2012年 1月 の投稿一覧

埼玉の定時制高校への見学。

先週金曜日、ある先生のご好意から埼玉にある定時制高校の授業の見学に伺った。

高校3年生の日本史の授業。
マンガを交えたプリントから、室町時代の経済について学習できるようにされていた。

定時制高校の面白い点として、雑談は確かにあるが雑談組は教室の後ろに固まり、教室前方には「ちゃんと授業を聞く」人たちが固まっていた。

定時制と全日制とが併設された学校の場合、定時制の授業は全日制の生徒の教室をそのまま使う。
結果的に、席は自由になるのだろう。

参観した授業の担当はベテランの先生。
生徒の私語を授業に織り込みつつ、授業をしていた。

また、生徒と会話をしつつ授業をしている。
こういったワザを、私も学びたいと思う。

なお、授業の後、「大学生」として生徒の前でお話をさせていただいた。
ただ、ハッキリ言って、私に話せることはあまりないなあ、と感じた。
私の高校は皆が大学に行くのが当り前。
定時制のように高卒就労や専門学校進学などがメインになる場所において、何も実際的なアドバイスをすることは出来なかった。

自分の人生経験の狭さを感じる。
「早くから就活の準備をしよう」くらいしか述べることがなかったからだ。

悩み事解決用アプリ

悩み事解決用アプリを誰かに開発してほしいなあ、と思う。それは、カーネギー『道は開ける』の4つのステップをただ打ち込んでいくだけのものだ。

誰かにフリーでマック用アプリを作ってもらえないだろうか。

to-doリストへの対応が出来ると、考えた対策をすぐリスト化できて便利だろうなあ。

参考;カーネギー『道は開ける』における「悩みの追い払い方」(78)

①悩んでいる事柄を詳しく書き記す。

②それについて自分にできることを書き記す。

③どうするかを決断する。

④その決断を直ちに実行する。

遠隔教育のパラダイム転換

 本日、戸田文化会館でおこなわれた「埼玉県県立高等学校学力向上基盤形成事業 平成23年度報告会」に参加した。協調学習について興味があり、この4月から教員になるものとして視野を広げようと思ったからだ。

 面白かったのはロボット(アンドロイド)を用いての学習、という内容だった。グループ学習において、遠隔操作するロボットを介入させると、学習効果が上がった、という点である(真新しいイベントだから、集中度が上がっただけの可能性も考えられるが)。
 はじめ、かなり違和感があった。それは「そこまでしなくてもいいのでないか」という発想からである。しかし「可能性としてはありだな」と話を聴いていて思うようになった。例えば、長期入院者もアンドロイドの遠隔操作によって授業に参加することも可能になるたえである。

 シンポジウムを見ていて、遠隔教育の新たな形として、アンドロイドやロボットを通しての学習があるのだなあ、と分かった。遠隔教育の新たな形態が出来つつあるのだ。
 いままでの遠隔教育は、eラーニングなどIT技術を用いて離れた場所で学習をすることを意味した。これからはアンドロイドの遠隔操作により、アンドロイドを介しての学習を行うことが「遠隔教育」のメインテーマになるかもしれない、と思った(実際、eラーニングを用いる大学の授業ではBBSを活用する。これは離れた場所での会議であるが、アンドロイドを集め一箇所でBBS的な議論が可能となるだろう)。
 このような遠隔操作による学習の場の形成。モチベーションを上げ、社会性を身につける機会があるのなら、物理的に集まるのも最小限でいい。イリイチの言う「脱学校」的な学習の場を、IT利用による遠隔教育によって成立させることが今まで以上に可能になったように思える。

 アンドロイドを用いる時代になると、通信教育の意味合いが一段と高まるように思われる。遠隔教育と、通常の学習(学校に行き一箇所に集まっての授業)の意味合いがそれほど変わらなくなっていくからだ。

