2011年 3月 の投稿一覧

Apple, Michael W.(1979):『学校幻想とカリキュラム』、日本エディタースクール出版部、1986。門倉正美・宮崎充保・植村高久訳。

「かいつまんで言えば、私は、教育は決して中立的な営みではないということ、すなわち教育者は、自覚していようといまいと、教育制度の本質からして、政治行動にたずさわっているということをつよく主張した。また、今日の先進産業経済を支配している制度編成は根本的に不平等をもたらすようになっているが、結局のところ、教育者は自らの教育実践を、そうした制度編成や、そこでの人々の意識形態から完全に切り離すことはできない、とも主張した」(1)

→フレイレも同様の主張をするが、彼は〈だからこそ何を教育するかが大切だ〉という。イリイチは〈だから教育は権力だ、ないほうがいい〉と切り捨てる。

「社会が正義にかなっていると言えるためには、社会は原理的にも、実際の活動においても、最も不利な立場にある人たちの利益に最大の貢献をしなければならない」(22)

ヘンリー・レヴィンを引用して、

「社会を変革しようとする教育的努力が、本来、教育部門で生じたのではない問題も学校が解決しうるというようなイデオロギーをうみだし、それを正当化することによって、中心的な問題から人々の関心をそらしてしまう傾向があるからである」(79)

「幼稚園の教室での社会化過程には、社会的相互行為の規範や規定を学ぶことがふくまれている。社会化とは、自らがかかわっていくことによって、状況を把握する枠組みをたえず洗練させていく過程なのである。社会状況に適合するためには、その状況が相互行為の枠組みとして提示している意味・制約・可能性などへの共通の理解が得られていなければならない」(99)

「学校という社会的現実を理解するためには、教室の実際のありようを研究することが必要である。それぞれの概念・役割・事物はいずれも社会的につくられたものであり、それらが作られた状況によって規定されている。教室での相互行為の意味づけは単に推定されるだけであってはならず、あくまで具体的に観察されねばならない」(100)

→学校の生徒文化研究を行っていきたい私にとって、どこまでも現場重視の姿勢を維持することが必要だ(あたりまえだけど)。

・「自由に」過ごすことが実は教員の強制によるのだ、という102頁の指摘。

「子どもたちが学校で習ったこととして語る内容はすべて、〈勉強〉とされている活動のとき先生が教えたことである。〈遊び〉は時間があまって、しかも子どもたちが与えられた勉強をすましているときにだけ許される」(104)

「教師が園児たちに期待しているのは、教室の状況に適応することであり、こうした適応にともなうどんな不快さにも耐えることなのである」(109)

幼稚園のなかで「従順・熱中・忍耐という性向を身につけることは、学問的能力よりもずっと価値があることなのである」(109)。

→さすが批判的教育学を名乗るだけのことはあると言える。

「はるかに重要のは、次のような問いを真剣にとりあげることである。すなわち〈現在の学校はしばしば誰の利益に奉仕しているのか〉、〈文化資本の分配と経済資本の分配とはいかに関係しているのか〉、〈意味づけは強めるが統制は弱めるような制度をもたらす政治的・経済的現実を構想しうるだろうか〉」。(113)

「この本の核心をなす論点」

「学校には歴史があるという点、そして学校は毎日の実践をとおして、しばしば複雑な隠れた仕方で、他の有力な諸制度に連結しているという点、の二点である」(120)

「学校は、それより力をもつ他の諸制度、すなわち権力や資源利用における構造的不平等を生みだすように結合している諸制度との関係のなかではじめて存在するのである」「第二点は、こうした不平等は学校が強化し、再生産するものであるという点である(むろん学校だけによってそうなるわけではないが)。教室の日常におけるカリキュラム・授業・評価の面での活動を通じて、学校はこうした不平等を、生みだすのではないとしても、保存するのに重要な役割を演じている」(123)

「学校生活の日常的過程は校舎の外の経済的・社会的・イデオロギー的諸構造と連結しているからである」(125)

→学校は社会や政治のイデオロギーを拡大再生産する場所になっている。

「現実を理解することはその現実を変革するための必要条件であるのみでなく、倫理的・美的・経済的に適切な仕方での現実の再構成を実現していくための大きなステップにもなる、という点を指摘しておくことが重要だろう」(196)

「他人が予め選定した行動によって他人が予め定めた目標のために働くという仕方を習得することによって、生徒たちは、ひとが果たすべき役割がすでに社会の網の目の中で決定されているような、ますます企業的・官僚主義的になっている社会のなかでの働き方をも同時に習得しているのである。それぞれの役割の中には、その役割にふさわしい思考法がすでに組み込まれているので、生徒たちは、役割を遂行するのがまともな生き方だと教えられてさえいれば、往々にしてかなり疎外されている役割でも気持ちよくこなしていける」(223-224)

