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斎藤喜博, 1963, 『私の教師論』

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斎藤喜博, 1963, 『私の教師論』

ストイックな教師像が強い本である。

●求道者としての教師像
本書の冒頭も次の内容から始まる。
「自分の子どもは教師にはさせたくない。それは、教師の仕事が、画家や小説家や将棋さしの仕事と同じに、絶えざる創造を積み上げない限り、決してできるものではないということをよく知っているからだ。教育が芸術とにていることは、そのどちらもが、「創造」と、「質の高さ」を要求しているということを知っているからだ」(7)

まさに求道者。
「教師修業は果てがない」のである。
「仕事をすることによって傷を受けないような教師の仕事などあるはずがない。教育の仕事はどこまでも、仕事をしては自ら傷つき、仕事の結果に復讐され、それに堪えながら、歯を喰いしばり自分をむちうって、業のように仕事を続けていかなければならないものである。そして倒れていかなければならないものである。自分をいつわっている偽善的な仕事や、何のうたがいも何の挫折をないままに、事務的形式的にやる仕事からは、自分や子どもの上に、新しいものをつくり出すような仕事など、決して生まれてこないからである」(11)
道を求めるのは、斎藤喜博自身が歌人であり、
土屋文明に30年以上も師事しているということが大きいのだろう。
師を求めないとなあ、と思う。
こういう熱い教育論は、
疲れた教員にヤル気を引き起こすリポビタンDの
働きをする。
「教育は無力であり、教師の仕事は、はかない孤独な仕事である。しかし教師が、そういうはかなさを知り、無力さを知り、教師の孤独さを知ったとき、そこに新しい力が生まれてくる。そこには、思いあがりもなくなり、ムード的なものもなくなり、へんな政治主義もなくなり、教師特有の、うわついた無力感、絶望感もなくなってくる。そして、そういうところから出た教師の仕事は、はかなさを知らず、無力さを知らず、孤独さを知らないでやった場合とは、ぜんぜん異質な強いものになってくる」(13)
「教師は、恥をかき傷つきながら成長し、自分の人間や実践を太らせていくものである。だから、恥をかき、傷を多く受ければ受けるほど、教師としての人間も実践も大きくなり深くたたえたものになっていくし、そうしていかなければならないものである。それが、自分自身の実践での格闘によって受けるものであろうと、仲間との格闘によって受けるものであろうと、子どもから受けるものであろうと、いわれなき他からの悪罵や中傷によって受けるものであろうと、教師はまともにその傷を受け、満身傷だらけになりながら、不死鳥のように再生して立ち上がり、さらに高い実践へと切り込んでいかなければならないものである」(57)
●戦う教師像
「教育は、教師と子どもの苦悶と苦悶の衝突のなかに生まれてくるものである。しかもその苦悶の衝突は、授業展開のすじみちのなかに起こってくるものである。そして授業展開のなかで苦悶と苦悶の衝突が激しく起こるためには、教師の人間全体の大きく豊かな力が必要になってくる。教師に知識とか感覚とか解釈力とか人間の豊かな幅とかがあればあるほど、その教師は、授業展開のなかで、教材や子どもと激しい衝突を呼び起こし、授業を振幅の大きなものにし、そのことによって子どもを変革させ、新しい人間像をそのときどきに創り出すことができる」(25)
「教師の仕事は、創造の仕事であるとともに、一面、勝負師的なところのある仕事でもある。教師の仕事は、一時間の授業のなかで、つぎつぎと新鮮な創造を生み出していかなければならないのだが、そういう創造は、はげしい格闘のなかからしか生み出すことはできないからである。教材とか子どもとかの相手のあるなかで、自分とたたかい、教材とたたかい、子どもとたたかうなかからだけ、新鮮な創造を生み出すことができるからである」(34)
よい実践のため、組合とも行政とも、校内の教員や保護者とも、また自分自身とも「戦う教師」の姿勢が、
斎藤喜博には溢れている。
●具体的事実を基にする教師
「みんなで事実を見つけ合い、事実によって自分や仲間を変える努力をしていかなければならない。事実によって指摘し合い、懸命に自分や仲間を変えていく以外に、人間は自分を変え、自分の実践を変えていくことはできないからだ」(53)
教師が抽象的な言葉・あいまいな言葉で話しがちであることも指摘する。
それでは子どもが混乱をするし、
なにより実践を反省的に振り返ることができなくなってしまう。
人を褒めるときも、具体的事実に基づいて褒めるのが鉄則である、といろんな書物に出ている。
悩みも、できるだけ具体的な方がいい。
(例 ✕なんで不幸なんだろう ◯働き過ぎで肩こりがひどい。どこかで肩こりを治せる場所はないだろうか)
●実践者としての教師
「すぐれた実践は結果的に運動になるものだ。運動論を先に立て、運動だけをしているのは実践者のやることではない。実践者は実践に思いをひそめ、傷つき苦しみながら自分の実践をつくり出せばよい。もしそれがほんとうによいものだったら、その実践が運動を起こしていく」(61)
●驚ける教師
「私は「驚ける」ということは、人間としてもそうだが、とくに教師としては一つの重要な資質を持っているということになるのだと思っている。それは、驚いたり、たまげたりしないということは、その人間が、自然とか人間とかが持っている大きさとか、そのときどきにつくり出している美しさとかに驚かないということだからである」(69)
●「その場」の実践に全力を傾ける教師像
「「中学に行ってどうなるか」とか、「社会へ出てどうなるか」ということを考えないで、いま目の前にいる子どもの上に、瞬間瞬間の美しいものを創り出していくことができるのである。それをしないで、「中学に行ってから」とか「社会に出てから」とかいうことを言っていることは、逆にいえばずるいことにもなる。自分のいまの仕事に全力をかたむけ、そこで証明することをさけているということにもなる。そういうきびしい仕事をしていかないということになる」(171)
教員としての「仕事」を考える上で、
非常に示唆に富む本である。
しかし、本書後半ははっきり言ってだれてくる。
それは後半部分で斎藤喜博が校長を務める
島小の見学者のマナーの悪さ・意地の汚さを
「具体的事実」を挙げて(届いた手紙の引用もする)、
指摘している箇所がだらだら続くからだ。
そのため、同じ教員を目指すものとして、
だんだん読むのが辛くなる。
嫌われるのを覚悟で、
教員としての人間的成長の重要性を斎藤喜博は伝えようとしているのだなあ、と思う。

