2014年 7月 の投稿一覧

「反転」は、果たして可能か?〜『反転授業』読書会を振り返る〜

札幌時代から月1でやってきている、読書会。
「日本の思想」テーマでやってきたはずが、やはりディープに教育べったりでやっています(まあ、私的にはいいんですけど)。

私の自己学習の記録がこちら↓。

URL 「教える」モデルからの「反転」〜反転授業は「学び」を復権させるか?〜 

 

さて、本日7/19はその本番でした。

議論の大きなテーマは、「反転授業によって、これからの学校・授業・教員はどうなるか?どう替わっていくべきか?」

結果的には「いまの日本の制度でそのまま入れても、あんまりうまく行かないかもしれない」が議論のまとめとなりました。

まあ、当然といえばそうです。

日本の教育は「困ったら学校に◯◯の授業を行わせる」で回してきました。
例1 英語が必要?じゃあ、小学校から英語の時間だ!
例2 これからはシティズンシップ教育の時代だ!
例3 やっぱり大学では「社会人基礎力」をつけさせないと!
例4 体育ではダンスをやらせよう!武芸のなぎなたも!

その結果、そのようなスキルも経験もない教員に無理にやらせることになります。
(ダンス経験のない教員の教えるダンスの授業は、おそらく「悲惨」でしょう。)

困ったことに、日本の教育は全体主義的に「来年から◯◯を学校でやります!」式で来ています。
総合学習もゆとり教育も、そんな流れで来ています。
「100マス計算」「朝の10分間読書」といった「一見すると民間教育運動」的な教育の流れも、いきなりあちこちの学校でやり始めることになります。

おまけに教員は「それほど」人気のある職業ではなく、なんでもできるスーパー人材は起業家になったり、外資系に行ったり、国1を目指したりしています。

こういう流れで反転授業をいれても、ねえ。

・・・ただ、理念的にはとてもいい概念です。
反転授業を応援する旗振り役をやりたいくらいです。
私の勤務先でもやる予定です。

ただ、ここで考えるべきは教育論が「制度的に無理」に流されることの問題点です。
実際、細かい話をすると大体の教育論は「実現不可能」で終わります。

でも、方針や理念型を定めることはすごく意味があることです。

私はよく教育論を読みますが、大部分の教育論の読者と違い、日本という枠での実現可能性は無視しています。

あくまで自分の周囲で実践できるという文脈で読んでいます。
だって、そうじゃないと「暗くなる」からです。

 

閑話休題。

読者会をしていて気づいたことを何点か。




(1)授業のコモディティ化について

コモディティ化とはそれぞれの個性がなくなり、陳腐化すること。
似たような商品ばかりになり、優位性がなくなり、結果「安売り競争」に巻き込まれること。

これまでの学校の「授業」は、特に工夫もあまりなく、決められたカリキュラムを決められたとおりに進めるモデルでした。
「勝負できる商品」としての授業はあまりなく、「やらなければならない」からやるだけ、でした。

授業のコモディティ化です。

反転授業をすすめることは、コモディティ化した授業に風穴を開けることになります。
つまり、「ネットで流れている授業のほうが面白い」という単純な事実に、生徒たちが気づくことです。

そうなった場合、教員の反応は2つにわかれるでしょう。

A 授業改革に情熱をそそぐ
B 単なる授業でなく、ネットの授業を見た上でこそ成立する、アウトプット中心の授業を行う(ディスカッション、プロジェクト学習など)

私なら迷わずBを選びます。
そして「学び」をコーディネートする人としての教員として仕事をします。

(2)日本型合意形成モデルについて

日本の民主主義的な合意形成の方法。
会社でも大学のサークルでも、町内会の寄り合いでも、
議論の合意形成は大体「全員に意見を聞き、多数決を取る」というスタイルです。

このモデルは戦後の学校教育での「学級会」のやり方から来ています。
つまり、日本的な合意形成モデルは学校での議論のやり方そのままといえるでしょう。

もし学校の授業の中で、KJ法やKPT、マインドマップなどの発想ツールや合意形成フォームを学ぶなら、日本人の合意形成の仕方も変わっていくのではないか。
だからこそ、学校内での議論の仕方・合意形成の仕方の教育を再検討することは大切なのではないか。

・・・・取り留めもなく書いてしまいましたが、今回のように発想が広がるのがいい読書会の条件なのかもしれません。

 

2Q==

 

ブログランキング参加中!1日ワンクリックお願いします↓


教育・学校 ブログランキングへ

「教える」モデルからの「反転」〜反転授業は「学び」を復権させるか?〜

書評:ジョナサン・バーグマン/アーロン・サムズ『反転授業』オデッセイコミュニケーションズ,2014.

最近の流行語、「反転授業」。

反転?
授業の、何を?

