2015年 11月 の投稿一覧

貼りっぱなしのポスターをはがしてみよう。

 

 

田舎の公民館や何か行くと、たいてい「古いポスター」が貼ってあります。

こんな感じです↓

 

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貼った人は毎日見ているので、風化に案外気付きません。

また、不特定多数が使用するばあい、「誰かが貼ったから、うかつにはがせない」ということでダラダラ残り続けます。

学校にも、ときどきとんでもなく古いポスターがはってあります。

 

ですが、こういうものがあると、建物自体も古くダサいものとなります。

皮肉な話をしますが、「地域活性化の話し合いをしよう」と住民センターに集まってみると、10年以上も前の盆踊りのお知らせポスターが貼ったままになってあることがあります。

まずはここをはがすところじゃないかな?と思ってしまいます。

古いポスターが人に与えている「ダサさ」に、誰かが気付き、勇気を出してはがすことがすべての始まりのようです。

 

上田敏, 1996, 『リハビリテーション 新しい生き方を創る医学』講談社.

上田敏は「リハビリテーション医学」の日本での第一人者。

私は、リハビリテーションで一番大事な特徴は、「プラスの医学」でもあることだと思っている。
人間が本来もっているプラスの面に着目して、本人も気がついていない隠れたプラスの面を見つけ出し、それを引き出して発展させる。それが生きる具体的な技術としての「コーピング・スキル」であり、生き抜く力としての「心理的コーピング・スキル」である。そして、このようにして増大させたプラス面で、失ったマイナス面を補っていくと、うまくいけば、病気になる前よりもむしろいい状態になることも夢ではないのである。(230)

 

コーピング・スキルについて著者はこう説明する。

病気と闘ってなくしてしまおうという「闘病」とちがって、コーピング・スキルというのは、病気や障害があることは認めて、それとうまくやっていく技能の意味である。英語で「コープ・ウィズ(cope with)」というと、ちょっと扱いにくい相手だがなんとかうまくやっていこうという意味であるが、それと同じことである。(191-192)

 

この発想はリハビリテーションだけに通じるのでは、ない。

教育においても「長所を伸ばす」ことがよく語られる。
また経営学でも、ドラッカーは「強みを活かす」経営を語っている。

プラス面(強み)を伸ばしていくと、マイナス面が隠れていく。

そのことをリハビリは教えてくれる。519Bsu-8qML._AA324_PIkin4,BottomRight,-58,22_AA346_SH20_OU09_

鬼頭秀一, 1996, 『自然保護を問いなおす』ちくま新書.①

鬼頭秀一は科学技術社会学の第一人者。
その視点から、「環境」「自然」について独自に考察をしていく。

本書は自然保護に関する70年代からの理論蓄積を辿った後、今後の「自然保護」の捉え方を見ていく。

理論面では「生身」と「切り身」の考え方が興味深い。

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村での祭りで森に入ることなど、日常性や生活・文化とつながった自然との関わりは「生身」の関わりである。

一方、都会人が週末に登山に来たり渓流釣りをしたりするのは、日常と自然とが「切れ」ている。
その分「切り身」の関わりである。

しかし、鬼頭はその「切り身」で関わり始める人の存在も認めていく。
日常を共有しない人、つまりその地域にとって「よそ者」である人が自然保護活動や文化伝承に取り組むことが多いという点である。

この、いわば外から来た、一種の「よそ者」の自然保護や地域文化の伝承者としての役割にも注目する必要がある。「よそ者」の自然とのかかわりは、一見、その社会的・経済的リンクと文化的・宗教的リンクが切れており、普段の生活とは無関係なところで白神山地のような遠くにある自然と接し、それからさまざまな享受を受けようとするいわば「切り身」の関係にあるように見える。しかし、登山や渓流釣りといった行為も、そこに暮らす人たちと交流を持つことにより、山村文化と何らかの形で「つながろう」とすることも可能なのである。それは、その行為の主体となっている人が、もともとどこかで「つながって」おり、伝承の中にあった過去の思いと、それをどこかで失ってしまった喪失感というものが、登山とか渓流釣りという行為を通じて、山村の人たちとの交流の中で、ふたたび「つながる」ことを可能にするということではないだろうか。(228-229)

