2013年 1月 の投稿一覧

レイチェル・ボッツマン/ルー・ロジャース『シェア 〈共有〉からビジネスを生みだす新戦略』NHK出版 2010。

この2年、なにげに自分は「シェア」が身近であった。

 

職場をシェアする「コワーキングスペース」でのインターンシップ、

各種「シェアハウス」の見学のほか、

札幌では実際に「シェアハウス」に住み、

「コワーキングスペース」でバーテンをやるようになっている。

 

そんな自分を改めて「振り返る」のに、『シェア』は有効だった。

 

自分が使わないもの・いらないもの・「ちょっとしか」使わないもの。

それをネットで伝達し、モノの交換・引取り・貸出をする。

そういったものを「コラボ消費」と呼んでいる。

 

「コラボ消費とは、おままごとのような善意の譲り合いではない。逆に、個人の自由を手放したり、ライフスタイルを犠牲にしなくても資源をシェアできるようなシステムを確立することだ」(21)

 

つまり、「コラボ消費」をするのが「貧乏」でも「せせこましい」のでもなく、

逆に「めっちゃ楽しい!」という価値を示していくことが必要なのだ。

 

 

本書には、ブレインウォッシュという団体の活動が描かれている。

地球環境のために各家庭で洗濯機を買うのでなく、「コインランドリー」を有効に使おう、という運動だ。

「洗濯機シェア」である「コインランドリー」には、「ダサさ」「暗さ」「貧しさ」がつきまとう。

 

はじめは政府に助成金を依頼したり「コインランドリーはエコ」などの呼びかけ活動をしていたが、どうも限界に終わってしまった、という(日本の市民活動も、大体この2つをやるにとどまっている)。

 

そのかわりにはじめたのは、「コインランドリーを使う」ことの「楽しさ」を積極的に打ち出したことだ。

 

「カフェを併設したり、ハッピーアワーや音楽ライブ、スタンドアップコメディの上演といった時間をつくったり、ピンボールマシン、無料の無線LAN、そして宿題ができる場所まで提供して、ユーザーを喜ばせている。そこは明るくモダンなスペースで、屋内と屋外に座席があり、気持ちのいい音楽が流れ、壁にはファンキーなアートがかかっていて、スタッフが親しげに手助けしてくれる−−ほとんどのコインランドリーのような暗くて陰気な雰囲気とはちょっと違う感じだ」(268)

 

つまり、「コインランドリー」の価値を再定義したのである。

コインランドリーを「洗濯機の買えない人のための貧弱な空間」という価値付けを「楽しい」空間に置き換えたのだ。

彼らは「消費者を変えようとするのではなく、システム自体を変えた」(269)のである。

「コラボ消費」を道徳や倫理観から「やっていこう」と呼びかけるのでなく、「楽しさ」で伝えていったのだ。

 

この「楽しさ」には、「楽しさ」をコミュニティで「シェアする」ことでさらに広まる。

 

「ナイキ・ブランドのチャーリー・デンソン社長が、投資家への最近のスピーチで言ったように、「消費者は、コミュニティの一部になりたがっている。それが、デジタルやヴァーチャル・コミュニティという場合もあれば、リアルなコミュニティということもある。自分が何かの一部だと感じたいんだ。関わりあいたいと思っているんだ」(249)

 

私も仕事のために札幌に「一人で」来たため、ともすれば職場以外にコミュニティのない「ハイマートロス」(故郷喪失者)であり「デラシネ」(根無し草)な男になるところであった。

 

シェアハウスに住み、コワーキングスペースを利用することで、私も「札幌」のコミュニティに参加する主体となれる。

 

「モノに囲まれた孤独な買い物客が、「幸せ」を体現しているとはだれも思わないだろう。今「幸せ」とは、より広く、よりインタラクティヴなプロセスになっているのだ」(270)

 

 

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☆本書は「コワーキングスペース」誕生の経緯も描かれています(213ページ)。

