2011年 12月 の投稿一覧

カール・シュミット『政治的なものの概念』

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カール・シュミット『政治的なものの概念』

Schmitt, Carl, 1927, "Der Begriff des Politischen", Euncker & Humblot. München.(=1970, 田中浩・原田武雄訳『政治的なものの概念』未来社)

シュミットの有名な「友・敵関係」について述べた書。国家は敵を定めることで「我々」国民を形成する。
「諸国民は、友・敵の対立にしたがって結束するのであり、この対立は、こんにちなお、現実に存在するし、また政治的に存在するすべての国民にとって現実的可能性として与えられているものである、ということは、道理上否定できないのである」(18)
「政治的な対立は、もっとも強度な、もっとも極端な対立である。いかなる具体的な対立も、それが極点としての友・敵結束に近づけば近づくほど、ますます政治的なものとなるのである」(20)
→対立を擬制することで政治はなされる。「だれを敵とみなし、敵として扱うかを決定的に判定する」(52)ことが国家や政治団体の立場である。
「「戦争を追放する」ことは、そもそも不可能である。追放できるのはただ、特定の人びと、国民・国家・階級・宗教等々であって、これらは、「追放」によって敵であると宣言されるのである。このように、厳粛な「戦争追放」も、友・敵区別を解消するものではなく、国際的な敵宣言という新たな可能性によって、友・敵区別に新しい内容と新しい生命を与えるものなのである」(57)
「人類そのものは戦争をなしえない。人類は、少なくとも地球という惑星上に、敵をもたない|からである。人類という概念は、敵という概念と相容れない。敵も人間であることをやめるわけではなく、この点でなんら特別な区別はないからである。戦争が人類の名においてなされるということは、この単純な真理となんら矛盾するものではなく、ただとくに強い政治的な意味をもつにすぎない」(63)
 世界政府の可能性など、なかなか興味深い。シュミットは世界政府が出来、名称としての「戦争」がなくなっても、例えば「平和維持活動」などの名称などの形で戦争がなされることを指摘している(102)。
◯解説より
「シュミットは、「政治的なもの」の究極的な識別徴標を、「友か敵か」すなわち「友・敵関係」として捉える。道徳においては善・悪が、美的には美・醜が、経済において利・害(もうかるかもうからないか)が、それぞれ固有の識別徴標であるように、政治に固有の識別徴標は、「友・敵」関係だ、というわけである」(121)
「シュミットが、例外状況においては、国家は、既存の法体系や慣行・ルールを徹底的に破壊しつくしてしまうことをリアルにえがきだしていることははなはだ興味深い」(127)

コンビニに群れる高校生。

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コンビニに群れる高校生。

 教員採用の関係上、福島県いわき市に行く。帰りに少し時間ができたので湯本駅まで行った。

 居場所のない高校生たちが駅前コンビニに群れている。

 都会が巨大な娯楽空間になっているなら、田舎においてもその代補的空間が要求されてしかるべきであろう。
 田舎において居場所のない彼らが自ら「居場所」を空間に作り出す。それがコンビニであろう。人間には「清」の姿だけでは生きられない。「清濁あわせのむ」ではないが、「濁」を許す空間も必要なのだ。「濁」的空間が排斥される場合、人々は是が非でも「居場所」を創りだそうとする。

 
 コンビニの前に高校生たちが群れているというだけで批判をするのは、社会の問題点を忘れた姿である。
 帰りの電車でそう考えた。

「おわり」を言う権力性

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「おわり」を言う権力性

 昨日、野田首相が原発事故の収束宣言を出した。今日、たまたま福島県に行ったが、『福島民報』は「ふざけるな」という内容ばかりだった。「おわり」を宣言すると、もうこれ以上の「再建」はなくなる。「おわり」といって終わりにしてしまう暴力性を訴えていたのである。

コンビニに群れる高校生。

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コンビニに群れる高校生。

 教員採用の関係上、福島県いわき市に行く。帰りに少し時間ができたので(東京での予定がキャンセルされたので)湯本駅まで行った。

 居場所のない高校生たちが駅前コンビニに群れている。

 都会が巨大な娯楽空間になっているなら、田舎においてもその代補的空間が要求されてしかるべきであろう。
 田舎において居場所のない彼らが自ら「居場所」を空間に作り出す。それがコンビニであろう。人間には「清」の姿だけでは生きられない。「清濁あわせのむ」ではないが、「濁」を許す空間も必要なのだ。「濁」的空間が排斥される場合、人々は是が非でも「居場所」を創りだそうとする。

 
 コンビニの前に高校生たちが群れているというだけで批判をするのは、社会の問題点を忘れた姿である。
 帰りの電車でそう考えた。