思えば私も、北海道の帯広に来て1年と半年が経とうとしている。
「十勝◯◯部」や「十勝コーヒー部」など、「よそ者」ではあるものの、ちょこちょことイベントをやるようになっている。

地元ではないからこそ、十勝・帯広のあちこちの温泉や観光地に足を運んでいる。
(オンネトー湯の滝のような「めんどう」な場所まで)

「よそ者」であるのも、いいものだなあ、と改めて気づいた。

 

 

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上田篤, 2003, 『都市と日本人』(岩波新書)①

昔は情報生産の担い手はたいてい神さまだった。神さまのいるところに多くの人間が集まり、情報が交換され、そのおかげで生産が向上し、富の蓄積もおこなわれた。
そこで最近では、そもそもの都市というものは「神さまのいる場所、つまり神殿のあるところではないか」(梅棹忠夫)などと、かんがえられるようになってきた。(1-2)

その発想で、都市=カミサマのいるところ発想から見ていくのが本書『都市と日本人』である。

 ともあれ、そういう険しい山国の日本列島であってみれば、昔は平地のあるはずもなく、「田んぼや市街地のある沖積平野というものは大方海だった」とかんがえていい。
すると現在、日本の国土の総面積37万7000平方キロメートルのうち沖積平野はおよそ8パーセント、3万平方メートルぐらいとみなされるが、そしてそこに日本人口の約半分、6000万ぐらいの人々が住んでいるのではないかとおもわれるが、それらは、そのころは全部海の中だったのである。(22-23)

 

 従来の歴史学や考古学ではあまり指摘されていないけれど、川の流れの速い日本の氾濫原などで川筋を整えるためには、中国大陸で用いられる土塁では無理で、何千、何万という矢板が必要であった。矢板を打ちこんで川の流路をつくりだすのだ。それはイザナギ。イザナミが国づくりのときに用いた矛に似ている。その矛ならぬ大量の矢板をうるためには森林を伐採しなければならない。すると鉄の斧が欠かせない。
そうかんがえると、弥生時代に日本に稲作が定着したのは大陸から米がはいってきたのではなく、正しくは「米と鉄がはいってきたからだ」といえるのである。(46)

 

集落と聖所との関係ということをかんがえたとき、ヨーロッパと日本はまったく相異なった形をとる。
というのは、ヨーロッパでは聖所は一般に集落のど真ん中にある。ために集落の形は上から見たとき、蛇が卵を飲んだようにしばしば真ん中が膨れあがっている。膨れあがっている部分が聖所だ。たとえば車を駆ってヨーロッパの村に入ると、やがて道が広がって広場につきあたる。そこに教会がある。広場を通りすぎてしばらくいくと、車は自然に村を出る。
ところが日本の村ではそういうことはない。神社はほとんどのばあい集落のなかには存在しない。卵は蛇の外にあるのだ。神社へゆく道はたいてい集落の道路から分かれて山に向かっている。山麓などにあるからだ。そして村の道路から神社にむかう道が「参拝の道」つまり参道になっている。(…)
つまり、ヨーロッパでは聖所は集落の内にあるが、日本では集落の外にある。だからの日本の都市のばあい、集落の外にある聖所に向かって参詣にゆく人々のための私鉄が発達するわけである。(180-181)

北海道の地図を開いてみるとわかることだが、石狩山地、北見山地をふくむ大雪山系は北海道の全面積のおよそ6分の1を占め、そして北海道のおよそ3分の1の地域、2分の1の人口に水を供給している。旭川市はもちろん丸抱えである。もし大雪山がなかったら、旭川市はもちろん、北海道のおよそ半分は全滅するだろう。となると、これはもうまったく北海道のカミサマといってもいいのではないか。(192)

 

 

 

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日本は孤立した島国か?(網野善彦『日本論の視座』①)

