2011年 10月 の投稿一覧

坂口恭平, 2010, 『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』太田出版.

From Evernote:

坂口恭平, 2010, 『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』太田出版.

 カウンターカルチャー性が面白い本。ホームレスのほうが実は「自由」で素敵に生きている、という事実を赤裸々に示している。それは炊き出しやゴミのなかから資源を捜すという「都市型狩猟採集生活」が現代日本で可能であるという事実による。なお本文では「ホームレス」とは使わない。
 映画『ダメジン』を思い出す。イリイチ的なコンヴィヴィアルな生活を示した内容。
 ドロボウ市。「開催場所は、南千住駅から徒歩で行ける、山谷地区の玉姫公園周辺だ。山谷地区というのは、台東区泪橋交差点を中心とした日雇い労働者たちが滞在する簡易宿泊所が集中する地域の通称であり、俗に言う「ドヤ街」である。
 市場は、雨の降らないかぎり毎朝五時〜七時の二時間だけ開かれる」(80)
 われわれはどの電化製品がどれくらい電気を食うか、殆ど知らない。しかし「都市型狩猟採集生活における電気との付き合い方は、まるで正反対だ。/一二ボルトで動く小型テレビは、自動車用バッテリー一台を使えば、一日五時間見たとして一〇日間ぐらいもつ。そんな具体的な数字がすらすら出てくる。つまり、電気をモノとして捉えているのである」(94)
「冬の間は、自分でお酒もつくります。スーパーで麹を買ってきて、米を四合炊く。少し水を入れ、そのあとに麹を入れて、場合によってはイースト菌も入れます。それらをかき混ぜ、蓋をしておく。一週間も置いておけば、おいしいどぶろくができあがりますよ」(128)
 なんか伊丹十三の『タンポポ』に出てくる浮浪者集団のようだ。
「水といえば、朝方、植物の葉の上に溜まっている朝露は、ぜひとも一度飲んでみてほしいです。昼は暑くて蒸発してしまいますが、夜になって気温が下がると水分は蒸発せず、朝方になって溜まって出てくる。これは完全に濾過された水であると同時に、植物の体内を通過する際にその栄養分も吸収していて、おいしいんです。これがどういうことかというと、たとえ天変地異が発生して、都市の水道機能が断たれたとしても、飲み水を手に入れる方法はいくらでもあるということです」(133)
「ぼくが繰り返し言う都市型狩猟採集生活というのは、ただの路上生活のことではない。最終的な目標は、自分の頭で考え、独自の生活、仕事をつくり出すことにある。(…)違法行為にならないように距離を取りながら自分なりの本質的な生活を見つけるという作業は、現代の冒険といっても過言ではない」(146)
「彼ら(藤本注 都市型狩猟採集生活者)は、暗黙の了解あってのことではあるが、公有地に住みながらも撤去されることなく、家を建てることに成功している。すでに、ぼくにとって、公園や川沿いに建つ〇(ゼロ)円ハウスはただの路上生活者の家ではなくなっていた。それらは、権力を持たない、力のない人間であっても、都市の中に独自の空間を獲得できるという証明そのものであった。
 ぼくはまた、彼らがそこで生活することの持つ意味や可能性に対して、自覚的であることにも感銘を受けた。
 彼らは、何一つシステムを変えることなく、すべてを自らで決断するという勇気によって、自分だけの家、自分だけの生活を手に入れているのである。つまり、社会がどんな状況になろうとも、そこから独立した生き方をしているために、常に主導権は自分自身の手を離れることがない」(174)
 イリイチ的主張を現代日本で実現すると、そのひとつの形態が「都市型狩猟採集生活」ということになるのかもしれない。
 若干、美化しすぎの気もするが、「カウンター・カルチャー」の初めはそういう過度な美化から「こちらのほうが実はいいのではないか」という感覚を広める必要がある。まあ、仕方ないか。

大村敦志・東大ロースクール大村ゼミ, 2011, 『22歳+への支援 ロースクールから考える大学院生の「支援システム」』羽村書店.

