2012年 5月 の投稿一覧

好きを仕事にすること批判。

さいきん、職業柄、高校生と話すことが多いです。

「趣味を職業にする」ということを目指す人が多いことに、

自分自身「あこがれ」を感じています。

ですが同時に「あやうさ」も感じています。

私も高校生の頃は好きな事を仕事にしよう、と思っていました。

実際、この夢は半分叶い、半分は違うような気がします。

なぜなら、高校時代の自分って、いまの自分とは全然違うからです。

人は自分が思うほどの人ではないです。

それはプラスの面でもマイナス面でもそうです。

高校時代の「私って、こんな人」

「私はこれが好き」というのは

あんまりあてになりません。

だって、人は日々変わり続けているのですから。

「好きを仕事にする」というのは、たしかに重要なことです。

でも、「いま好きなこと」は本当に「将来も好きなこと」かはわかりません。

大事なのはいつも何かにチャレンジし続ける姿勢です。

それは別に好きな事でも、好きじゃないことでもいいです。

「自分はこれが好きだから、ほかはやらない」ということほど、もったいないことはないのです。

ヒロベンのすすめ

不登校のお子さんや通信制高校で学ぶ生徒さんの場合、自由な時間がたくさんあります。子どもである時間は、意外に短いものです。その時間の中で自分の「好き」を極めてほしいな、と思います。
自分が興味のあることは、なんでもやってみる。そうすると色々な物が見えるようになってきます。好きなものをやるということは「広い意味での勉強」、つまり「ヒロベン」です。

「ヒロベン」は奥地圭子さんの『不登校という生き方』で提案された生き方です。大学生の頃の私の学習観を大きく変えてくれた発想です。

学問をやってわかることは、すべてのもの・こと・知識はつながり合っている、という事実。遊びの中で見つけたものと、本の中で知った知識とがつながると面白いですね!

私は先日、北大植物園にいきました。「こんなにいろんな種類の植物があるのだな」という気づきを得ました。植物の世界の深さについて知ったわけです。これも「ヒロベン」ですね。

『不登校という生き方』

 

教員がやりがちな10のあやまち

自戒の意味も込めて、教員がやりがちなあやまちについて、

まとめたいと思います。

(画像はhttps://sozaidas.com/122illust05.htmlより)

1,自分のことを「先生は…」と自称する

2,一人ひとりを見ず、やたら「みんな」とか「一緒に」という言葉を使いたがる

3,「忙しい」を口ぐせにして、生徒の方を見ない

4,教育について熱弁するわりに、実践に活かされない

5,税金で食わせてもらっている自覚がない

6,5のわりに、ありえないほど悪い紙質の紙で「お知らせ」を出す

7,教える内容に飽きている

8,教員免許をとったくらいでその分野の「専門家」を自称する

9,自作プリントには必ず誤字脱字がある

10,勉強しない

ちなみに一番問題なのは10です。

教育・情報伝達における属人的要素

情報はいくらでもある。

でも、その人独自の語り口・雰囲気はネットでは与えられない。
必要なのは演劇性。
即興性というドラマの可能性。
方言・雰囲気という属人的要素が今後必要になる。

日本ノマド・エジュケーション協会の狙いは、こういった属人的要素の復権にある。

【数学コラム】途中式を省略しないということ

 今年、ある高校で数学の授業を担当しております。回答を見ていると、途中式を書かないで計算している人を多く見ます(途中式とは計算をおこなう際に書く式のことです)。

 例えば2(4x+1)-5(2x-5)を考えてみましょう。そのまま答えを出そうとすると、すごく難しいです。マイナス・プラスの符号を間違えやすいためです。

そのため、一度「=8x+2-10x+25」と書いてから計算すると、スムーズに-2x+27という正解を求めることができます。有名な数学者・科学者のなかにも、わかりきった計算にさえも途中式をすべて書いていく人が多くおります。

これって、数学に限らないことだと思います。

なにか問題に出会った際、途中式を書かないで正解を出すって、すごく難しいことです。どこから手をつけていいかわからない上に、計算上のミスもたくさん起きてしまいます。

ですが、途中式を書くと自分が今やっていることが何か、よくわかります。何を自分がやるべきか、どこまで自分は理解しているか、はっきりと見えるようになります。

「数学なんて、なんの役にも立たないよ」ということを考えている人もいらっしゃるかもしれません。確かに、数学それ自体としては「計算能力」くらいしか役には立ちません。ですが「人生における問題をいかに解くか」を考える際、数学の考え方は役に立つと(少なくとも)私は考えております。