 羽原又吉(はばらゆうきち)が、戦前まで紀伊の串本、潮岬、大島(以上、和歌山県串本町)などの漁民が行っていたオーストラリア沿海への貝類採取の出稼ぎ漁業が、江戸時代まで遡ると述べているのも、決して誇張ではなかろう。なにより、伊豆七島の八丈島にいたるまで、縄文時代の遺跡が分布している事実は、それ以後の時代においても、太平洋の海の道がさかんに用いられたことを推測させるので、この方面についても考え残された問題は多いといえよう。(38)

【和歌山からオーストラリア沿海へのイメージ】Google Mapより。

 以上によって「島国論」の成り立ちえないことは、もはや明白であろう。日本は周囲から孤立した「島国」などでは決してない。日本列島はむしろ、アジア大陸の北と南を結ぶ、弓なりの架け橋であった。もとよりときによって消長はあり、いくつかの国家によるさまざまな制約はしだいに強まったとしても、庶民の生活そのものの働きに基づく交流は、決してたえることはなかったのである。
そして「黒船」の渡来以前でも、太平洋は東方あるいは東南方の島々との交流を阻害する決定的な障壁ではありえなかった。つらなる北方、南方の島々を経て、海の道はアメリカ大陸にまで通じていたということすらできる。こうした事実を見ようとしない「島国論」が、日本人、日本文化が人類社会の歩みの中からのみ生まれえたという、あまりに当然の前提を無視する結果にならざるをえないことを、われわれは知っておく必要があろう。(38-39)

 

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非認知能力が、人生を決める!(中室牧子『「学力」の経済学』②)

中室牧子『「学力」の経済学』①はこちら
幼児教育に金をかけると効率がいい!(中室牧子『「学力」の経済学』①)

 

勉強ができてもできなくても、社会では関係ない。

そんな言葉をよく聞きます。

では、社会で役立ち、人生を決めるものは一体何でしょう?
『「学力」の経済学』では「非認知能力」である、と書かれています。

ペリー幼稚園プログラムによって改善されたのは、「非認知スキル」または「非認知能力」と呼ばれるものでした。これは、IQや学力テストで計測される認知能力とは違い、「忍耐力がある」とか、「社会性がある」とか、「意欲的である」といった、人間の気質や性格的な特徴のようなものを指します。(…)非認知能力は、認知能力の形成にも一役買っているだけでなく、将来の年収、学歴や就業形態などの労働市場における成果にも大きく影響することが明らかになってきたのです。(86)

ちなみに、「認知能力」とはペーパーテストなどで測れるもののこと。
いわゆる「学力」(IQ)のことです。
ちょっと前に流行った「EQ」に近いもののようです。





「非認知能力」一覧を見てみましょう(87)。

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いわゆる「やる気のある人」的な要素が多いです。

そしてこの非認知能力は「学校」など、人と関わる場所で学べるものです。
(いわゆる「独学」ではなくて)

 

ヘックマン教授らは、学力テストでは計測することができない非認知能力が、人生の成功において極めて重要であることを強調しています。また、誠実さ、忍耐強さ、社交性、好奇心の強さ−−これらの非認知能力は、「人から学び、獲得するものである」ことも。
おそらく、学校とはただ単に勉強をする場所ではなく、先生や同級生から多くのことを学び、「非認知能力」を培う場所でもあるということなのでしょう。(87)

 

どんなに勉強ができても、自己管理ができず、やる気がなくて、まじめさに欠け、コミュニケーション能力が低い人が社会で活躍できるはずはありません。一歩学校の外へ出たら、学力以外の能力が圧倒的に大切だというのは、多くの人が実感されているところではないでしょうか。(88-89)

そしてこの非認知能力はトレーニングや教育で伸ばしていくこともできるもの。

私が「重要」と定義する非認知能力とは、
①学歴・年収・雇用などの面で、子どもの人生の成功に長期にわたる因果関係を持ち
②教育やトレーニングによって鍛えて伸ばせる
ことが、これまでの研究の中で明らかになっているものです。(89)

 




この「非認知能力」こそ、人生を決めるものです。

単に単語や言葉を覚えることでは高まりません。
人とかかわったり、一緒に何かをしたりするなかで高められる「非認知能力」、学校がほんとうの意味で高める場所になっているか、再考する必要がありそうです。