From Evernote:

大村敦志・東大ロースクール大村ゼミ, 2011, 『22歳+への支援 ロースクールから考える大学院生の「支援システム」』羽村書店.

大村敦志・東大ロースクール大村ゼミ, 2011, 『22歳+への支援 ロースクールから考える大学院生の「支援システム」』羽村書店.

修士課程2年 藤本研一
 良くも悪くもロースクールの院生がつくった、という感じが強い本。この程度の水準・内容で出版できる事自体驚きであるが、帯紙に「ロースクール白書」と書いてしまうことに笑ってしまう。
 アンケートも、例えばパーセンテージや総数を表示していないなど初歩的ミスが目立つ。また、東京大学ロースクールのゼミの有志で作成されているため、自分たちへの支援を呼びかける口調となっている。ゼミ調査の文献でなければ読まなかった本である。
 内容はインタビュー集である。普段、どのように生活しているかわからないロースクール生に対し、勉強の仕方・学費・生活費・子育て支援など、院生目線で見たリサーチである。
 インパクトが強いのはロースクールのシステムの特異性である。「司法試験を目指すロースクール生にとっては、終了後の5月に試験、9月に合格発表というスケジュールになっており、修了後の住居をどうするのか、その間の住居費はどうやって捻出するのか等の問題を抱えてい」(74)る点が特に大きい。学生寮の場合、大学院修了とともに出ていくことが必要である場所も存在するため、大学院生向けの住居支援の仕方に再考を促す内容となっている。
 また、専門職大学院の一つであるため、社会人経験者や子育てを平行して行う院生も存在するため、保育園設備の重要性を訴えるなどの内容が記載されている。
 細かく見ていくと冗長なため、結論部分のみを見ていく。
「本書で見てきた支援制度を前提にすると、ロースクール生に対する公的な支援は、学生一般または研究者養成のための支援の一環として行われているにすぎない現状があります。そしてその結果として、新しい法曹養成制度との関連で支援の空白期間(藤本注 上記のロースクールの日程を参照)が生じることになったり、支援不足のためにロースクールに通いたくても通えない人がいる可能性があります。一方、財団による奨学金に代表されるような私的な支援はそれぞれの理念に基づいており、ロースクール生に対象を絞った法曹関係者による支援なども存在します。これらの私的支援制度が公的支援の不足部分を穴埋めしているという側|面があると考えられます。(…)新しい法曹養成制度と連動し、ロースクール生のための公的支援が必要であると言うことはできないでしょうか」(118-119)
 ロースクールは通常の大学院と異なる、という指摘である。そのため今までの大学院生支援と同じ発想で考えてはならない、という主張をしている。同様の主張には次のものもある。
「ロースクール生は修了後すぐに法曹として働き収入を得るということができません。にもかかわらず、大学院を修了しているため奨学金の返還義務が生じます。したがってロースクール修了後、法曹になるまでの間、奨学金を返還しながらどのように生活していくのかが大きな課題となります」(70)
 ロースクールの特殊性を鑑みた上での奨学金制度の設備が必要であるようだ。
 その後、筆者たちはロースクールの知見を広げ、大学院生一般に話を敷衍する。
「他の分野の大学院まで見渡したうえで、「大人」ではあるけれど経済的自立のできていない大学院生とはどのような存在であるか、それに対する現在の支援制度はどのように作られているのか、今後さらなる検討が必要です」(122)
 なんとも私にとって耳の痛い内容であるが、疑問も感じる。ロースクールは本書にもあるように、学業に追われるためアルバイトをしにくい状況にある。その点、(われわれ)一般の文系大学院生とは少し異なっている。
 大学院生に対する支援、という発想を本書から私は得ることができた。しかし、本書は院生目線のため、「支援しなければならない」という主張をしている。その支援理由は社会的弱者にも法曹になる「機会の均等」の実現から論を導いている。この論理から、例えば殆ど就職先のない大学院(哲学・倫理学など)に対しても「機会の均等」の上から支援が必要であると本当に述べることが出来るのか疑問である。大学院生への支援が本当に社会的に必要であるのかの議論が更に必要であろう。「モラトリアム」として大学院に入る院生が存在する(66)ことを想定する必要がある。
 他の本書の不備として、基本的情報の記載がなされていない点があげられる。例えば東大ロースクールの学費が幾らかは当然視されているためか記載されない(筆者は110万円前後であったと記憶している)。
 本書は東大ロースクールを目指す人にとっては代え難い貴重な資料集となるであろうが、私にとってはミニコミ誌にすぎなく感じられた。
 以上。