注 現在、インターネット上で授業を受講する遠隔教育においても、時間を定めて(例えば火曜日20:00-23:00の間だけ受講できるなど)受講するシステムをもつところが多くなっている。各人が好きな時にテキストを用いて学習する場合、縛りが弱いため学習者がかえって学習できなくなるところがあるからだ。そのため、「いつでも・どこでも」学習できるということが、遠隔教育のメリットというよりも「学習が進まなくなる」という意味でデメリットだと考えられてきている。実質、「いつでも・どこでも」学習できるという「自由」の重みが個々人の負担になっている。

自分を支えてくれる「実践コミュニティ」の形成

仕事で「つぶされない」ために、自分を支えてくれるコミュニティを作っておこう。

これはウェンガーのいう「実践コミュニティ」である。勝間和代が『ズルい仕事術』で上げた「レバレッジ力」も、つまるところ自分を支えてくれる人びととの良好な人間関係の形成について述べたものだ。

「支え」というセーフティネットが日本にないことを批判する声が多い。ないならば少なくとも自分の周りにつくる。それが大切だろう。

瀧本哲史, 2011, 『僕は君たちに武器を配りたい』講談社。

「労働者の賃金が下がったのは、産業界が「派遣」という働き方を導入したのが本質的な原因ではなく、「技術革新が進んだこと」が本当の理由だからだ」(65)

1999年のiMacというカラフル+スケルトンボディのパソコン。
「アップルの苦境を救ったのもスペックや機能ではなく、「色」や「デザイン」だったのである」(142)

起業するなら、「自分が働いている業界について、どんな構造でビジネスが動いており、金とモノの流れがどうなっていて、キーパーソンが誰で、何が効率化を妨げているのか、徹底的に研究するのである」(172)

「起業家が新しいビジネスを見つけるときの視点として、「しょぼい競合がいるマーケットを狙え」という鉄則がある」(175)
→自分の会社について「その会社が潰れる前に退職し、その会社を叩き潰す会社を作るのである」(178)

☆イノベーション(技術革新)とは「実は「新結合」という言葉がいちばんこの言葉の本質を捉えた訳語だと私は考えている。既存のものを、今までとは違う組み合わせ方で提示すること。それがイノベーションの本質だ」(183)

「つまりリーダーには、優秀だがわがままな人をマネージするスキルも大切だが、優秀ではない人をマネージするスキルのほうが重要なのである。ダメなところが多々ある人材に、あまり高い給料を払わずとも、モチベーション高く仕事をしてもらうように持っていくのが本当のマネジメント力なのだ」(190)

「資本主義の社会では、これまで述べたように、自らが会社を興して事業を営むか、あるいは自分が株主として会社の利益に応じて報酬を得られる仕組みを構築することが大事となる。その場合に欠かせないスキルが、人をどうやってマネジメントするか、というリーダーシップのとり方なのである」(191-192)

「資本主義の国で生きる以上、株主(投資家)の意思のもとに生きざるを得ない、ということなのだ。それならば、自分自身が投資家として積極的にこの資本主義社会に参加したほうが良いのではないか、というのが私からの提案なのである」(217)

「「自分でリスクが見えて管理できる状態」とは、何らかの仮説に基づいて投資を行った後で、その仮設が間違っていると気づいたら、いつえも手仕舞いできる準備をしておく、ということである。
 自分がとろうとしているリスクの大きさを、正確に見極めよ。そのリスクに責任がとれると踏んだならば、臆せずに投資せよ。それが投資家として生きる上での鉄則なのである」(232)

「「売り物がある人」は必ず「武器」として英語を身につけるべきだ。まだ「売り」がない人は、英語の勉強をやる前に「自分の商品価値」を作ることが何より大切なのである」(266)

「社会に出てから本当に意味を持つのは、インターネットにも紙の本にも書いていない、自らが動いて夢中になりながら手に入れた知識だけだ。自分の力でやったことだけが、本物の自分の武器になるのである。資本主義社会を生きていくための武器とは、勉強して手に入れられるものではなく、現実の世界での難しい課題を解決したり、ライバルといった「敵」を倒していくことで、初めて手に入るものなのだ。そういう意味で、ギリシャ神話などの神話や優れた文学が教えることは、人生の教訓を得るうえでも非常に有効だと私は考えている」(281)

