2012年 7月 の投稿一覧

「何かを伝えたい」教員って、無意味では?

よく、「教員になりたがる」人って、多いです。

大体はバックパッカーか何かをして、
「生徒に世界の現状を伝えたい」とか何とか言ったりします。

でもね、生徒は教員を選べないのです。
権力性がすでにあります。

いくら「世界の現状を伝えたい」と言っていたって、
本当に生徒はその内容を「聞きたい!」と思うのでしょうか。

はなはだ、疑問です。

昔の日教組を思い出します。
彼ら/彼女らは、やたらと反戦教育をしたがります。
現在の資本主義批判も露骨にします。
労働者保護を訴えます。

それ自体はいいことです。
ですが、日教組系教員の悪いところは「それだけ」に必死です。
メッセージを「伝えたい!」思いが強烈すぎるのです。
露骨に言うとそれ以外には生徒に伝えなくても、別にいいのです。

別にその生徒は、「反戦」や「資本主義批判」を学びに学校に入ったのではありません。

社会で生きるために必要な知識とスキルを学びに来ているのです。

生徒が学校に求めるのは「高卒」などの資格と、「知識」「スキル」のみです。

それ以外には何も求めておりません(「楽しさ」というのはありますが)。

 

「何かを伝えたい」ために教員を目指す人の危うさは、この辺りにあります。
別にあなたの話なんて、誰も求めていません。

むしろ生徒は「自分」に役立つ知識なりスキルなりを求めているのです。

教員はそのあたりに敏感であるべきです。

 