本書の表紙に書いてある言葉が一番わかり易い説明となる。

「基本を宿題で学んでから、授業で応用力を身につける」。

反転授業(Flip you’re classroom)。
これは既存の授業・学校のあり方を入れ替える力を持った取り組みである。

カーン・アカデミーの創設者の自伝にも紹介のある取り組み。

予め授業を録画し、それを生徒が自宅で観る。
学校ではその内容を元に演習やディスカッションを行う。
すでに基本を理解しているため、より高度な授業や
個々人の習熟度に応じた学習ができる。

まさに「「反転」が「個別化」を助ける」(29)。

単なる遠隔授業ではないので、直接会って指導すべき内容を優先して授業できる。
「反転モデルはオンラインと対面指導を融合した「ブレンド型」と呼ばれる形式の理想型だと確信している」(60)というのも、そのとおりの話だ。

特徴の1つは、授業や講義を気軽に「一時停止」できること。
PCの動画なら、どんなに止めても・スローにしても、誰にも怒られない。
自分のペースで学習できる。
PCでできるからこそ、発達障がいを持っている生徒も自分のペースで学習できる。
支援ツールも使い放題。

無論、自宅は教室とは違う。
テレビにゲーム、ベッドと誘惑は数多い。
だからはじめのうちに学習のルールづくりを行う。
集中を阻害するものをなくすほか、
ノートの取り方も指導する(コーネル式ノートなど)。

反転授業において、授業の主導権は生徒に移る。

「反転授業は明らかに生徒が主体であり、教師主体ではない」(46)。
「教室における教師の役割は情報を伝達することではなく、生徒を支えることである」(46)。
「教師が学習プロセスの主導権を手放し、生徒がみずから指揮を執る。教育のプロセスが本人の手にゆだねられるのだ」(123-124)。

教員が「説明する人」から、「支援する人」に変化する。
これ、私のような通信制高校の教員からすると当然であるが、
大きな変化であるといえるだろう。

まさにインターネットの発展によって成立した理想の授業。

優秀な教員のビデオさえあれば、単なる情報伝達はその動画に任せればいい。
東進ハイスクール式に、優秀な教員の動画を皆が見ればいい。
その上の応用や補充をやるのが、その学校の教員であってもいい。

こんな分業も可能となる。

私は、あまり既存の「学校」モデルが好きではない。
だから、本書のような「反転」モデルは非常にワクワクする。

 

反転授業は本来の「学び」を復権させる取り組みである。
教員の自己満足である「教える」を捨て、生徒の「学び」につなげる。

それが目標である。

 

読書の楽しさを取り戻す!

 書評:丸山圭三郎, 1990, 『言葉・狂気・エロス』(講談社現代新書)

高校時代、古本屋の店主になりたいと思った時期がある。
大学時代も、それがあった。

自分の好きな本を飾り、客と知的な会話のできる職業というイメージからの発想である。

イメージの古本屋の主人は大体が頑固であり、無愛想であるが、話の振り方次第では博識ぶりを客に語って伝える存在でもある。

実際はそんな店はほとんどないのであるが、「あこがれ」がある。

この『言葉・狂気・エロス』は、札幌の古本屋でたまたま買った本。
買うときに、「お客さん、掘り出し物を買ったね」と言われた本である。

「この本は古いと思われるかもしれないけど、その当時の歴史を想像し、時代を下っていくように読むとまた違う発見がありますよ」

無愛想な顔が一転し、笑顔で語るその姿。自分がかつてイメージした「古本屋の主人」そのままであった。

さて、本書は「現代思想」の本である。
ちょっと古くなった「現代思想」の本を読むと、大学院時代を思い出す。

本書のハイライトは著者である丸山が子ども時代、「本の虫」といえるほど本に熱中していたにもかかわらず、大学入学後には読書が苦痛となってしまう(205)。

「その理由は、〈読む〉ことが一つには課せられた、強制行為となったためであり、二つには唯一の正解、つまり作者の唯一の意図、作品の唯一の意味を探りあてねばならないという状況に置かれたためだ」(205)

「正解」を求める読書は苦痛である。
しかし、ある時著者はあることに気づく。
その結果、再び読書の「喜び」を実感するのである。

「万人が同じ答えに到達する読みは、パズル解きやクイズ遊びに過ぎない。そうではなく、私たちがテクストと自らの身の相互的運動を通して得られるような快い緊張感と興奮、これが快楽を生む源なのではないだろうか」(207)

そう、読書は意味を読み取るパズルではない。
読書が本(=テクスト)と相互的運動、つまりコミュニケーションするなかで新たな意味を創造する取り組みである。

これこそ、バルトの言う「テクストの快楽」。

「〈読む〉ことも〈書く〉ことも、対象から意味を与えられると同時に意味を付与するという相互作用から成っているのではあるまいか」(206)

シャーロック・ホームズの推理ミスを探すのも、
『坊っちゃん』の「うらなり」の立場から小説を書くのも(『うらなり』)、テキストに自分の意味を付与し、創造する喜びである。

そういった「意味の創造」こそ、今後の読書教育などでやっていくべきなんだろうなあ。

こう考えると、流行りの「ビブリオバトル」も意味の再解釈の場として「解釈」され直すことになるだろう。