「会社の机でも、自宅でもない場所。好きな時に参加できるパブリックな場所で、そこへ行くと必ずだれかに会えて、何か役に立つことをお互いに交換できるかもしれないスペース」。なおかつ「そこにいる人たちは、独りだが、同時に一緒に働いていた」(215)といえる空間。

Coworking Cafe 36も、この理念を外さずにやっていくことの大事さを改めて感じています。

ノマド・スタディ考。 〜「いつでも・どこでも」学ぶことの陥穽とその対策④〜

5,「スキマ時間」記述

ノマド・スタディに関わりが深いのは「スキマ時間」である。何かと何かの「間」の時間に「発見」されるのが「スキマ時間」である。その「スキマ時間」の「活用」こそ、「いつでも・どこでも」学習するノマド・スタディにとって必要な「資源」である。
では、この「スキマ時間」について、どのようにこれまで説明がなされてきたかを見てみよう。
「スキマ時間」で始まる書籍を国会図書館データベース(NDL-OPAC)で検索してみた。すると29件の記述が存在した(2011年8月6日参照)。最も古いものは1996年発行の『奇跡の「スキマ時間」活用術』(安田賀計 PHP研究所)である。

29件のうち下の2冊は授業のなかでの教員の実践のヒントに繋がるものである。

・パッと使える「すきま時間の遊び」 / 家本芳郎. — フォーラム・A,2006.4. — (学級担任テーマブック)
・学習密度が濃くなる”スキマ時間”活用レシピ50例 / 森川正樹. — 明治図書出版, 2010.8

また、次のものはゴルフの上達を志向したものである。

・スキマ時間でスコアが伸びるゴルフ上達トレーニング / 田中誠一. — 日本経済新聞社, 2003.9. — (日経ビジネス人文庫 ; 190)

これら以外はすべてスキマ時間に資格のためなどに勉強を行なうことを志向したものであった。なお、NDL-OPACで「隙間時間」を検索すると該当するものは見つからなかった 。
つまり、「スキマ時間」というものは資格勉強ないし受験勉強を行なうために「発見」され、活用されるものなのである。あるいは忙しいビジネスマンのゴルフ練習のため、ないしは学校において教員がちょっとした授業時間の「スキマ時間」を有効に活用するために用いられている言葉なのである。

映画『LOOPER』(ルーパー)(2012, アメリカ)

photo主人公ジョーのもとには、30年後の世界の人間が「殺したい」相手が送り込まれる。

懐中時計を見て、決められた時間・場所に送り込まれる相手を単調に撃っていく。

そんな仕事。

30年後の未来は犯罪捜査が発展し、死体を見ると犯人がわかるようになるという。
だからこそ、殺害を過去に「アウトソーシング」するのだ。

この「アウトソーシング」先の職業を「ルーパー」という。

〈ループ〉してきた相手を撃ち殺すからだ。

ルーパーたちには「引退」がある。
30年後も自分が生きている場合、いつの日か自分で未来の自分を撃ち殺すこととなる。
この場合、「ループを閉じる」と呼んでいる。

ある時、ジョーもついにその「ループを閉じる」日がやってくる。

しかし、ジョーは撃ちそびれる。

組織からの追求を逃れるため、ジョーは未来の自分を殺害を決意、探しまわっていく…。

この映画のテーマは文字通り「ループ」である。

幼少期の虐待や「捨てられた」経験および生育環境。
これがその少年がおとなになった時、犯罪者になる・ならないを決める重要な「独立変数」となる。

要は、幼少期の生育環境こそがその人物の行末を決めるのだ。
親から虐待や「捨てられた」子どもは愛し方を知らない。
その結果、彼らは自分の子どもたちにも同じような接し方をしてしまう。

そういう意味で、子育ては「ループ」している。

この映画の裏テーマはこの「ループ」をいかに断ち切るか、にある。

その断ち切り方をここでは描かないが、1つの「贈与」としての「死」が「ループ」を断ち切ることとなっている。
子育てには「贈与」としての「犠牲」が必要な側面があるのである。