→〈働くって、そういうものだ〉という認識があると、人は疎外されていることに気づかないことがある。社会の産業システムがもたらした冷却作用であるように思われる。

「不幸にして言わざるをえないのは、いくつかの現代[社会主義]社会の本質である厳格な統制は、マルクス主義の伝統のなかに見られる独特の力強さをもった分析とはほとんど関連がないという点である」(248)

「たいての場合学校は、〈標準的でない〉[社会的・文化的背景をもつ]生徒に知恵遅れというレッテルを貼るただひとつの機関だったという点である。それらの生徒も、いったん学校のそとへ出ればちゃんとやっていたのである」(259)
→ラベリング理論への言及。いまはこの機能を心理学などがやっているように思われる。

「権力はしばしば援助という形態や〈正統的知識〉という形態、すなわち中立的とみなされることによって自己正当化しているような知識形態をとってあらわれる。したがって権力は、自然さをよそおったかたちで不平等な体制を再生産し正当化する諸制度を通じて行使されている。実際にはこれらすべてが、教育のような援助的職業を補完する役割を担っている知識人たちによって更に正当化されている場合がある」(267)

「第二章および第三章で述べたように、学校教育の重要な潜在的機能のひとつは、さまざまな意識形態をしばしば極めて不平等な形で生徒に分配することであるといえよう。だから社会学的に言えば、それらの章で述べたような性向や観点を獲得することを通じて、生徒たちは先進企業社会の構造をいたるところで支えるさまざまな役割に振り分けられるわけである。レッテル貼りの過程はこの選別において微妙な、しかし重要な位置を占めている」(269-270)

「専門家は制度の要求の解決に貢献するため、技術的な助言やサービスを供給するよう期待されている。だが実際に受け入れられる議論の範囲や解答の種類は、管理機構が始めに何を〈問題〉として設定したかによってイデオロギー的に限界づけられている」(279)

「学校がさまざまな機能を遂行できるのは、技術的な統制と確実性の利益を体現した〈中立的な〉観点の使用と、経済的・文化的再生産への貢献とを結合させているためである」(288)

「ヤングとバーンスティンが再三強調しているように、教育の諸側面のイデオロギー的性格についてはこれまでも少しは着目されてきたが、教室でのやりとり、つまり日々の学校生活の形態や内容それ自体がイデオロギー的〈伝達〉を実現しているという点は、ごく最近までほとんど、あるいはまったく意識されていなかったのである」(294)

「この本全体をつうじて私は分配と再生産という語を使ってきた。これらの言葉は、文化的・経済的資本をもつ者の利益を最大化するように既存の制度の権力が自らを強化し、社会秩序とそれについてのわれわれの考え方を限定している、ということを暴く概念的な効果をもっている」(303)

「解放の基本的条件のひとつは、錯綜するすべての肯定面および否定面において制度の現実的機能を〈把握し〉、現行の規則性のもつ矛盾を明らかにし、最後に自発性・選択・より平等な統制様式などの可能性を他の人々が〈想い起こす〉のを助ける(また逆に他の人々にそのように助けてもらう)ことができることである」(308)

「〈教育内部での〉最も重要な姿勢のひとつとしては、生徒の権利(さらに教師や被抑圧者集団等の民主的権利)を護るという姿勢があるだろう」(309)

「カリキュラム学者は、今日の企業社会を席巻しているイデオロギーや制度を完全に容認してしまうような位置から一歩退く必要がある」(312)
→ウェーバーの言う客観性の基準をカリキュラム学の立場でやっていく必要を述べた宣言である。

「結論的に言えば、ここで私が主張しているのは、状況の再定義である。すなわち、中立の知識人という、それ自身イデオロギーを負った理念ではなく、ヘゲモニーに抗する闘争に実際に参加する〈有機的な〉知識人という概念を通してグラムシが求めていた情熱的関与を真剣に担おうとする知識人の理念を認識させるような、状況の再定義なのである」(313)

●訳者あとがき
本書の特徴の1点目「教育制度を文化的・経済的再生産装置としてとらえる視点がはっきり打ち出されている点をあげることができる。教育が生産者(労働者)の生産、すなわち再生産の重要な一環であることは、はやくからマルクス主義的見地の常識だった。しかし、その再生産メカニズムを具体的に実証する作業や、文化的な再生産装置としての機能の解明は、著者のいうネオ・マルクス主義の伝統を中心とする近年の理論的営為によってようやくその端緒が切りひらかれた段階と言えるだろう」(367)