本川達雄, 1996, 『時間ーー生物の視点とヒトの生き方』NHKライブラリ.

From Evernote:

本川達雄, 1996, 『時間ーー生物の視点とヒトの生き方』NHKライブラリ.

 時間の多元性を生物学の観点から語った本。子どもは大人と違う時を生きている等、なかなかに興味深い。
 人間は「本能の壊れた動物」であると岸田秀は言う。本書でもそれを証明しているようだ。
「東京ほどの高密度で住んでいる哺乳類は、どの程度の大きさのものになるのでしょうか。計算すると体重が六グラム、哺乳類として一番小さいトガリネズミのサイズです。では日本の全国平均の人口密度で住んでいる動物はどうかというと、体重が一四〇グラムですから、ドブネズミ程度。いずれにしても日本に住めばネズミ小屋暮らしになってしまうのですね」(11)
「生きものには生きものの時間があるのです。ならば当然、生きものを理|解するには、その時間を使わなければいけないでしょう」(46-47)
「子供はエネルギーをたくさん使って時間が速く進むから、一日二四時間という同じ絶対時間の間に、子供は大人よりもいろいろなことをやってたくさんの経験がもてます。だから逆に子供では一日が長く感じられるのではないでしょうか」(154)
→これは生き物全般、赤ちゃん-幼児-子ども-若者-大人-老人の時間の違いを認識することの指摘でもある。
 動きまわるのが少ない生物ほど、エネルギーの消費が少なくて済む。また寿命も伸びる。そういったエネルギー的観点から、人間の生き方を探った本である。
「日本の人口密度はネズミ程度だと冒頭で申し上げましたね。ネズミ小屋の中でゾウなみのエネルギーを使っている、これが日本人の生活ということになります」(121)
「現代人も縄文人も、体自体に大きな違いはなく、私たちの体のリズムは昔のままなのです。とすると、体の時間は昔と何も変わっていないのに、社会生活の時間ばかりが桁違いに速くなっているのが現代だということになります。
 そんなにも速くなった社会の時間に、はたして体がうまくついていけるのでしょうか? 現代人には大きなストレスがかかっているとよく言われます。そのストレスの最大の原因は、体の時間と社会の時間の極端なギャップにある、と私は思っています」(140)
→人間の動物性である。
 読んでいて思うのは、動物の悲しさである。動けば動くほど、エネルギーが必要になり多くを食する必要がある。そのため、一生に費やすエネルギーを早く使いきってしまい、寿命を迎える。一方、ほとんど動かない動物(ex. ナマケモノ)や植物はエネルギー消費が少ない分、長く生きれる。頑張ることや一生懸命さというものを問い直すことが必要だと思った。

映画『地球に優しい生活』(原題: No Impact Man アメリカ2009)

From Evernote:

映画『地球に優しい生活』(原題: No Impact Man アメリカ2009)