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幼児教育に金をかけると効率がいい!(中室牧子『「学力」の経済学』①)

アメリカで、幼児教育が人生に与える影響を調べた実験が行われた。

それを「ペリー教育プログラム」という。
良質な幼児教育を受けた人と受けなかった人を比較し、「その後の人生」がどうなったかを調べるものである。
なんと40年間にわたり、追跡調査をしている(日本にこんな壮大な研究は少ない)。

ヘックマン教授らは、1960年代から開始され、現在も追跡が続いているミシガン州のペリー幼稚園で実施された実験に注目しました。
「ペリー幼稚園プログラム」と呼ばれるこの就学前教育プログラムは、低所得のアフリカ系米国人の3〜4歳の子どもたちに「質の高い就学前教育」を提供することを目的に行われ、今なおさまざまなところで高く評価されています。このプログラムでは、
・幼稚園の先生は、修士号以上の学位を持つ児童心理学等の専門家に限定
・子ども6人を先生1人が担当するという少人数制
・午前中に約2.5時間の読み書きや歌などのレッスンを週に5日、2年間受講
・1週間につき1.5時間の家庭訪問
という非常に手厚い就学前教育を提供しました。
さらに、このプログラムでは、貧困家庭が直面する「家庭の資源」の不足を補うため、子供だけでなく、親に対しても積極的に介入が行われました。(78-79)

その結果はどうだったか。




つまり、この就学前プログラムに参加した子どもたちは、小学校入学時点のIQが高かっただけではなく、その後の人生において、学歴が高く、雇用や経済的な環境が安定しており、反社会的な行為に及ぶ確率も低かったのです。(…)就学前教育への支出は、雇用や、生活保護の受給、逮捕率などにも影響を及ぼすことから、単に教育を受けた本人のみならず、社会全体にとっても良い影響をもたらすのです。(82)

さて、この「社会全体にとっても良い影響」とはどういうことか。

こうした社会全体への好影響を「社会収益率」として推計したヘックマン教授らによると、ペリー幼稚園プログラムの社会収益率は年率7〜10%にも上ると指摘されています。(…)
社会収益性が7〜10%にも上るということは、4歳のときに投資した100円が、65歳のときに6000円から3万円ほどになって社会に還元されているということです。現在、政府が失業保険の給付や犯罪の抑止に多額の支出を行っていることを考えると、幼児教育への財政支出は、社会全体でみても、非常に割のよい投資であるといえるのです。(82)

つまり、幼児教育に金をかけることが、社会にとっても役立つ、ということである。

保育園の待機児童が問題となっている日本、特に都心部にとって、重要な指摘である。




もっと幼児教育に金をかけよう!

 

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★本書は、あまりデータを元に語られない「教育」を、経済学の視点で見ていくというもの。「ご褒美」をあげるほうが成績が上がるなど、いろんな発見がある本。
ちなみに本書は古市憲寿『保育園義務教育化』のタネ本でもある。

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続きはこちら
非認知能力が、人生を決める!(中室牧子『「学力」の経済学』②)

中高生が「ちくまプリマー新書」を投げ出すのは、どんな時か?

ちくまプリマー新書は、「中高生向け」でもある新書。
やさしい言葉で、学問の本質を伝えるという、50年くらい前の「岩波新書」と同じような狙いの新書(岩波新書は決して「やさしい言葉」でないときもあったけれど)。

ただ、思うのは「中高生向け」を謳った本にも「中高生が投げ出しそうだなあ」という本が少なくないのはなぜだろう、という点である。

ではどんな時に「中高生が投げ出す」のだろう。

たまたま今読んでいた根井雅弘『経済学はこう考える』(ちくまプリマー新書)を元に見ていきたい。

(ちなみにこの本、まったくもって中高生向けには感じられません)

(1)抽象概念を抽象概念で説明する場合

本書で言えば、「流動性選好説」(ケインズ)の説明に当てはまる。

「流動性」とは、必要なときにいつでも他の財に代えられるという「交換の容易性」や、他の財と比較して元本の価値が安定しているという「安全性」の総称ですが(以下略)(68)

