校論」をずーっと研究していた。
そのため、「学校批判」「教育批判」系の本は昔から大好きだった。

本書『バカをつくる学校』も、そんな理由で読んでいて楽しくなる本の一つ。

 私の考えを理論的、あるいは比喩的に表現すれば、教育は「油絵」よりも「彫刻」に似ている。つまり、油絵では、キャンパスに絵の具という素材を「加える」ことでイメージが生まれるが、彫刻では、素材を「削る」ことによって、石の中に閉じ込められたイメージが浮かび上がる。ここに決定的な違いがある。
私は自分の専門知識を子どもに押しつけるのをやめた。その代わりに、彼らの本来の才能を邪魔しているものを取り除こうとした。私にとって、教師の仕事は、もはや教室で生徒に知識を授けることではなくなった。学校は今もその無益な教育方針を続けているが、私はこうした教育の伝統をできるだけ打ち破り、生徒ひとりひとりの可能性を引き出そうとした。(15)

私たちが「教育」と呼んでいるものは、じつは世界最大のビジネスの一つであり、そこには伝統的な地域社会の価値観とは相容れない、制度の価値観がある。この百五十年間、学校の主な目的は、子どもたちに経済的成功のための準備をさせることだった。(129)

学校は巨大なメカニズムとして、人びとを全面的な管理に従わせ、死ぬまで幼稚でいさせようとする。彼らが必要とするのは未熟な人間だ。なぜなら、成熟した人間や成熟しようとする人間は、そうした管理を拒むからである。「品質」であれ何であれ、全面的な管理の下では、人は成長できない。しかし、大量生産経済を維持するためなら、どんなことも許されるのだ。(174)

この手の本は、「制度」の裏側を暴露している意味で面白い。
しかし、ある意味「禁じ手」でもあり、欺瞞的でもある。

「制度」の裏側を示している自分は、「制度」側の人間ではないよ。
自分は「制度」に絡め取られず、自分の意志を貫いているヒーローだよ。

なぜかしら、そのような色がついてしまうのが気になるところである。

 

9k=

Gatto, John Taylor, 2005, “Dumbing Us Down–The Hidden Curriculum of Compulsory Schooling”, New Society Publishrers.

張燕, 2014, 『ジャック・マー アリババの経営哲学』ディスカバー・トゥエンティワン①

 

売っていないものはない、といわれるサイト・アリババ

その創業者ジャック・マー(馬雲)の一代記。
わりと名言の多い本だし、経営者の「哲学」のよく現れた本である。

「強欲資本主義」が中国では多く立ち現れていることを危惧する声が多いが(井沢元彦『逆説の世界史1』など)、そんな人ばかりではないことを伝えている本である。

成功とは、どれだけやったかではなく、何をやったかである。(35)

 

怠けるといっても、ただ怠けるのではない。仕事を減らしたければ、怠ける方法を考え出すことだ。怠けることを極めれば、怠けの境地に達する。私のように子供の頃から怠けていれば、太ることさえ面倒になる。それが境地というものだ。(38)

 

「理想を持ったときに、一番大切なことは自分に約束をすることだと思う。必ずやり遂げてみせると自分に約束するのだ。あれが足りない、この条件がない、その条件も揃っていないと考えている起業家も多い。ではいったいどうすればいいのだろうか。起業家に最も大切なのは、創造的な環境だ。機が完全に熟すころには、私たちには順番は回ってこない。人々が絶好の機会だと思っていても、もうチャンスは失われている。必ずできると信じ、自分に約束する。5年、10年、20年かけてでもやってのけると覚悟すれば、ずっと歩き続けていられるはずだ」(53)

 

「最初の日の理想を絶対に忘れるな。その夢は世界で最も偉大なものだから」
馬雲はそう自分に言い聞かせ、そのプラスにエネルギーを傍らにいる人に伝えているのだ。(55)

 

Z

自分機密費を持とう。

機密費、というのをご存知でしょうか。

内閣府や外務省などで支出の内容を示す必要なく、使えるお金のことです。

imgres

よく賄賂に使われたり、私的流用があったりと問題のあるこの機密費。
(例えば、https://blogos.com/article/94794/

国家レベルでは問題となりますが、個人レベルでは実は大事なのではないか、と思います。

例えば、誰かになにか言われることなく、ノーチェックで使えるお金。
それを「自分機密費」としましょう。

自分機密費として、将来やキャリアアップ、および勉強のために使用するお金を、毎月一定額用意しておくのです。

サイフの中のポケットに、毎月決めた額を入れておき、勉強会・書籍代・セミナー代などにどんどん支出する。

url

通常の「機密費」同様、締め日の前に「使い切る」のがポイントです。

お役所は予算を消化しきらないと、来年度の予算配分が減ってしまいます。
「自分機密費」も、決めた額を使いきらないと、来年度の自分の成長がその分減ってしまいます。

よく誤解している人がいますが、勉強するにはお金がかかります。
学校教育・塾だけでなく、自分の成長にもお金がかかります。

端的に言えば、「高いからこの本買うのやめよう」というのを無くすのに、この「自分機密費」の発想は役立つ、ということです。

自分の成長にかかるお金を、毎月予算として別途計上しておく。
そして毎月使いきり、自分の成長につなげる。
そんな自己投資の積み重ね、やっていきたいなあ、と思います。