この映画を教育学的に見ることは非常に意味があるだろう。

子どもの持つ暴力性が、「超能力」として現れ、その能力を制御するために親の教育が必要である、と整理することが出来る。

…ただ、見終わった後冷静に考えると、「じゃあ、あれは誰が殺したことになるんだろう?」という、タイムトラベル系映画定番の疑問が頭から離れない。

映画『LOOPER』

ノマド・スタディ考。 〜「いつでも・どこでも」学ぶことの陥穽とその対策③〜

4,「スキマ時間」活用としての「いつでも・どこでも」

日本ではいつから「いつでも・どこでも」の学びが呼びかけられるようになったのであろうか。つまり、場所・時間を超えて常に勉強し続ける態度が、いつから賞賛の対象になったのだろうか。
受験生のメンタリティとして、電車の中でも信号待ちの間でも、つねに学習をすることは「良い」ことだとされている。この考え方の先には、「何もしていないことは悪」とされ、イヤホンをつけ「耳から」のヒヤリングや暗記事項を吹き込んだ内容の再確認をすることが称揚される。
現代の「苦学」について、竹内(1991)は「受験のポストモダン化」を述べる。楽しく勉強するということが受験生の間で80年代以降言われるようになったとの指摘である。しかし、それは80年代以前との比較から言えることではないか。受験生のリアリティーに取って、「昔」と「今」の比較は関係がない。必死に学ぶという態度を取り続ける(あるいは演じ続ける)ことが要求されているのではないだろうか。
つまり、竹内の指摘する「苦学の終焉」はあくまで過去と比較した上での概念であって、受験生に取っては常に「苦学」が要求されてきたのではないか、ということである。しかし、当然過去と現在とでは生活水準も文化水準も大きく異なる。単身で上京して専門学校に入り、「大学」への入学に憧れた戦前期の学生の「苦学」と現在の受験生の「苦学」とは全く意味合いは異なる。どちらの時代にも楽に受験をやり過ごそうという態度を取る者はいたであろうし(これは竹内のいう「受験のポストモダン化」の形態である)、その逆に必死になって勉強をするという意味での「苦学」を行うものもいるであろう(竹内の言う「苦学」である)。どちらの時代にも、いろいろなメンタリティの人物は存在したわけである。そのため、「苦学」する者にとって、「苦学」の内容は変わったとしても、「苦学」をしているという意識には共通点があるのではないか。
戦前の「苦学」語りでは「働きながら」ということがつきまとった。あるいは資格試験合格に向け、必死で「頑張る」姿に賞賛が集まった。その姿が現代においてはイヤホンを耳につけてのヒヤリングの実践や、単語カードをめくる姿、「ノマド・ワーキング」のように読み逃した記事をスキマ時間でスマートフォンで読む姿として現れているのである。
本稿でノマド・スタディについて分析を行うのは、現代のノマド・スタディを行う者はかつての受験生の「苦学」のメンタリティと近い場所にいるのではないか、との問題意識からである。「いつでも・どこでも」という非-場所性というものは、ノマド式に拡散するネットワークの概念である。これはツリー状の権力体型からの離脱でありながら、個々人が何の寄る辺もなく常に努力し続けるという能力主義を礼賛する発想でもある。「いつでも・どこでも」学ぶことが自発的であれば問題はない。しかし「いつでも・どこでも」学ぶべきだという規範が成立することは、「いつでも・どこでも」学ぶことを欲しない主体に対し暴力として機能する。だからこそ「苦学」なのである。
一例としては、蒋麗華(2010)『顧客創造「1日15分メモ」』(プレジデント社)がある。これは「日常の仕事時間のなかに、10〜15分の顧客視点で未来志向のポジティブ思考時間を組み込み、リアルタイムにそれを共有していく」(160)マーケティング法を紹介している。ワークシートを用意し、顧客の視点から企業を見直し、よりよいマーケティングを行なうことを志向している。他の文献との違いは、他の文献が自分が「スキマ時間」を有効に使えるようにすることを志向しているのに対し、本書では従業員に「1日15分メモ」を取らせることを志向している点という点が特異なものとなっている。である。
受験生の「苦学」言説は昔も今も変わらない。その中でも人びと(受験生を含む)がハイテク機器たるスマートフォンやi-Padを操作するなかで常に学び続けることが要求される態度は変わらない。人びとは「いつでも・どこでも」学ぶべき、との規範から逃れることが難しくなっている。