「流動性」も「財」も「元本」も、日常ではほぼ使わない言葉。
それでもって「流動性選好説」なる「抽象概念」を説明する場合、中高生のワーキングメモリ(および「普通」の大人のワーキングメモリ)に「?」マークが浮かぶ。

するともはや理解が進まなくなる。

(2)複数のカタカナ人名が出てくる場合

一般的な中高生は、アーティストでもタレントでもない外国人の名前に触れることは(ほぼ)ない。

そんなときにやれケインズだ、ハイエクだ、ケインズの弟子のロビンソンだ、などと聞き覚えのないカタカナ人名が出てくる時点で本を閉じたくなる。

そのため、せっかくいいことを言っていても「ケインズによると」がついた途端に読むが薄れてしまう。

ちなみにいわゆる「女子トーク」が面倒なのは、話す相手が知らない人物名が複数(一つなら耐えられる)出てくるためである。

(3)言っていることが日常会話レベルをはるかに凌駕している場合

これはあらゆる本の宿命。
日常会話や日常での認識をはるかに超えた内容を理解するのは、ちょっと体力がいる。

もともと日本語という言語は「一方的に長く話す」のに向いていない言語だった。
江戸時代、幕末の志士たちが「今後の日本をどうするか」考える時もそうだった。

彼らはどうやって議論したか?
なんと「筆談」(正確には手紙)なのである。

幕末の志士たちは同じ宿屋のとなりの部屋の人と議論するときも、日常会話ではできないのでいちいち手紙を書いていた、という。

(4)数式及びわかりにくいグラフの登場

これは中高生にかぎらず成立する。
(経済学の本は大体、(4)があるせいで極端に読みにくくなります)

 

いかがだったでしょうか。

本書は理数系の高校生でなければ、途中で投げ出すだろう本。
かくいう私もあんまり理解できないところもある本だったが、学ぶことの多い本だったことを補足しておく。

ケインズは、『自由放任の終焉』のなかで述べたように、資本主義にはいくつかの欠陥があるにもかかわらず、賢明に管理されるならば、他の経済システムよりもはるかに効率的であるという信念をもっていました。(63)

 

一言でいえば、ケインズにとって、経済学とは「目的」ではなく「手段」に過ぎなかったのです。(76)

 

☆根井雅弘, 2009, 『経済学はこう考える』ちくまプリマー新書.

 

論理力って、なあに?

国語力。

物を書いたり、考えたり、文章を読んだりするときに使っている力です。

学校でも、「国語」の授業があります。

ところで、この「国語力」とは、一体何なのでしょう?

福島隆史『論理的思考力を鍛える超シンプルトレーニング』では次のように定義しています。

国語力とは、論理的思考力である。
論理的思考力とは、バラバラの言葉や考えを整理する(関係づける)ための力である。(10)

出口汪さんの「論理エンジン」シリーズは塾や学校でも多く使われています。
「論理エンジン」シリーズも、この定義同様、国語力=論理的思考力と定めるところから始まります。

下手に国語力に「文学」や「読解」、「漢字書き取り」とすると、混乱が起きます。

なぜでしょうか?

それは「文学」を読むことも、文章の「読解」も、「漢字書き取り」も、国語力の根幹ではないからです。

そうではなく、「論理的思考力」という幹から伸びる枝に過ぎないのです。

学校の「国語」の授業では伝えられていない本質がここにあります。

『論理的思考力を鍛える超シンプルトレーニング』ではこの論理的思考力を3つのちからに分けることができる、と指摘します。

「言いかえる力」……抽象・具体の関係を整理する力
〈A つまり B〉〈B たとえば A〉

「くらべる力」……対比関係を整理する力
〈A 一方 B〉〈A それに対して B〉

「たどる力」……因果関係を整理する力
〈A だから B〉〈B なぜなら A〉(10)

「論理的思考力」を、「言いかえる力」「くらべる力」「たどる力」という3つにきれいに整理してしまっているこの定義。

非常にシンプルです。

使うのも「つまり」「たとえば」「一方」「それに対して」「だから」「なぜなら」と、日常よく使っているものばかり(「一方」や「それに対して」はちょっとつらいかな)。

つまり、いつもよく使っているこれらの言葉を完璧に使えるようになることが「論理的思考力」を高める最短ゴールなんじゃないか。

そんなふうに感じてきます。

 