八百屋に人が行くのは野菜を買うためです。
ところが八百屋さんがやたらにサバを買うように勧めるとお客は困ってしまいます。

「何かを伝えたい」教員は、ともすればサバを勧める八百屋になってしまいます。

生徒が何を望んでいるか。

そこからしか教員の仕事はないように思います。

勝山実『安心ひきこもりライフ』

ひきこもりは「悪」として常に語られる。
「ひきこもってないで、働け」など、世の中の眼差しは厳しい。

でも、ひきこもりの人は「働く」場所が本当に提供されているのだろうか?
本書はその点を問いかける。

ひきこもり歴21年の著者。

筋金入りである。

小気味良い比喩やテンポで「ひきこもり」の良さが伝わる本である。
ひきこもりの人は就職活動をしても、「中卒」や「高校中退」ゆえに排除される。

でも、「働いていない」だけで、世の中は批判する。

大事なのは「ひきこもり」というだけで
「もっと頑張れ」ということの不毛さである。

そうではなく、本書は
「もっとひきこもりを楽しもうよ」と呼びかける。
ひきこもりを楽しむ方法も語られる。

ひきこもりこそ、窮極の省エネゆえ時代の先端であるという
「価値の創造」を行う。

一方的にひきこもり「支援」や
ひきこもり「救済」が語られがちな今、
ひきこもりの持つ「価値」や「楽しさ」を訴える本書は稀有な書である。

「ひきこもり」を充実させ、今を楽しんでいく。

「自分はもうだめじゃないか」というひきこもり者に対し、励ましを贈る本である。

参考:https://pub.ne.jp/shimura/?entry_id=3801319

不登校の「親」の眼差し。

「登校拒否・不登校を考える夏の全国大会」に参加している。

この集まりには、私は大学1年生から参加している。

大学時代は「フリースクールをやりたい」ために参加し、大学院時代は「研究のヒントをもらいたい」から参加していた。

いまは私立通信制高校で働いているため、友好拡大と情報収集と広報のため参加している(なんかだんだん打算的理由になってきている…)。

今日、もっとも印象に残ったのは「父親・母親が語る不登校」というセッション。

自分の子どもが不登校を経験した父・母によるシンポジウムである。

親にとって「不登校」というのは受け入れがたいものとして映る。

そのため、一生懸命「子ども」を変えようとする。

転向させる、医療機関に連れていく、などなど。

しかし、重要なのは「保護者自体が変わること」なのだ、と述べていた。

親が自分の子どもを受け止めること。

そして認めていくこと。

彼/彼女がなぜ「不登校」を選択したのか、その理由を受け止めていくこと。

その上で、「いま」を充実させていけるよう、「いま」を楽しむこと。

不登校を契機に、子どもも親も人間的成長できるのは、素晴らしいこと。

そんなことを学んだ。

「こう生きなければならない」という思い込みを捨てて見ること。

そうすることで学べることは多くある。

まさに「不登校は文化の森の入り口」なのである。

大学時代の…

最近、学生団体の運営に携わっている人とよく話す機会がある。

その方と話すに連れ、自分の大学生時代の記憶がフッと浮かんでくる。

大学時代の私は、4つのことをしていた。

1つは高校の寮のボランティア(これ、今思うと相当ハードでした)。

2つ目は講演会サークル。

3つ目はバイト(出版社のアルバイト)。

4つ目は教育について考えること(図書館、各種学校や団体への訪問などなど)。

1つ目と2つ目は、私に「組織」に関する知見を提供してくれた。

ネガティブな面もかなりあるが、ポジティブな面ももちろんある。

よく「変わってますね」「変ですね」と呼ばれることが多い私は、
なかなか組織の中で「やっていく」のがすごく苦手だった。

だんだん組織に多く関わるにつれて、組織にコメントすることも出来るようになったが、どうも折り合いがうまくつかないことが多かった。

しかし、私は「逃げる」ことはいけないことだと思い、しつこく行き続けた。
それはなかなか「しんどい」ことだが、得られたものは本当にその「しんどさ」を投資するに値するものであったか、いささか疑問であった。

その頃の私は、「参加している組織に関わり続け、少しずつ変えていく」方法論を取っていた。

この方法論は、うまく行くと組織と自己の関係性を両立させるということが取れるものである。

でも、逆に言えば「両立できない」場合は必ず組織とぶつかるというデメリットがある。

私は同じ組織に4年関わり続けた。
組織の辛さを実感していたが、「逃げ」ないでやっていた。

頑張ったつもりではある。
かなり自分の時間を「投資」した。

しかし、これらの組織から得たものは本当に「投資」を回収するだけのものだったのだろうか?

この疑問が残り続けている。

むろん、楽しい思い出も、
いろんな人と関わった喜びもたくさんあった。
感動の涙を流したこともある。

でも、いまだに私は組織への投資分を回収できたかどうか、疑問を感じている。

なぜ私はそう感じるのか?

その理由はただひとつ。
私が、過剰に/一方的に組織への過剰な思い入れを持ち続けていたため」である。

本当なら、私は「組織」以外のものでも自分を保つ空間や「場」を作る努力をもっと行うべきであったのだ。

本当なら、いくつかの「組織」への参加にこだわらず、もっと複数/多数の関係性を作る努力をすべきであったのだ。

この努力を怠っていたために、「組織」への一方的/独善的な思い入れを行い続け、最終的には「私の投資分を回収できていない」実感につながっていたのだろう。

依存的な関係性は、あまりうまくいかない。
これは個人のみならず、組織に対しても当てはまる。
(勝間和代の『まじめの罠』でもある)

今後の自分の生き方も含めての、結論。

1,ある組織への過剰な思い入れをやめる。

2,いろいろな組織・団体・ひと・場所に移動し、「自分」を形作り続ける努力をする。

3,いろんな組織・個人を見ながら、自分にとって居心地のいい組織・コミュニティを「作る」努力をしていく。

…そういうことに思い至った。

https://www.amazon.co.jp/gp/product/4334036465/ref=as_li_qf_sp_asin_il_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4334036465&linkCode=as2&tag=ishidahajime-22

【イベント】「逃げ」の哲学!

【Link Next×日本ノマドエジュケーション協会 コラボ企画第1弾】

「逃げ」の哲学!