 新宿武蔵野館でトークショーも含めて、本日見に行った。初日というのは映画のエネルギーを強く感じる。

 さて、この映画は1年間地球に負担をかけない(No Impact)生活をニューヨークの都心のアパートで行う、というものだ。田舎ならいくらでも自給自足ができる(こっちも大変だけど)。それを都会で、奥さんが働きつつ、家族3人で行うという点で「大変」なのである。
 いままで私が観てきたドキュメンタリーとの違いは、本作の主人公は「成長」・「変化」していく点だ。一般的なドキュメンタリーは固定的で迷いのない主体として描かれる。代表例は『ゆきゆきて、神軍』。主人公の奥村謙三は最初から最後まで「変な人」であり、活動家である。何かを経験してもそこからの学習や変化は描かれない。一直線のモデルである。このように描かないと、ドキュメンタリーでとりあげるべき人物ではなくなってしまうからだ。最初から最後まで、環境運動家は変化せず、批判に屈せず、やり切るのが一般的なドキュメンタリーである。
 一方、本作の主人公は意外に弱い。自らの生活を綴ったブログへの批判にヘコみ、いろんな人からの批判・指摘を受けて「自分が間違ってるかもしれない」とアッサリ認めてしまう。また、単に自らの活動を誇示するのではなく、他の運動家や農場・地域の人々から学んでいく姿勢が挙げられる。夫・妻との会話・対立を経験しつつ、なんとか1年過ごすという映画である。ある意味確たる主体性が消滅した、ポストモダン的なドキュメンタリー、と言えるだろうか。主人公たちの会話や「地球に優しい」主張も、よく聞くと矛盾しあっている。エレベーターはダメだが、遠くの牧場への電車は構わない、本は読むけれどトイレットペーパーはNGなどなど。混乱・葛藤・矛盾を描き出している。
 一般的なドキュメンタリーとの違いは、おそらく編集の仕方である。編集はすべての映像を撮ったあとに完了する。その際、「変化しない」部分を組み合わせて作ると一般的なドキュメンタリーになる。しかし、それをあえて混乱・矛盾したまま描くと本作のようになる。編集の力はすごいものだと思う。
 私は本作のように「変化」する主体を描いたドキュメンタリーを好む。だって私は弱い。他者の声に簡単に影響される。また以前と違う考え方にいきなり変化することがある。おそらくほとんどの人の生活もこういうものだろう。それゆえ、本作は変化・矛盾している自分のような弱い主体でも、何かができるのではないかと考えさせることに成功しているのである。面倒くさく言うと、本作は共同主観性の立場で描かれたドキュメンタリー映画だ、ということができるだろう。
 

坂本佳鶴恵, 2005, 『アイデンティティの権力−−差別を語る主体は成立するか』新曜社.

From Evernote:

坂本佳鶴恵, 2005, 『アイデンティティの権力−−差別を語る主体は成立するか』新曜社.

「他者は、自己にとって自己と同じように独自の仕方で世界を認識し意味構成する認識主体として、あるいは逆に自己によって意味づけられる認識の単なる対象として、現れる。他者を「対象」として知覚する限り、他者の存在は私と世界の諸事物との関係を変えることはないが、他者を認識主体として認めるや否や、私はもはや自分を中心に世界を構成することができなくなる。世界のもう一つの中心としての他者の出現は、同様の意味作用の中心として権利づけられた他の身体による現実構成の中で、現実構成の主体から対象へと堕してしまう。ここには自己が自由な意味形成の主体から単なる状況的現実の一項にすぎない状態へと陥る恐怖が描かれている」(46)

「役割距離は、このように特定の役割期待の中で要求されるものもあるが、役割を遂行する個人についての一定の情報を与えることに利用される場合もある。いずれにしろ、役割距離は、遂行している役割以外の真の自己の存在を他者に呈示する。しかし、スティグマをもつ人々にとって、スティグマという役割から距離をとってみることは不可能である。スティグマを余裕をもって不真面目に演じることなどできないのである」(58)