チクセントミハイ, 2003,『フロー体験とグッドビジネス 仕事と生きがい』大森弘監訳、世界思想社、2008。

2/4に早稲田で行われたシティズンシップ教育のシンポジウムの運営を行った。
 運営の統括として、司会にキュー出し・机配置の指示など、イベント運営の中心者の仕事であった。
 バタバタはしていたけれど、うまくイベントとして終了させることが出来た。
 その「過程」がとてつもなく充実していたことを覚えている。

 このことは、チクセントミハイがいうところの「フロー体験」である。
 イベントの運営に集中し、時間感覚が狂う体験。
 頭や神経を使うけれど、なぜかワクワクしている感覚。
 通常以上の集中力を発揮する場。
 これらをまとめて「フロー体験」と呼んでいる。
 
 また、仕事それ自体が「報酬」であるという考え方も「フロー」である。
(中谷彰宏の本のテーゼでもある)

以前私は、ブログのなかで
時間というものを失念するという「現在経験」を
誘発するものほどよい「教育」であり「学び」である、
と述べた。https://zaggas379.blogspot.com/2011/09/blog-post_06.html

チクセントミハイの述べる「フロー体験」についてを
私が記していたわけである。
大森荘蔵の「現在経験」を内面的に見た場合、
「フロー体験」と述べることが可能ではないか、と考えられる。

「フロー体験」は、ある意味で客観的理性を失った状態である。
自分がどこにいるか、何をしているかを認識することなく、
「完全にのめり込んでしまう」(48)ことで
ただ対象と合一の状態になることになるためだ。

「世界中でもっとも広く報告されているフロー活動は、よい本を読むこと、つまり、読書中に我を忘れるほど登場人物になりきり、物語に没頭することである」(49)

前に高橋和巳『悲の器』を読んでいた時も、「フロー」が起きた。
東北の帰りのJRの中で読んでいたのだが、
電車の寒さも忘れ、自分がどこにいるのか・自分がリクルートスーツを着て帰ってきていることすら忘れ、
ただ物語に没頭していた。
読み終えた時、自分が電車に乗っている目的を失念していた。