例えば就職試験を受ける際がそうです。就職するのは、はっきりいって楽ではありません。その現実を見た時、途中式を省略していると「ああ、無理だ」と思ってしまいます。ですが途中式を省略せず、少しずつ問題を解こうと紙に書いていくと、あんがい問題を解くヒントが得られるものです。就職という問題を解くために、まずは会社訪問に行くという途中式が必要なこともあります。面接の練習をするという途中式も必要になります。

何か問題を解いていく際、「自分には一体どんな力が必要なのか」、考える習慣を持ちたいですね。それが「途中式を省略しない」ということにつながります。

追記

余談ですが、人間は頭よりも手のほうが発達している生物でもあります。アイデアが出ない時、人生の壁にぶつかった時、手元にノートを用意してみて下さい。自分の思っていること・自分の悩み・自分の困っていることをすべて書いていきます。そうやっている中で、「あ、これってああすれば問題が解決するじゃん」と気づいてしまうことがあります。

悩みの途中の過程を省略せず紙に書いていく。まさに「途中式を省略しない」ということです。

ぜひやってみてくださいね!

アラン『アラン教育随筆』橋田和道訳, 論創社, 1999。

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アラン『アラン教育随筆』橋田和道訳, 論創社, 1999。

アランは私の最も好きな哲学者である。

なにより、直接的なのがいい。
「疲れた時に、その理由を考えたりするのではなく、
まず伸びをしよう」
「不幸につながる考えはすべて間違った考えである」
「まず自分が幸せになろう」
読んでいて元気になる哲学書はあまりない。
『アラン教育随筆』はアランの教育に関する
エッセイ(=プロポ)をまとめたもの。
なかなか勉強になる箴言が多い。
「何かを知っているという場合、大変な不都合がある。もうそれを学べないからだ。何かの定理が証明されている場合、大変な不都合がある。もう自信を持ってそれを推理できなくなるからだ」(20)
「教養人の力の一つは、完全に忘れるということだ。身ぎれいにし、沐浴し、汚れを落とす。あらゆる教養人には、つむじ曲がりのところがある。つむじ曲がりのところと気骨とがある。くどくど考えようとはしない。彼は歩く。そしてまだ繁っていない葉のあいだを月が一緒に走るのを見る。ここに彼の天文学書がある」(29)
→教養人は事物からものを考える。
何か書物だけでものごとを判断する人ではない。
「良心(カンシャンス)は決してためらわない」(45)
「どうやらここに、つぶさなければならない偏見がある。それは、教育があれば当然地位が約束されるべきだ、というものだ。一体、学問とは、どういうふうに理解されているのだろうか(…)学問は、それ自体によっても、万人にとってもいいものであり、また万人の手に届くところにあり、常識が培われたものに過ぎない、という考えがもてるまでにならなければならないだろう」(48)
→昨日書いた、生涯学習に関しての論考に関係のある点である。
「道徳的生活にはいるとは、まさに規則から解放され、自分自身で判断し、結局は自分にしか従わないことだ。ですから教育は、道徳がなくても、教育のない道徳より道徳的なのであります」(53)
「音楽も、聞くだけにとどまっていて全く歌わないなら、喜びはほとんど得られない。だからある知恵者は、音楽とは耳でなく喉で味わう、と言った」(124)
「まず幸せになれ、とはかの賢人が言うとおりである。なぜなら幸せは、平和の果実として得られるものではないからだ。幸せこそ平和そのものなのだ」(129)
「ばかとは、人の意を迎えるために自分の考えを変える者だ。ばかとは、意見を流行のコートのように着ける者だ。ばかとは、いやいやながら好きになろうとする者だ」(261)
「負けるな、そこからはい上がれ、自分自身を助けよ、人には自分自身を助ける力があると信じろ。その証明は試練しかあり得ない。最初の努力と最初の成功によって自信が生まれるだろう。意欲を積み重ねれば、意欲の持ち方を知るだろう」(272)
「幸福はいつも逃げ去る、と言われる。これはもらいものの幸福についてなら正しい。なぜなら、もらいものの幸福なんてないからだ。だが自分で得る幸福は本物だ。それは学ぶことだ。そして人は常に学ぶ。知るほどに、ますます学ぶことができる」(125)
私が気になるのは、アランが経験学習や実物教授を批判している点である。
そのロジックが、あんまり理解できない。
「自分で経験する」ことの大事さをアラン自身も重視しているからだ。
おそらく経験で終わってしまう「はいまわる経験主義」批判をしているのだろう。
「経験は、絶えず正義を否定するからだ。一体だれが金持ちになるのか。一体だれが征服するのか。一体だれが近代式の学校を建てるのか。それは、不平等に賭け、このこと自体によって勝った者と決っている」(267)
この点は、経験主義の学校が金持ちのためのものになってしまう点に近い。
109ページのところで、経験学習ははじめの一歩としてのみ、役立つと述べている。
それはあくまで入り口であり、地球や科学法則については経験では学べない、ということを述べている。
経験のみでなく、想像についても批判的だ。
「なぜなら、実際、経験は万人に降り注ぎ皆が等しく濡らされるが、皆が等しく学ぶわけではないからだ。人間らしい心の仕事は、そういう物を考え直すことにあるのであって、光り輝くものとか燃え上がるものとかだけを見つめることではない。これは犬猫には決してやれないことである。犬猫は想像のみで生きる」(110)
アランの経験主義批判について、どなたかお教え下さいませ。