ノマド・スタディ考。 〜「いつでも・どこでも」学ぶことの陥穽とその対策②〜

3,「いつでも・どこでも」

「いつでも・どこでも・だれでも」学べる、というのは法政大学 通信教育学部のスローガンである。法政大学は1947年、日本にいて最初の遠隔通信教育を実施する大学となった。
「いつでも」というのは、仕事や家事の合間が含意されている。「どこでも」とは大学所在地でない場所(田舎でも島嶼部でも海外でも)でも学習ができる、ということである。「だれでも」とは入学資格があるものなら専業の学生ではない者でも学べる、という意味である。
この3要素のうち、「いつでも・どこでも」学ぶということを「ノマド・スタディ」と呼ぶことが出来る。机や学校でなくても「いつでも・どこでも」学ぶことを、ドゥルーズ/ガタリの「ノマド」を用いて「ノマド・スタディ」と読んでいく。
「いつでも」とは、ノマド・スタディの場合、24時間どこでも空いている時間に学べるということが示唆され、「どこでも」とは自宅でも通勤電車の中でも喫茶店でも布団の中でも学べるということである。特定の場所で学習をするということではなく、場所性が限りなく消えて行く中での学習である。

逆に考えれば、ノマド・スタディの場合、常に学習を行うことが想定される。その象徴が「スキマ時間の活用」だ。信号待ちや電車内などの貴重な「スキマ時間」を、怠惰に過ごすことは想定されていない。

現代ではインターネットを利用したクラウド・コンピューティングの技術をもとにしたノマド・スタディも多く存在する。しかし、こういった技術ができる以前から、学習者は「いつでも・どこでも」という学習を行ってきていた。

象徴的な例は、受験生がよく使う「単語カード」ないし「情報カード」である。和田(1994)において、分からない問題・覚えるべき内容はカードに転写し、常に持ち歩いて「暗記」してしまうことが想定されている。また高島(2007ほか)においても同様の指摘がある。学習において「スキマ時間」は開拓される対象なのである。常に学習する態度が要求される。中谷彰宏は『大人のためのスピード勉強術』において〈ペンを自分の身辺にばら蒔いておくこと〉をアドバイスする。それはアイデアが降ってきたときにすぐに書き留めるため、であった。これは学習とは少し異なる可能性があるが、広い意味の知的生産ということになる。
現在、各種自己啓発系ハウトゥ本において、学習法に関するものが多く存在する。「耳から」の学習、「大人のための勉強法」と、多く挙げていくことができる。いずれも「いつでも・どこでも」学ぶ態度が賞賛されるものとなっている。

ノマド・スタディ考。 〜「いつでも・どこでも」学ぶことの陥穽とその対策①〜

「ノマドというのはこの本の冒頭でも説明したように、昔は単なる「遊牧民」を意味していました。しかし社会がだんだん固定化され、産業革命を経て人々が工場労働などに携わるようになって自由な生き方が難しくなってくるにつれ、ノマドは別の意味を持つようになっていきました。つまりは自由の象徴、この圧政と隷従の社会からの闘争の象徴としてのノマドなのです」(223-224)
佐々木俊尚, 2009, 『仕事をするのにオフィスはいらない――ノマドワーキングのすすめ』光文社.

1,ノマド・スタディとは何か

「いつでも・どこでも」学べるという記述。この「いつでも・どこでも」という言葉は、ビジネス書における「ノマド・ワーキング」を思い起こさせる。ドゥルーズ/ガタリのリゾームのように、無限に拡散していくイメージの中で、場所性を超えた働き方のことこそ「ノマド・ワーキング」。このイメージでいくと、「いつでも・どこでも」学ぶということは「ノマド・スタディ」と言えるのではないか。本稿では「いつでも・どこでも」の学習を「ノマド・スタディ」と定義し、それが意味する内容の概念化の分析を試みたい。