このように「フロー体験」をする対象とは人物でもよい。
フロー体験は子どもと共に過ごしている際の状態にも当てはまるという。

私は「フロー」を誘発する教員になりたい。
学ぶことに「意味」を求めるのも、もともとは違うのかも知れない。
学ぶことそれ自体が「楽しい」というのが「フロー」である。
大学院での研究も、ある意味それでありたいのだが・・・。

ニーチェ『若き人々への言葉』角川文庫、原田義人訳、1954。

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ニーチェ『若き人々への言葉』角川文庫、原田義人訳、1954。

初版は古いが、いまのカバーはすごくポップになっている(萌えキャラが表紙)。

安易な現状への満足をしている姿に、ニーチェが怒らないわけがないと思うのだが…。
「君たちが高く抜き出ようと欲するならば、自分の脚を使え! 人に持ち上げられるな、他人の背や頭のうえに乗るな!」(141)
「誤り呼ばれている「自由精神」、デモクラティックな趣味とその「現代的理念」との口八丁、手八丁の奴隷どもは、すべて孤独を持たぬ人間、自分の孤独を持たぬ人間、魯鈍でけなげな連中である。彼らには勇気も尊敬すべき道徳も見放されているわけではなく、ただ不自由であるだけである」(169)
「一個の哲学が到達しうる最高の状態。それは、現存在に対してディオニュゾス的に立ち向かうということである。それを表現する私の方式は、運命愛である」(199-200)
現状を肯定し、
自身の運命に対して「愛」をもって挑んでいく。
そういった前進の姿が、道を拓いていくことになる。
ニーチェに学ぶことは多い。
ニーチェの言葉は、力強く生き抜くということを我々に呼びかける。
ニーチェの死は1900年。
ニーチェが死なねば20世紀は始まらなかった。
そう考えると…、なぜかどうしようもなく感銘を受ける。

ポスター

久々にみたナイスなポスター。

無題ノート

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岡本吏郎, 2009, 『サラリーマンのためのお金サバイバル術 家・車・保険、「人並み」な買い物が破滅を招く』朝日新書。

要は「家は借りて住め、保険は社会保険料以外は火災保険などで十分、車は持たない、不要なものは買わず「人並み」をこだわらない、投資は市場に対してせよ」という本。

ダニエル・ピンク著、大前研一訳『ハイ・コンセプト 「新しいこと」を考え出す人の時代』三笠書房、2006。

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ダニエル・ピンク著、大前研一訳『ハイ・コンセプト 「新しいこと」を考え出す人の時代』三笠書房、2006。

アメリカや日本の「エリート」がしていた仕事を、
インドや中国の「エリート」がより安い賃金でやるようになるという
『Global Auction』の時代。
この時代において、日本やアメリカのやるべき仕事は
いったい何か。
本書では「ハイ・コンセプト」な人を作り出すことを提唱する。
「ハイ・コンセプト」とは「新しいことを考えだす人」(目次)のこと。
本書はこの「ハイ・コンセプト」と合わせ、
「ハイ・タッチ」という能力も重要だという。

「「ハイ・タッチ」とは、他人と共感する能力、人間関係の機微を感じ取る能力、自らに喜びを見出し、また、他の人々が喜びを見つける手助けをする能力、そしてごく日常的な出来事につ|いてもその目的や意義を追求する能力などである」(28-29)

「ハイ・タッチ」な能力を持った
「ハイ・コンセプト」な人材がこれからの時代を
切り開く人となる。
「ハイ・コンセプト」で「ハイ・タッチ」な人間は「右脳主導思考」になる、
ということだ。
著者はこのために下の6つの資質を示す。
それが、
デザイン、物語、調和、共感、遊び、生きがい
の6つである。
「機能だけでなく「デザイン」」
「議論よりは「物語」」
「個別よりも「全体の調和」」
「論理ではなく「共感」」
「まじめだけでなく「遊び心」」
「モノよりも「生きがい」」
今後の生き方を考える上で、
この6つを意識することは重要だなあ、と思った。
特に印象的だったのは、「共感」の能力である。
「インドのバンガロールにいる放射線技師でもX線写真を読むことはできる。だが、光ファイバーでは、共感−−体に触れ、つき添い、慰めを与えること−−を伝えることはできない」(260)
論理ではなく相手を共感し、話を聞く中で問題解決をする力。
教員にとって大事な力だと思う。

森信三, 1989, 『修身教授録−−現代に甦る人間学の要諦』致知出版社.