働くことと学ぶこと

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働くことと学ぶこと

実際に働くようになってから、

中谷彰宏さんだとか
本田健さんだとかの書いた
勉強本の「すごさ」がわかるようになりました。
彼ら自己啓発本の著者たちは
「社会人こそ勉強しなければならない」
といいます。
学生時代、「ああ、そうだな」と軽く読んでいました。
ですが、社会人になってからこのメッセージの重要性と困難さに
改めて気づきました。
昨年度、私は通信制大学について研究していました。
通信制大学で学ぶ人たちは
「仕事と勉強の両立」を口にします。
この「困難さ」を乗り越えるため、
学生会組織などを作り、相互に励まし合うわけです。
この4月から、通信制大学に学ぶ人達の「気持ち」が若干分かるようになりました。
仕事で疲れた後、「勉強」できるのは
すごいことなのだと気づきます。

大学院生時代、教員をしながら博士課程・修士課程で学んでいる人を
何人も見ました。

そういった方々の「すごさ」を改めて実感しています。

社会人になって1ヶ月。
ゴールデンウィークは自分のこの1ヶ月の経験を再帰的に振り返る
よい機会となりました。
ただ、通信制で学び人が言いがちな「仕事と勉強の両立」という言葉。
これを述べる必然性は必ずしもないように思います。
なぜなら、通信制大学での学びや社会に出てからの学びは、
すべて「自分」の意志で決めているものだからです。
別に誰も「両立してくれ」といっているわけではありません
(来年度も雇ってもらうため、教員免許の教科を増やす教員などは除きます)。
自分でやった「決断」によって「両立」を余儀なくされるというのは、
学びが「義務」「苦痛」という思い込み(ドクサ)を捨て切れていない点からきているように思われます。
別に誰も「仕事と勉強の両立」なんか、求めていません。
そのほうがいい仕事ができるようになり、
いい生き方ができるようになり、
人生を楽しく生きれるようになるための「選択」であるはずだからです。

月寒の温泉

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月寒の温泉

月寒中央駅まで行き、
月寒温泉・緑の湯にいます。

https://homepage3.nifty.com/yu-meguri/tennpo/midori_.htm

札幌駅から地下鉄東豊線ですぐいける場所にある温泉。
札幌ってすごいなあ、と思います。
(ただ、駅からは歩いて25分ほどかかりました)
札幌はいまが桜の季節。
ゴールデンウィークに桜を見ながら露天風呂に入れる。
最高ですね。
おまけに雨が降る中入る露天も
趣きがあります(今日は雨です)。
今日、緑の湯には私のように
「ゴールデンウィークをどう過ごしていいかわからない」人や
親子連れが多くきております。
昔から私は温泉が好きでした。
自分の所有物を一度形式的に捨ててからでないと
温泉に入れない、という点に心が惹かれているのでしょうか。
温泉には身一つでしか入れない。
そんなシンプル・ライフへのあこがれが私にはあります。

『24時間先生 大丈夫。俺がそこから出してやる』荒井裕司, 2004, メディアファクトリー。

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『24時間先生 大丈夫。俺がそこから出してやる』荒井裕司, 2004, メディアファクトリー。

東京国際学園高等部 校長の物語。

荒井は”夕方6時までは校長、6時からは先生”として、
引きこもりの子どもの家をクルマで訪問する。
そして彼らとコミュニケーションを取る中で、
社会とかかわるためのきっかけを提供する。
自分の経営する学校やフリースクールに入れることが目的ではない。
純粋に引きこもりの子どもと関わるのが「楽しい」から、
関東中をクルマで走り回る生活を20年も続けている、という。
こういった純粋贈与を行なっている「教育者」を見ると、
「自分はまだまだだなあ」という戒めを受け取る事が出来る。
「受け皿となる学校は作ったが、それで仕事は終わりではなかった。
 ひきこもり、不登校の子どもたちは、目の前にいるわけではないのだ。夜、繁華街のクラブやカラオケボックス、ゲームセンターで会えるわけでもない。当然、学校や教室にいることもない。
 救うべき子どもたちの姿は見えず、救いを求める声は聞こえないのだ。/
 ならば、どうするか? こちらから行く」(121-122)
 ノマド・エジュケーションの本領発揮である。