~今まで逃げてきたことって、何ですか?~

今まで、あなたは何かから「逃げた」ことって、ありますか?

世間では「逃げずに頑張れ!」と言われることが多い今日このごろ。

けどホントに「逃げずに頑張る」事だけが正しいんでしょうか?

巷で話題のいじめ自殺の話は、もしかしたら「逃げずに頑張る」ことしか選択肢が見つからなかった結果だったのかもしれません。

逃げずに頑張る事は大切かもしれない。

けれど選択肢が一つしかないわけじゃない。

教育のリアルと向き合う視点から、日本ノマド・エジュケーション協会代表の藤本研一が、若者のリアルと向き合う視点から、Link Next代表 田中耕平が、

それぞれの目線から問題提起し、参加者の皆さんと「逃げ」についての考え方を深めていく。

そんなトークイベントを実施します。

詳細は以下のとおりです。

ぜひお気軽にご参加ください。

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・日程:2012年8月12日(日)18:00-20:00

・開場:Link Next(大谷地駅徒歩3分)
(住所:札幌市厚別区大谷地東3丁目1-1シンエー大谷地ビル2F https://goo.gl/maps/JDa3

・参加料:開場料として500円(ほかに持込1品をお願いいたします)

・主催:Link Next(https://linknext.iinaa.net/

・共催:日本ノマド・エジュケーション協会(https://nomad-edu.net

・お申込み先:

日本ノマド・エジュケーション協会 info@nomad-edu.net

☆ご参加希望の方は、タイトルに「逃げの哲学」とご記名の上、

①お名前 ②メールアドレス ③ご所属 をご記入ください。

ご応募、よろしくお願い致します!

【イベントのお知らせ】私立通信制高校のリアル。 〜「休み時間に職員室の僕の机が生徒に占領されるんですよ!」〜

ふだん、札幌で教員として仕事をしています。

来月8/17(金)、東京でイベントを行おうと思っております。

題して「私立通信制高校のリアル。」。
教育会では全く知られていないのに、「生徒」を本当に大切にする学校、
「私立通信制高校」の魅力をぞんぶんにお伝え致します!

お申込みはhttps://kokucheese.com/event/index/45899/まで!

ご応募お待ちしております!

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登校は週に2日。

毎週毎週、何かのイベント。

校則・制服、一切なし。

 

不登校経験があっても、

学習障害があっても、

ちゃんと登校できる。

 

いじめが極端に少なく、

教員と生徒の距離が近い。

 

ゲーム機も持ち込み可能で、

他の専門学校とのダブルスクールもOK。

 

同じ校舎内で大学生も学んでいて、

 

 

職員室は、ハッキリ言って「生徒室」。

食事もゲームも職員室で行えます。

 

…そんなフシギで「学校らしくない学校」のリアリティ、

知りたくはありませんか?

 

東京・水道橋で「学校らしくない学校」を知る90分!

ぜひお気軽にお越しくださいね!

 

講師ははるばる札幌からやってきます!

彼の飛行機代は大丈夫なのでしょうか?

 

彼の救済のためにも、きていただくとありがたいです。

 

以下は詳細です。

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私立通信制高校のリアル。

〜「休み時間に職員室の僕の机が生徒に占領されるんですよ!」〜

 

【日時】:2012年8月17日(金)18:30-20:00

 

【場所】:ネコワーキング(東京都・JR水道橋駅徒歩5分)

※詳細は以下参照。

 

【講師】:藤本研一(私立通信制高校教員)

 

【主催】:日本ノマド・エジュケーション協会

 

【参加料】:一般参加1000円(会場利用料として)

 

【問い合わせ先】:日本ノマド・エジュケーション協会

info@nomad-edu.net

【お申込み先】https://kokucheese.com/event/index/45899/

☆会場について…

住所:東京都千代田区三崎町3-10-5原島第三ビル202

(JR水道橋駅西口出口より徒歩2分)

 

●ネコワーキングへの行き方:

①JR水道橋駅西口改札を出て左ナナメ前方に向かいます。

②パチンコ屋がカドにある交差点があります。

まず道を渡り、パチンコ屋を左手にしながらまっすぐ進みます。

するとファミリーマートがある交差点がすぐ見えます。

その交差点を左に曲がります。

③「東京アニメーター学院」の前を通り過ぎると、

左手の側に立体駐車場があります。

その道向かいにある「原島第二・三ビル」の2階がネコワーキングです。

(当日は看板が出ます)。

 

*ネコワーキングについてはhttps://necoworking.com/ をご参照ください。

*大変場所がわかりにくいので、不明な際は090-5046-2446まで

お気軽にご連絡ください。

 

長田弘『読書からはじまる』NHKライブラリー(2006)

「経験というのは、かならず言葉を求めます。経験したというだけでは、経験はまだ経験にはならない。経験を言葉にして、はじめてそれは言葉をもつ経験になる。経験したかどうかでなく、経験したことも、経験しなかったことさえも、自分の言葉にできれば、自分のなかにのこる。逆に言えば、言葉にできない経験はのこらないのです」(157-158)

松下幸之助は「百聞百見は一験に如かず」との名言を残している。

単に目で読んだり、耳で聞いたりしただけでは「情報」に過ぎない。

それを「知恵」に変えるのが「一験」、つまり自分で実際にやってみるという事である。

しかし、この「経験」も、言葉にすることができないと無意味であると長田はいう。

言葉にする、つまり言語化するということは自分の中で「納得」する・「腑に落ちる」ということが必要となる。

言語によって振り返りを行うことで、普遍的なルールを学習することが出来るのである。

長田の言葉は「言葉にできない経験はのこらない」と続く。

言葉を豊かにする、つまり読書や学習で自分の触れる言葉を多くすることで、より多くを気づけるようになるのである。

また、同じ経験から多くを学べるようになる。

 

よく「経験」か「知識」か、という不毛な対立関係が教育界で議論されている。

重要なのは単なる「経験」も、単なる「知識」も、役には立たないということだ。

バランスよく、「両方」を提供できるなら、それが一番の解決策となる。

 

言葉を豊かにすることについて、長田は次のように述べる。

「読書というのは、実を言うと、本を読むということではありません。読書というのは、みずから言葉と付きあうということです。みずから言葉と付きあって、わたしたちはわたしたち自身の記憶というものを確かにしてきました」(182-183)

「みずから言葉と付きあう」読書は、自分のなかに言葉を「育てる」ことでもある。

「簡単に言ってしまえば、読書というのは「育てる」文化なのです。対して、情報というのは本質的に「分ける」文化です」(197)

こういった言葉を「育てる」行為全体が「読書」なのである。

「すべて読書からはじまる。本を読むことが、読書なのではありません。自分の心のなかに失いたくない言葉の蓄え場所をつくりだすのが、読書です」(214)

私立通信制高校のリアル④(非日常としての学校論)

先日は「なぜ私の学校でいじめが起こりにくいか」をご説明しました。

昨日は「コミュニケーションを人は求めるため、【圧倒的多数がみんないろいろ違いすぎている】状態ではそもそもいじめによってコミュニケーションする相手を減らすことはしない」という動機になると説明しました。

実はもっと本質的な理由があるのです。

それは・・・

登校日数が圧倒的に少ないため

です。

たとえば通学コースでは、週に2度の登校で
単位が取得できます。
卒業ができます。
きちんと高卒資格が取れます。

通信添削コースでは月に2度ほどの登校で済みます。

授業時間がめちゃくちゃ少ないです。

そうなると、学校にいくのは「日常」ではありません。

学校にいくのは「非日常」です。

ハレの日です。

その日しか会えない「仲間」と会える日です。

いじめは「毎日、無理やり、同じ人と、同じ場所に、ずっと」一緒にいることで起きます(またしても『いじめの構造』のお話です)。

私立通信制高校である私の学校は違います。
「週二回、嫌なら休めて、同じ人と、違う場所で、たまに」いる環境です。

たまにしか会えない人をいじめて、何か楽しいことってあるでしょうか?
また、仮にどうしようもなく嫌な人がいても 「週二回だからいいか」と案外軽く相手を「認めて」しまうのです。