『僕は君たちに武器を配りたい』

「起業や商品で差をつけることは難しい。差をつけるには、ターゲットとなった顧客が共感できるストーリーを作ること」(瀧本哲史, 2011, 『僕は君たちに武器を配りたい』講談社.pp.145-146)

 教育も物語を共有することが一つのポイントだ。顧客満足度を上げることにもなるし、「高校時代」は繰り返せない。いわば、高校時代という思い出と学歴を購入するのが高校入学なのである。であれば、「この高校だといい物語を共有できる」というモデルを構築することが、高校にとって必要なことだ。わくわくする授業・楽しいイベントでの物語を作り上げる実践をしたいと思う。深夜アニメに高校ネタが多いのは、高校に「物語」を求める人がおおい証拠だろう。

小堀宗実, 2011, 『茶の湯の宇宙』朝日新書.

最近、アニメで『へうげもの』を観るのが好きである。その関係で茶道について若干ながら書物を読むようになった。

 本書はそういった流れで読んでいる。教員の仕事も茶道同様、「芸」である。そのため、本書は教員論として読んだ。

 茶道において、茶会において何が起きるかわからないからこそ、控えの道具など、問題があった時の用意を必ずしておく、という。たとえばお茶を立てるための茶筅(ちゃせん:お茶をかき混ぜ泡立てるのに用いるもの)を万が一落としてしまった時のため、新しい茶筅を予め用意しておく。その際、別の茶筅であることを明確にするため色の違う茶筅を出しているという。

「控えの茶筅や柄杓は、一度も使わないで済むことがよいことです。一生涯使わないかも知れないけれど、水屋(注 茶席の用意をする場所)に控えを用意しておく。これが備えというものです」(58)

 何事も用意が必要である。教育実践においても「用意」が必要だ。何も考えず授業をしてしまうことは1つの暴力である。

 そのため、いまのうちから教員実践の準備をしたいと思う。

コミュニケーション力

 コミュニケーション力が減ってきている人が多い、とよく聞く。しかし、よく考えると「コミュニケーション力がない」と相手に言い切れる人のほうがよっぽどコミュニケーション力がないと思う。

 たとえば取引先が麻雀に詳しいなら誰でも麻雀を勉強してからコミュニケーションしにいく。しかし、若者と会話が上手くいかない時、「若者と会う話題は何か」学ぶ努力をせず、自分の側の努力を棚に上げ、相手がコミュニケーション力がないと決め付ける。

 社会学ではこういった片方が一方的に不利な側を押し付けられることを「権力」と呼ぶが、まさに権力的状況がそんざいしているのである。

マイケル・S・チウェ, 2001, 『儀式は何の役に立つか−−ゲーム理論のレッスン』(安田雪訳, 2003, 新曜社)。

アメリカではアメフトの試合の視聴率はものすごく高い。プロのアメリカン・フットボールチーム全米一を決めるのがスーパーボウルである。毎年2月に開催され、現在までなんと21年連続で視聴率40%を獲得している恐ろしいスポーツイベントとなっている。

 アップル社の戦略について本書はこう述べる。「スーパーボウル放映中にテレビ・コマーシャルを打つことによって、アップル社は、単に視聴者に新型マッキントッシュのことを知らせただけではない。同時に、多くの他の人々も新型マッキントッシュのことを知らされたということを、視聴者に伝えたのである」(13)。
 このように本書では、宣伝というものが「自分以外の人もこれを目にしている」という想像が成立する場合に効果的である、という事実を伝える。「他の人も同じ物を目にしている」という想像こそ、人びとに強烈なメッセージを与えている。そういった意味で宣伝を同じ時に見るということは現代の儀式なのだと本書は述べる。
 「電話を受けた人は、他の人々も同じような電話を受けたか、どれくらいの人が受けたかを知らない。一方テレビ・コマーシャルは、少なくともある程度は共通知識である。なぜなら、テレビ・コマーシャルを見ている人は、他の人々も同じテレビ・コマーシャルを見ていることを知っているからである」(16-17)。

 宣伝というのは個人に打てばいいものではない。むしろ、「他の人も同じ宣伝を見ているのだ」という想像が成立することに意味があるのだ。