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森信三, 1989, 『修身教授録−−現代に甦る人間学の要諦』致知出版社.

森信三が大阪天王寺師範学校にて「修身」の授業を受け持った際の講義録。
ソシュールなどの著作と同じく、生徒の筆録によって本になっている。
世の中が教科書ベースの「徳目主義」の修身授業を行う時代。
森信三はそんな際、自分が疑問に思うこと・考えていることをベースにした修身の授業をした(講義録は昭和12−14年の内容である)。
血の通った人間としての「生き方」の授業を森信三は行い続けた。
この本はそんな「生きた」修身の授業の模様が描かれている。
森信三のアドバイスは一つ一つ具体的。
例えば。
「これはたぶん相手の人が知っていないらしい、と思われる事柄について話す場合には、「ご承知のようにー」とか「ご存知のようにー」とかいう前置きをして話すということです。でないと相手としては、面と向かってお説教をされるような気持ちになるからです。この辺のところに、会話上のこつとか呼吸というものがあると思うのです」(201)
そのため非常に面白い。
以下は抜粋集。

「いやしくも教師たる以上、通り一遍の紋切型な授業ではなく、その日その日に、自己の感得した所を中心として、常に生命の溢れた授業を為さむと心掛くべきなり」(47)

「人間が真に欲を捨てるということは、意気地なしになるどころか、それこそ真に自己が確立することであります」(85)
「私の平素申していることは「常に書物を読んで、卒業後独力で自分の道を開いていけるような人間にならねばならぬ」ということです」(138)
「どこまでも仕事を次つぎと処理していって、絶対に溜めぬところに、自己鍛錬としての修養の目標があるということを、深く自覚することです」(179)
「最初はまず実例から入り、さらには実行から入るというのが、われわれ日本人の入り方ではないかと思うのです」(181)
「人は真に謙遜ならんがためには、何よりもまず自己というものが確立している事が大切だと言えましょう。すなわち相手が目下であるからとて調子に乗らず、また相手が目上なればとて、常に相手との正しい身分関係において、まさにあるべきように、わが身を処するということであります」(206)
「真の「誠」は、何よりもまず己のつとめに打ち込むところから始まると言ってよいでしょう。すなわち誠に至る出発点は、何よりもまず自分の仕事に打ち込むということでしょう。総じて自己の努めに対して、自己の一切を傾け尽くしてこれに当たる。すなわち、もうこれ以上は尽くしようがないというところを、なおもそこに不足を覚えて、さらに一段と自己を投げ出して|いく。これが真の誠への道でしょう」(253-254)
「われわれは苦労することによって、自分のおめでたさを削りとってもらうんです。現実の世界は決してお目出たくはないのです」(271)
偉業をなす人の風格
①「自分のやりたいことはすぐにやる」「たとえば本が読みたくなれば、たとえそれが真夜中でも、すぐに飛び起きて読むといった調子です」
②「夢中になる」
③「最後までやり抜く」(385)
「この世の中を愉快に過ごそうと思ったら、なるべく人に喜ばれるように、さらには人を喜ばすように努力することです。つまり、自分の欲を多少切り縮めて、少しでも人のためになるように努力することです」(462)

中根千枝, 1977, 『家族を中心とした人間関係』講談社学術文庫.

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中根千枝, 1977, 『家族を中心とした人間関係』講談社学術文庫.