つまり、私立通信制高校は学校が「非日常」なのです。
クラスメートと過ごすのはハレの日なのです。

だからこそ、相手を互いに認め合うモチベーションが生まれるのではないか。
それゆえにいじめが発生しにくいのではないか。

私はこう考えるのです。

私立通信制高校のリアル③(いじめ論として)

私も最近気づいた点ですが、私の学校に来る生徒の半数ほどは
「元不登校」です。

学校が合わないため、あるいは学校が何も対応をしないため、
不登校になった生徒です。

いじめられていた生徒もいます。
特性が強すぎて学校が「相手にしなかった」生徒もいます。

ですが、私の学校には「通えている」のです。

私の学校の自慢には「いじめが少ない」ということがあります。
大津の話を見るたび、この点は最大限に強調したいと思います。

人数が多くない分、生徒がいろんな生徒・教員と関わります。
特性が強い生徒もいるぶん、「自分らしさ」をごく簡単に出せます。

通常、高校は「偏差値」で輪切りになります。
そのため、話題や境遇はかなり近いものになります。
話しやすい反面、ちょっとでも周りと違うと「あいつ違うよね」といじめの原因になることがあります。

「みんな一緒だよね」という同調圧力が強いぶん、個性を出せないのです。
(内藤朝雄さんの『いじめの構造』では、クラスという「中間集団全体主義」 の強い環境がいじめを誘発する、と言います)

私の学校は違います。
ハッキリ言っていいのか悩みますが、
特定の教科がおそろしく出来る生徒もいる反面、
学習のハンデを持っている生徒もいます。

境遇も、不登校・高校中退・転入などなど、いろんなルートで入学してきています。
「みんな一緒」という空気はほとんどありません。

だからこそ、皆自分を出せます。

毎日、制服で来る生徒もいます。
コスプレで登校する生徒もいます(電車にどうやって乗ったのか、疑問ですが)。
専門学校に行きながらダブルスクールで来ている生徒もいます。

札幌の学校ですが、毎日特急に乗ってくる生徒もいます。
(石川や東北から来ていた生徒もいます)

多様すぎてよくわからなくなります。
だからこそ、皆カンタンに自己を出せるのです。

違いすぎると、いじめる必要はありません。
逆に共通点を捜すよう努力するようになります。

いじめられる要素も特にありません。
なぜなら違いすぎるため、いじめても(おそらく)面白くないからでしょう。
いじめはいじめられる側・いじめる側の違いが近いほど起こりやすいのです。

あるいは、いじめられる側が圧倒的少数で、いじめる側が圧倒的多数の場合に起こりやすいです。
(先ほどの「中間集団全体主義」です)

いじめの「きっかけ」というか「言い訳」は、大体「少しトロい」や「ちょっと変わっている」という点です。「少し」や「ちょっと」を理由にされるわけです。

圧倒的少数の人が「違っている」場合も、いじめの理由になります。

しかし。
うちのように「圧倒的多数」が皆「違っている」状況では、
「話せる友人」を作るには「違っている」人と話すことが必要です。

そんな状態ではいじめをする動機は非常に下がります。
誰だって、孤立したくありません。

いやでも「コミュニケーションをとりたい」という人間の本源的欲求ゆえに、
周りと交流・社交するようになります。

だからこそ、私の学校ではいじめは起こりにくいです。

つまり、「コミュニケーションを人は求めるため、【圧倒的多数がみんないろいろ違いすぎている】状態ではそもそもいじめによってコミュニケーションする相手を減らすことはしない」という動機が起こるのです。

実はもっと本質的な理由があるのですが、それはまた明日!

(続きます)