2,ノマド・ワーキングとは何か

ノマド・スタディについて考えるにあたり、参照枠組みとしてノマド・ワーキングについて考察することにしよう。「ノマド」はドゥルーズ/ガタリが『千のプラトー』において用いた発想である。ツリー型の知・組織のあり方に対し、リゾーム型のあり方を提唱する際、リゾーム型の主体として想定されたものが「ノマド」である。
浅田(1983)もノマド型のあり方をネットワーク構造として析出している。一般化された「ノマド」の概念は黒川紀章がはじめ「ホモ・モーベンス」の概念を用いていたものを、黒川(1989)から使用し始めている。ノマド・ワーキングを謳う各種文献・雑誌から、ノマド・ワーキングの姿を析出することが本節の課題である。

中谷(2010)は佐々木(2009)を引きつつ、「働く場所を自由に選択する移動型の働き方」(中谷 2010: 6)としてノマドワーキングを定義する。具体的には「パソコン片手に街をオフィス代わりに働くというワークスタイル」(中谷 2010: 7)が想定されている。
「ノマドワーキングとは、仕事をする場所と、活動のフィールドを自分で自由に選択するという働き方です。無駄なストレスや時間の浪費をなくし、ネットワークを広げ、仕事の質を高める仕事術といえます。(…)ノマドワーキングは効率マニアの仕事術とは大きく異なります。仕事は、自分の会社の肩書きでオフィスにこもってやらなくてはいけないという常識を捨て、仲間とつながりながら楽しく仕事に向き合う手法なのです」(中谷 2010: 26)。

この「ノマド」という言葉に対し否定的な論者もいる。斉藤(1999)は「人びとは地域・階級・家族・国家など、みずからが帰属する伝統的な組織から根こぎにされ、ばらばらの個人として資本の蓄積過程へと動員されるようになるからである。この浮遊する個人は、もはやおのれのアイデンティティを伝統的な組織への帰属によってたしかめることができない。人びとは自力で自己のルーツをたどり、自己の喪失を自覚し、自己の存在を確かめるように強められる。二〇世紀の動員体制が生み出した最終的な帰結が、このようなノマド的個人であった」(斉藤 1999:255)。斉藤のみるノマド観は、「自由」というノマド・ワーキング論者のそれでなくデラシネ(根無し草)としてグローバリゼーションの世界の中で孤立する個人像であった。

ここまで見たのは「ノマド・ワーキング」への賛成・反対の声である。「いつでも・どこでも」働けることの利点を述べる中谷に対し、斉藤は「ばらばらの個人」に分けられてしまうことの問題点を指摘しているのである。この両者の立て分けは、これから見ていく「ノマド・スタディ」にも当てはまるのか否かを次で見ていく。

ビジネスに「行動観察」を!〜松波晴人『ビジネスマンのための「行動観察」入門』講談社現代新書 2011〜

これ、2013年に読んだ中で久々の当たり本(ある意味当り前)。

行動観察とは「経験を科学すること」(4ページ)。

たとえば、売上の上がらない銭湯。ビールの売上を、カンタンな工夫で59%上げる方法がある。

どうするか?

サウナのテレビの下に、ビールのポスターを貼ればいい(93)。

サウナでは皆、なんとなしにテレビを見る。

その下にビールのポスターがあると、思わず飲みたくなる。

行動観察は、人間の仕草・ふるまいを観察し、そこから新たなヒントを掴む手法なのである。

そのためには観察のほか、社会学や心理学などの知見を行うことが必要なのだ。

行動観察を生かしていくと、たとえば「できるセールスパーソン」のしゃべりや振る舞いを分析し、彼ら/彼女らがコミュニケーションの際に何を行なっているかが見えるようになる。

著者がまとめた「優秀な営業マンと普通の営業マンの違い」(132)はこんな感じ。

 ①優秀な営業マンは、お客さんとのファーストコンタクトを非常に大事にしている

②優秀な営業マンは、自分よりお客さんのほうが話す時間が長い

③優秀な営業マンはは、お客さんをよく観察して、個別のお客さんのニーズに合う提案をする

④優秀な営業マンは、お客さんに何か必ず親切なことをする(132)