 

見田宗介『現代社会の理論−情報化・消費化社会の現在と未来−』(岩波新書)

インターネットが一般に普及したのは1995年。
この年はWindows95が発売され、一般家庭にようやくインターネットの存在が知られるようになった頃である。

それ以前の「パソコン通信」時代に比べると、使いやすさ・利便性が格段に変化した時である。

インターネットの可能性と恐怖を扱った映画『ザ・インターネット』も、1995年の上映。
この時代は、専門家のものだったインターネットが「ふつうの人」に扱えるようになったギリギリの時代である。

41aAnSr+9eL

本書『現代社会の理論』は、1996年の出版。

インターネットによる情報革命の初期の著作である。

そのため、素朴な形での「情報化社会」の可能性を描いている。
それがいまの我々からすると逆に新鮮である。

見田宗介は現代の社会はガルブレイスのいう「ゆたかな社会」となった、と言及する。
「ゆたかな社会」はこれまでの消費社会のあり方とは異なる。
「喰うものがないから喰う」「着るものがないから服を買う」のではなく、「流行り(=モード)だから服を買う」という消費社会である。

この社会では、常にモノを生産し続けることとなり、地球の有限な資源がどんどん消費されていく。
経済成長とはいうものの、資源がなくなっていく点で「成長の限界」を迎えることとなる。

見田宗介は、資源を消費する「モノ」ではなく、「情報」に注目する。
情報により、人間がミニマムに幸せを実感できる社会として「情報化社会」を想像しているのである。

 子どもは成長しなければならないけれども、成長したあとも成長が止まらないことは危|険な兆候であり、無限に成長しつづけることは奇形にほかならない。まして成長しつづけなければ生存しつづけられないという体質は、死に至る病というほかはない。
成長したあとも成長しつづけることが健康なのは、「非物質的」な諸次元−−知性や感性や魂の深さのような次元だけである。社会というシステムに対応を求めるならば、この広義の〈情報〉の領域というコンセプトによって、今日とりあえずその名を与えられている諸次元だけである。「情報化社会」の理論のうちのこの大きい射程をもった発想がわれわれの前に開いているのは、社会のシステムの、〈成長のあとの成長〉の可能性についての、このような見晴らしであるように思われる。(162-163)

 

「成長のあとの成長」の鍵が情報化社会である。
実際、見田の主張はこのあとの「IT革命」「携帯電話・スマホの普及」によって一部達成している。

「情報化」により、例えばネットからの収益で生活をできる人びと(アフィリエイター、デイトレーダーなども含む)を生み出したのは、まさにその一例である。

でも、それでよかったの?
見田の主張は、情報化により人間の「幸福」が達成される点を指摘している。
現実にインターネットは人に「幸福」を実感できるようにしたのだろうか?

本書のラストにおいて見田は物質的(マテリアル)なものに付随する「消費」を、「情報化」が乗り越えていき、物質的豊かさを超えた豊かさを我々に与えてくれる可能性を示唆する。

 「情報化社会」というシステムと思想に正しさの根拠があるのは、それがわれわれを、マテリアルな消費に依存する価値と幸福のイメージから自由にしてくれる限りにおいてであった。〈情報〉のコンセプトを徹底してゆけば、それはわれわれを、あらゆる種類の物質主義的な幸福の彼方にあるものに向かって解き放ってくれる。
けれども消費の観念は未だ、現在のところ、情報というコンセプトの透徹がわれわれを解き放ってくれる以前の、マテリアルな消費に依存する幸福のイメージに拘束されている。
われわれはなお〈情報化/消費化社会〉の、過渡的な、矛盾にみちた入口に立っている|ということができる。(170-171)

