2015年 6月 の投稿一覧

「静かな変革者」になるには?〜『だから日本はズレている』〜

おそらく、著者がすーっごく「気を抜いて」書いたであろうこの本。
よくよく厳密に考えると矛盾あふれる記述の多いこの1冊。
(「ノマド」批判のあとに来る、シェアハウスに住む若者の話、など)

本日6/27(土)、読書会@札幌・帯広にて開催しました。

 社会は、ちょっとずつ変えていくしかない。ということは、社会をよくするためには「静かな変革者」を少しずつでも増やしていくしかない。
「静かな変革者」と対照的なのが、自称「保守」の人々の間に広がる相互不信や他者攻撃だ。誰かをバッシングして自分のちっぽけな自尊心を満たすくらいなら、実際に日本の役に立つことを出来る範囲で、明日から始めたらいい。少なくない若者たちは、既に動き始めている。(203)

自分が関わるコミュニティ、および自分の周囲から社会を変えていく。
ありがちな主張ですが、「けっきょくはそこからしかできないよね」というスタート地点でもあります。

ただ、やり方がまずいと、第二の「オウム真理教」的な「変なコミュニティ」が生まれる可能性も・・・。

それを防ぐ方法は、「反権力」、それの行き過ぎの「反社会」とならない方法を取ることだ。

日本で、わかりやすい「反権力」運動が成功したことはない。それを学んだ「静かな変革者」たちは、既存の社会システムと協調することを好む。行政に協力を仰ぎ、時には共に行動する。
僕も「静かな変革者」に対するインタビューをよく行うが、彼らは「社会にいいことをしたい」とか「国のために何かしたい」とはあまり言わない。そんなのは、彼らにとってもはや自明のことだからだ。当たり前のように被災地支援をしたり、自然エネルギーの啓蒙活動に取り組んだり、地域の教育問題を解決しようとしている。
彼らは、大きなことを言わない代わりに、粛々と身の回りの100人、1000人を確実に幸せにしている。だけど、その活動は規模が小さい文、あまり目立たない。(202)

 

これこそ、いまの日本人、特に若者ができる、日本社会変革の方法なんだよなー、と思う。

無理もないし、それこそ札幌のエルプラザや帯広のとかちプラザによくいる市民活動団体のやっていることと同じだからだ。

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波というもの

こんなことはないだろうか。

さっきまで誰もいなかったコンビニに1人お客が来ると、雪崩を打って人がやってくる。

昼間も真夜中も同じこと。
突如として、お客の波が来る。

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ひなびた山奥の温泉にいて貸切状態であっても、1台クルマが来ると続けて2台・3台とやってくる。

波というものは、確かにある。

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仕事にも波がある。

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忙しい「忙殺」週間のあと、突如として「何もない」期間が来る。

「あいだ」の忙しさ・中間の忙しさはあまりない。

めちゃくちゃ忙しいか、暇か、その2択しか無い。

これ、人生も同じこと。

めちゃくちゃ忙しく、密度の多い期間と、

何もなく、変化に乏しい期間とが合間する。

どうせなら「暇」の方がいいけれど、
「暇」すぎると「オレって、いる意味あるの?」と思ってしまう。

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「波」というものを、人間は時として忘れる。
つまり、波と波の来ない中間がある、と考えてしまう。

そんなものは存在しないことに、どこかの時点で気付かなければならない。

そう思う。

「どのようにして」という質問

なにか、できないことがある。

例1「さかあがりができない!」
例2「片付けができない!」
例3「人間関係がうまくできない・・・」

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そのとき「なぜできないのか」問うと、暗くなる。

例1→「なぜできないのか。才能がないから・・・」
例2→「なぜできないのか。やっぱりO型だから無理!」
例3→「なぜできないのか。やっぱり、オレはコミ障だから」

そんなとき、問い方を変えてみると、発見がある。

問い方を「どのようにしたらできるのか」に変えてみるのだ。

例1’→「どのようにしたらできるのかな。練習が足りないからかな。もっと練習してみるか」
例2’→「どのようにしたらできるのかな。100均の整理グッズでも買ってみるか」
例3’→「どのようにしたらできるのかな。コミュニケーションについての本でも読んでみるか」

どうだろう?
「どのようにしたらできるのか」の質問のほうが明るい。
次何をしたらいいか」、なんとなく見えてくる。

問い方を変えるだけで、だいぶ変わることがあるのだ。

それは、理系の研究者でも同じらしい。
「どのようにしたら」、つまり「いかにして」という問い方こそ、真理発見につながるのだ。
「なぜ」という問いからは、発見されにくい。

自然の研究から決定的な答えが得られるのは、この「いかにして」型の問いだけなのである。いかんせん、この言い方は落ち着きが悪いので、「いかにして」と、より具体的な|問題を論じるつもりで、「なぜ」という、より一般的な表現をうっかり使ってしまうこともあるかもしれないが、そこはどうか大目にみていただきたい。
しかし、現実に知識を得るという観点からは、「いかにして」と書き換えられたこの疑問を補う、より実際的で実り多い多数の問いが発せられてきた。たとえば次のような問いもそのひとつである。「今の時代の宇宙をもっともよく特徴づけている性質は、どこから生じただろうか?」。いっそう重要なのは次の問いかもしれない。「その疑問に答えるためには、何をすればよいだろうか?」(ローレン・クラウス, 2013, 『宇宙が始まる前には何があったのか?』, 文藝春秋, 207-208頁)

 

 

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☆関係ないけど、つぎの引用も結構面白いので残しときます。

物理学が環境科学になるということは、われわれの知る物理法則は基礎的なものではなく、たくさんの宇宙がある中で、たまたまこの宇宙の中だけで成り立つローカルな法則にすぎないということを意味している。そしてそれはまた、この宇宙がこのような宇宙であるのは、単なる偶然だったということを意味してもいる。(「訳者解説」283頁)