下手に「論理」や「ロジック」「ロジカル」などという言葉を連発しないところがこの本のいいところです。

残念なことに、「論理力を身に付ける」ことを謳っている本や「ロジカルシンキング」を謳っている本は、「結局、論理って何?」「なにをもってロジカルって言ってるの?」という根本的疑問に答えないまま終わってしまうことが多いのです。

その点で、この本はおすすめです。

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古市憲寿, 2015, 『保育園義務教育化』小学館.

私より、ただ3つ年上で、
東大社会学出身で、
エッセイ文体が上手く、
ときにサラッと毒舌を書く。

そんな意味で、大学院の頃から古市氏は「あこがれ」を感じる研究者だった。
本書はそんな古市氏の魅力が溢れている。
(人によっては鼻につく本ではある。まあ本人も自覚しているんだけど)

日本では「少子高齢化」と言われている。
しかし、「子どもを持ちたい」という思いを持つ人へは非常に風当たりが悪い。
だからこそ、それを改善するアイデアが「保育園義務教育化」だ。

これは本書のスタンスである。

今の世の中、「子どもを持ちたい」人や「子どもを持っている人」、特に「お母さん」へのバッシングが強い。

実際、数多くの育児ノウハウはあふれているのに、子どもを産んだ「お母さん」の身体に対して日本はあまりにも無頓着だ。(32)

 

子どもの育児を「孤独」に行うことは、母親にとっても負担が大きくなる。
それが結果的に育児放棄や児童虐待を招くこともある。

仕事をしようにも、都心部では待機児童が多すぎて認可の保育園を使用できない。
しかたなく無認可の保育園に子どもを預けると、【母親の給料と変わらない額】を払うことになることもある。

保育園義務教育化には、母親支援だけでなく、日本経済にも貢献する。

社会学の分析でも「保育サービスなどの拡充によって、働く女性が増えた時に、その国は経済成長率が上がる」(122)ことが示されている。

きちんとした保育サービスを整備すれば、女性が働いてくれ、労働力人口が増える。
さらに忙しく働く女性はルンバや食洗機を買ったり、家事関連産業の拡大にも貢献する。また現代は女性向けの仕事が増えているため、女性が働くと企業の生産性も上がる。(…)女性の労働力率を上げるには、子ども手当を支給するのではなく、保育園を整備したほうが効果的なこともわかっているという。
「経済成長」が大好きなおじさんたちは、「東京オリンピック」や「リニアモーターカー」といった話題は大好きだ。そのくせ「少子化」や「待機児童」といった話題には、「なんとかします」といいながら、あまり興味がなさそうである。
しかし実は、「保育園義務教育化」は、少子化解消のみならず、日本の経済成長にも貢献するアイデアだったのだ。(123)

これらの背景には、次のものがある。

社会のあらゆる制度や環境が、全力で少子化を促進しているかのようだ。日本は実質的に「一人っ子政策」をしていたのだ。
そんな状況を解決するアイディアが「保育義務教育化」だった。
「保育園義務教育化」はただ少子化解消に貢献するというよりも、社会全体の「レベル」を上げることにつながる。良質な乳幼児教育を受けた子どもは、おとなになってから収入が高く、犯罪率が低くなることがわかっている。
同時に「保育園義務教育化」は、育児の孤立化を防ぐ。今の日本では、子育ての責任がとにかく「お母さん」にばかり背負わされている。
子どもが電車や飛行機の中で泣くことも、学校で勉強ができないことも、友だちと起こしたトラブルも、何かあると「お母さん」のせいにされる。
だけど、本当は育児はもっと社会全体で担ってもいいもののはずだ。しかも子育て支援に予算を割くことは経済成長にもつながる。いいことずくめなのだ。(158-159)

ちなみにこの「保育園義務教育化」、カバーにもあるが「もう世界では始まっている!」。

やらない理由はないようだ。

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