「障害者は、障害を隠すことで健常者とみなされたり(パッシング)、「障害者」の役割を意識的に演じてみせたりするなど、自己表出をコントロールすることができる。こうした作業は、社会規範に基づいた一方的な自己規定に対して、自らの意志でコントロールできる部分を、少しでも見いだそうという、自らを「主体化」する努力といってもよい」(187)
→パッシングとはやり過ごすこと、みたいです。
「関係論的自我論では、自己を変えるためには、関係を変えなければならないが、関係を変えようとすれば、その前に自己を変えなければならないという循環に陥る。主体性重視の、ミード的自我論では、主我が客我を変えることになるが、主我は、客我に対する反応であるから、帰る対象が自らの前提になってしまう。そこで浅野が提示する物語論的自我論は、自我の変容を自己物語の書き換えとして考える。物語は、他者=セラピストに対して語り、その他者が物語の裂け目、非一貫性を指摘していくことで、新た|な物語が形成されていく」(196-197)
「語るという行為は、聴くという行為がなければ成立しない。自己についての語りは、他者による認知がなければ成立しないのである。では、自己はどのようにして他者に認知されるのか。どうすれば、「私」を認知させることができるのか。私を認知する〈聴く主体〉は、どのようにして成立し存在するのか。
 ポストモダンの、パロディやアイデンティティの流動化の戦略は、結局のところ、この〈聴く主体〉が存在しなければ、意味がない。換言すれば、〈聴く主体〉がいかに成立するかが、パロディなどの撹乱の戦略に先立つ重要な課題なのである。〈聴く主体〉は、一方的な啓蒙によってできるのではない。|それは、語る者との間の相互作用によって、成立する。語る者と聴く者が、主体となる以前の、流動的なアイデンティティの相互の変容に共同で取り組むこと、ともにマジョリティのアイデンティティとマイノリティのアイデンティティの間を往還していく、そうした準備ができていることが必要なのである。周縁的アイデンティティやその主体性という、語る主体の視点からばかりでなく、〈語る-聴く〉相互行為という視点からのアイデンティフィケーション論の構築が必要である」(坂本佳鶴恵, 2005, 『アイデンティティの権力−−差別を語る主体は成立するか』新曜社.229-230)
→アイデンティティは受容する他者・「聴く主体」がなければ成立しない。
「したがって、女性の立場を否定するのではなく、「女性」を女性(いま女性である人々)だけでなく、誰もが(現実にあるいは想像的に)」採りうる立場として開放し、相対化していくこと。社会に規定された女性という立場に依拠しつつ、その問題点を変革し、女性の価値を劣った価値としてではなく、男性とも共有できる価値として定義し直していくこと。自らのからだや欲求を、自らに対しても他者に対しても、積極的に肯定していくということ。そうしたことが必要になってきているのではないか」(295)

G・H・ミード『社会的自我』,船津衛・徳川直人編訳, 1991, 恒星社厚生閣.

From Evernote:

G・H・ミード『社会的自我』,船津衛・徳川直人編訳, 1991, 恒星社厚生閣.

 ある意味ミード入門としても読める本。

「意味とは、対象が引き起こす、表示された反応のことである」(22)

「人間が自分自身に対して対象となるのは、まさに、自分の行為にかかわる他者の態度を取得する自分自身に気づくからである。人間が自分自身に立ち戻ることができたのは、他者の役割を取得することによってだけである」(57)
「もし、人が「机」という言葉を発音し、その発音を自分自身で聞いた場合、その人は、机という対象に対する組織化された反応態度を、他者に引き起こすのと同じ仕方で、自分自身のうちに引き起こしたことになる。このようにして引き起こされる組織化された態度は、普通、観念(idea)と呼ばれている。われわれが述べていることについての観念が、有意味な発話(significant speech)すべてに伴っているのである」(64)
「われわれは、自分に対する他者の態度を取得でき、そして、他者の態度に反応でき、また実際にそうするかぎり、まさに、そのかぎりにおいて、自我をもつのである」(65)
「思考とは内的会話のことである。そこにおいて、われわれは、自分自身と対峙する特定の知り合いの役割を取得している。しかし、普通、われわれが会話しているのは「一般化された他者」と名づけられたものとである。それによって、抽象的思考のレベルに到達することになる。そしてインパーソナル性、われわれの考えるような、いわゆる客観性というものを獲得するようになる」(66)