見田の夢見た「情報化社会」は、IT革命・スマホなどにより、すでに到来している。
しかし、物質的な「消費」の次元は未だに超えられていない。

逆に言えば、見田のいう「情報化社会」は未だに到達していない「見果てぬ夢」ということができる。

IT革命もWeb2.0も死語になった現在。
今一度見田の「夢」を見ていくことに、情報化社会の次なるヒントがあるかも知れない。Z

動かない、という不思議さ。

昨日は4/1。
年度が変わるタイミング。

毎年、私は勤務先の住所が毎年変わってきていました。
札幌市の桑園駅そば→新札幌→帯広。




でも、今年は【初めて】、同じ場所での2年連続勤務となります。
毎年、行く場所が違うと、気持ちが切り替わります。

でも、今年はそうではない。
そのため、どうしても「前と同じ」日々が続くような感じがしています。

そういう場合、自分で区切りを意識する、ということが必要でしょう。

illust2960

自分で区切りをつけ、線を引く。

そして新たな思いを出していく。
その繰り返しを、私は今後もやっていきたい。

そう思っています。




「あの人にできるんだから・・・」考。

この前、あるセミナーで「ノミの話」を聞いた。
ノミの体長は3ミリ。
でも、身長をはるかに超える2メートルくらいジャンプすることができる、という。
mushi_nomi
単純計算すると、2000ミリ÷3ミリ=666.666・・・
つまり、自分の身長の667倍もの高さまでジャンプできる。

そんなノミを小さな箱に入れておくと、はじめは壁にぶつかるまでジャンプするが(自分の身長の667倍まで飛ぶのだから、朝飯前)、だんだん壁にぶつからない程度まで手加減して跳ぶようになる、という。
そんなノミは、箱のフタをとっても、「壁にぶつからない」レベルまでしかジャンプしなくなる。
では、そんなノミを再び667倍まで跳べるようにするにはどうするか?
セミナーのテーマはそこにあった。
どうすればいいだろうか?
それは、【ふつうのノミを箱に入れ、そのノミが普通にジャンプするのをみること】である。
「もうこれ以上跳べない」というのを否定してくれるのが、新たに入ってきたノミである。
教育もまた、同じ。
「跳べない」と思っている人には、「跳べる」「カンタンにできるよ」という仲間を見せること。
松下村塾もそうだけど、案外狭い所・知り合い同士のコミュニティから、「すごい人」は頻発する。
それは「あのあいつが上手くいったんだから、オレもできるだろう」という思い込みである。
img_0
spt-hagi-2-sonjuku-8451
進学校で有名な学校から、なぜ東大合格者・京大合格者が出るか?
それは「あのバカな先輩でも東大に受かった」というのを後輩が見ているからである。
実際、私の高校時代も、「あの人も合格したんだから、私も・・・」というのを感じたことがある。
身近にいる「上手くいっている人」を見て、「あの人にできるんだから自分もできる」と解釈をすること。
実はこれ、すごく大切なことだと思う。
「上手くいっている人」を「ずるい」「悔しい」「腹立たしい」と思うと、「自分もできる」とは思えない。
「上手くいっている人」を見て、「自分もできるはず」と思えること。
これこそ大事だ。
箱以上にジャンプするノミを見て「ずるい」「悔しい」「腹立たしい」とノミは思わない。
ただ自分も真似てみるだけである。
人間はムダに「思考」があるから、できるはずのこともできなくなる。
あの人にできるんだから自分もできる」。
なにげに大事な言葉だと思います。

久々の東京と、東京論。

というわけで、いま東京に来ています。

よく考えると、平成26年度はけっこう東京に行きました。

修学旅行、生徒会研修、帰省ついでの東京訪問、日本通信教育学会への参加、文科省のフリースクールフォーラム&フリースクール全国ネットワークの文化祭。
そして今日、3月に訪問しています。

それぞれ仕事プライベートの別はありますが、札幌時代以上に東京に行ってる気がします。

東京は楽しいところ。
東京はエネルギーが溢れるところ。
東京はムダにデカいところ。
東京はどこに言っても満員&混雑するところ。

高校大学大学院のころ、東京こそホームで、「故郷は遠きにありて想うもの」(室生犀星)でした。

ですが仕事を機に北海道の札幌帯広で生活するようになると、北海道こそホームになりました。

東京は「どこか遠い世界」になりつつあるように思います。

いまは亡きやしきたかじんの「東京」は、関西人だからこそ胸に響きます。

いとしさも 憎しみもすべてすべて ぎゅっと抱きしめ祈るように 今日も灯がともる東京(「東京」)

9k=

これは東京人が見た東京ではなく、関西人も入れた地方人が見た東京です。

輝いていると同時に、嫉妬の対象としての東京の姿です。

自分がなんだかんだ東京に行くのは、行くたびに東京と自分とのギャップ、東京に染まりきれない自分を身体で感じるためなような気がします。

「地方活性化」「地域活性化」と言う声がよく聞かれます。
その活性化した姿が「ミニ東京」だった、というのもよくある話です。

東京とはなにか?
東京とどう関わるか?
いまの私のテーマです。