他にも、行動観察をすることで、職場のトラブルや人々のコミュニケーションの問題がうまく解決していくことができる、という。

これ、私にとっては非常に「グッと来る」ものである。

社会学をやっていたため、フィールドワークも参与観察も、日常的にやっていた。

文章を書いたり、概念を分析したり。そんなことを常にやってきたので非常に親和性の高い手法である。

特にいいのは「現場」を大事にする点。

現場に行き、「走りながら考える」「考えながら走る」を実践し、

ビジネスに直で役立つ「ソリューション」を出していく(要は実学的、ということ)。

…というわけで2013年はこの手法を学び実践・応用するのを目標としたい、と思っている。

行動観察の鉄則。

 ①必ず現場に行って、人間の行動を観察すること 適切な解釈、よい問題解決法(ソリューション)を得るためには、実態を深く知らなければならない。

②根拠のあるソリューションを提案すること ソリューションは、単なる「勘」で出すのではなく、「こういうことが科学的にわかっているから、この実態はこう解釈される。なのでソリューションはこうしたほうがよい」と論理的に説明できなければならない。(13-14)

 

行動観察をする人間は、最初は現場のプロに学ぶ弟子なのだが、最後はそのノウハウを解き明かして他の人に伝える役割をすることになる。つまり、短期間に弟子から師匠にならなければならない。(85)

この本は隅々まで読み飛ばせないほど、いい「ネタ」に詰まっている。

例えばお金を渡す際に少し手が触れるほうがお客の満足度が上がるなど、「あ、そうだったんだ」という気付きが多かった。

…著者が元・プロ野球選手の古田に似てるなど、「どうでもいい」情報も多いけど。

 

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大越俊夫『6000人を一瞬で変えたひと言②』サンマーク出版 2005年。

不登校の子どもと日常的に関わっている人は「言う内容」が他の人とは異なっている。

日常的に子どもと寄り添い、必要な支援をするため、小難しい理論は使用しない。

「励まし」を日常的に行なっており、ネガティブな発想になりがちな不登校生に元気を引き出している。

学校教員をやっている私のような人間にとって、もっともっとこういった人から学ばねば、と思っている。

『6000人を一瞬で変えたひと言②』の著者・大越俊夫もそんな一人。

神戸や広島・東京などで「師友塾」というフリースクールや通信制高校を行なっている人物。
(…まあ詳しく書いてしまうと私の勤務先のライバル校、ということになるんだけど)

フリースクールのスタッフは、学生ボランティアも含め「たくさん」いる。

でも、大越のように30年も続けられる人はそうはいない。

大部分の人は「生活」や「家族」、あるいは自分のメンタルを持ち崩し、辞めていく。

そんな意味で「同業者」として、尊敬をする。

「不登校して、私を訪ねてくる子どもたちが一瞬にして変われるのは、なぜか。
彼らが一瞬にして変わるのは、ほかでもない本来の「自分」に戻るからだ。
今まで不本意に、「別人」のような生き方を強いられていた彼らが、元の「自分」を見つけたとき、そこには一種、劇的な「変化」が起こる。「自分に戻る」という大変化が起こるのだ。
見も知らぬ「別人」になるのではない。不本意な「別人」から「自分」に帰るだけだから、きっかけさえつかめば一瞬にして変われる。
そして本来の自分に戻ったとき、身も心も安定する。はじめて安堵の表情を浮かべ、どんどん元気になっていく」(6)

「努力して運がつくわけではないが、その運は努力によってしか引き寄せられない。だから、理屈抜きに努力するしかない」(35)

「自分の夢が親に理解されるようになったら、「私もそんなに堕ちたか」と思いなさい」(45)

「人と比べないのは、自信があるからではない。
比べないから、自信が出てくるんだ」(49)

「理解で人は変われない。信じることでしか変われない。人を理解するとか、理解できないとかよく言うが、理解する力なんて、大したことではないのだ」(82)

「人は、人の役に立つことに出会った時にこそ、本当の出番を迎えるのだ」(88)

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