古くなった感はあるが、日本人論の古典。

助成に関する記述は中根の時代より大きく前進した気がする。
しかし、まだまだ課題も大きい。
日本の「ウチ」について。
「家族のソトは「トナリ」であり「シンルイ」であって、「家(ウチ)」とは質的に異なりま|す。ここにウチとソトの明確な一線がひかれています。さらに「トナリ」や「クミ」はムラのなかでサブ・グループを構成しますから、その集団が機能の高いばあいには、一般のムラの人に対して、それがウチになります。さらに一つのムラは他のムラに対してウチということになります。こうして、ウチとソトの関係は段階的に認識されています。それぞれの段階でウチは明確な集団として閉鎖性をもつということになります。したがって、ムラは二段階のウチの集合体となります」(150-151)
「日本の家は、むしろベースキャンプとしての働きを顕著にもっています。家族成員がそれぞれの活動にでかけるための根拠地としての役目ですから、ソトの人との接触はそれぞれの活動の場でするということになります。ベースキャンプはつねに留守番が要るように、母(妻)がその役に当っています。ベースキャンプはその成員の活動が活発であればあるほど、|みんな出はらっているときが多くなります」「このことが既婚婦人の社会的進出を阻む大きな要因となっていることはいうまでもありません」(160-161)
「日本の家族の特殊性は、全体の論述をとおしても浮かびあがってきますが、とくに最終章で考察したように、その孤立性に求められます。実はこの集団の孤立性こそが、さきに私が分析・理論化した「タテ社会」の母体になっています」(167)
それにしても、日本の外で読む日本人論は大変面白いなあ、とベトナムで打っていて思う。

後世への最大遺物

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後世への最大遺物

トインビーはボケが入っていても、本に目を通そうとしていた、という。

死ぬ間際に、その人の生き様や価値観が明解に描かれる。
花谷弁護士も言っていたように、私も死ぬ頃にも本に目を通そうとしていたい、と思う。
私は文をもはや理解できていないかも知れない。しかし、「読む」姿勢や「学究心」だけは後世に残すことが出来る。
「後世への最大遺物」は「良き生き様だ」とは内村鑑三もよく言ったものだ。
私も「後世への最大遺物」として、ぼけても本を読む姿勢を持ちたい。
それこそ、我が教え子への人生最後のメッセージではないか。

アンドレ・モーロワ, 1939, 中山真彦訳『人生をよりよく生きる技術』講談社学術文庫。

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アンドレ・モーロワ, 1939, 中山真彦訳『人生をよりよく生きる技術』講談社学術文庫。

ベトナム行きの機内において読了。

モニタではベルリン・フィルの素晴らしい演奏(とその映像)。
そんななか読むフランスの翻訳文庫。
自分が蓮實重彦になった気分がすごくする。
閑話休題。
(人のゴシップや噂について「「知りません」というこの簡単なひこことをいつも口にするように心がけたら、世間の会話の平均的価値はおどろくほど向上することだろう」(26)
「情報は教養ではないのである。教養人の頭の中では、個々の事実が有機的に結びつき、一つの生きた世界をつくり、それが現実世界の映像となる」(48)
「行動する人にとり、思考は行為と一体になっている」(48)
「しかしもっと強い恋をする人たちは、必要に応じて自分を新しくすることを知る」(84)
「人生の戦術もまた、攻撃点を一つえらび、そこに力を集中することにある」(102)
「そしていったん決定を下したら、「実行に移れ!」である。後悔は無益であり、変更にはきりがない」(103)
「汝のいまなすべきことをなせ。一心こめてそれにかかれ。全身全霊を目的と|するものに捧げよ。その目的を達したあかつきには、歩いてきた道を立ちもどって、先に横切ったもう一つの道を歩くのもよかろうし、あたりの景色を眺めるのもよかろう。だが仕事ができ上がらないかぎり、道草は許されない」(103-104)
●教育について
「生徒の仕事の第一は、勉強するくせをつけることである。精神を養うまえに、まず意志の力を養わなければならない」(27)
「苦労せずに覚えたことは、すぐに忘れてしまうものだ。同様の理由で、生徒自身は何もしなくともいいただ講義だけの授業は、まずほとんどつねに意味がない。若い頭脳の上を空滑りするだけである。聴くことは勉強することではない」(128)
「アランが述べているとおり、教育は断固として時代おくれでなければならない」(130)
「傾聴すべきはゲーテの言葉である。いわく、「心穏やかで、なすべきことが決まってるときには、孤独はいいものだ。」したがって、孤独を求める前に、その孤独の中でなすべき務めをはっきりさだめることがだいじである」(140)
「命令のいちばん大事な点は、明快さである」(247)
「人は、うまく指図さえすれば、その指図を受け入れるものだ。指図されるのを望むものだ、とさえいえる」(184)
「指導者は、みずからをその地位にふさわしいものにするよう日々努めてこそ、その権力を保つことができるのである」(195)
●解説より
「「仕事」の中にこそ、「生きる技術」の精髄がある」(284)
追記
・フランスやアメリカの文章は、事例が具体的に出てくる。
この表現法を私も学びたいと思う。