●コメント

アップルは学校が一部の人びとにしか役立っておらず、後の者にとっては社会的不平等の再生産が成される場所・労働者のエートスを習得する場所になっていると指摘する。このことをカリキュラム研究の知見と「隠れたカリキュラム」を指摘することで明らかにしている。彼の後の書『教育と権力』ではこのほかに、大学という学術研究機関が国民の税金を援助としてもらい、資本家にしか役立たない研究を代行する機関となっている点の指摘もなされ

福島原発報道に思うこと。

 いま、福島原発のニュースでテレビはもちきりである。原発については一時、徹底的に本を読みこんだ時期がある。それは高校二年のときのディベート甲子園の頃。論題の「日本は原子力発電を廃止すべきである、是か非か」。その時あった資料(2004年当時)のどれもが原子力発電の危険を指摘するものばかり。現状維持の否定側(つまり、原発を「廃止すべきでない」立場)はほとんど勝ち目がない。チームメートと「どうやったら肯定側のいう〈原発の事故で死者が多数出る〉という主張を打ち砕けるか」真剣な議論をした(自分は途中で抜けてスタッフとして甲子園に参加した)。
 結局、そのときに出ていた否定側の有力資料は、政府や御用学者のいう「安全基準は万全だ」というようなものしかなかった。そのため、肯定側の主張をすべて批判し、ブレイクイーブンで勝つ、というのが否定側に当たった際の必勝パターンとして考えられていた。なお、ブレイクイーブンとは肯定‐否定双方の主張が成り立たない、ということ。その場合は「現状維持の否定側の勝ち」になる。私のいた学校は決勝戦で否定側が当たる(=つまり、原発を廃止するな、という立場)も、なんと優勝してしまうという快挙を成し遂げた。いまの時期にディベートするなら、まずありえない話である。
 まあ、あのとき感じていた原発維持側の資料に書かれていた内容は前提自体誤ったものであったことが可塑的に明らかになったわけだ(「格納容器」は丈夫というのは資料通りであったけれども)。
 今回のニュースを見て、御用学者にだけはならないと決めた。

Michael W. Apple (1982):浅沼茂・松下晴彦訳『教育と権力』、日本エディタースクール出版部、1992。

「ヘゲモニーとは、私たちのごく日常的な実践により構成されているものである。私たちが知っている社会的世界、すなわち、内在的カリキュラムや教授、評価といった教育制度の諸特徴が相互にかかわっているような世界を作りあげているのは、私たちの常識的な感覚や行為の集合全体なのである」(62)

「学校は再生産以上のことをしている。学校はまず権力集団の文化や知識の形態と内容を取り上げることにより、続いてその形態と内容を、保存され伝達されるべき正統な知識として規定づけることにより、文化的手段の特権を維持するのに役立っているのである」(65)
→バーンスティンの言語コード論を思い出す。

「要するに、先進資本主義国にはひとつの公教育制度があるというのではなく、実際には二つの制度が同時に存在するのである。それぞれの公教育制度は、学習者の社会的階級と経済的軌道に合わせて、異なった規範と価値、そして性向を教え込むのである」(69)

「国家は科学研究や労働力の教育や訓練のような事柄のコストを社会的に認めてしまうのである」(83)

「まさにこの労働文化が、単なる対応理論によって描かれた規範よりもかなり充実した別の規範の発展がありうることを示すのである。この規範が、労働者のレジスタンスのための場、技術や操業速度、知識の部分的なコントロールを可能にし、また生産部門の完全な細分化ではなく集産性を、そして経営者が要求する速度からの自立性を可能にする」(120)

・アップルは労働者論の一環として教員を例に出す。(139)

Willisが描いたようなラッズたちは「同じ学校で、生徒たちは、より徹底して別のことをする。すなわち、彼らは、学校の顕在的・潜在的カリキュラムを率直にはっきりと拒否するのである。数学や科学、歴史、職業教育等々を教えている教師は、可能な限り無視される。時間厳守、几帳面さ、従順といった、より経済に密着した規範や価値を明確に教えても、最大限に忘れ去られてしまうものなのである」(152)

「実際に生じているのは次のようなことであろう。すなわち、生徒を勇気づけ、また、学校によって描かれるイデオロギー的価値に反抗しうるような労働者階級のテーマと態度を生徒が学校の日常生活の中で発達させるのを、何かより進歩的設定が制約すると同時に促進しているという点である。抵抗や権威の転覆、システムの操作、気晴らしや楽しみの創造、学校の公式的活動に対抗するための非公式グループの形成など、これらすべては、管理者や教師が望むものとは正反対のものであるが、具体的には学校によって生み出されている。したがって、もし労働者が相互に交換可能で、仕事自体が画一的で一般化されており、職種による内容の差がないとすれば、学校はラッズが見通す目を養うのを可能にするという点で、重要な役割を果たしているということになる。しかしながら同時に、そこには、結局のところ、そのような労働者階級の若者を労働市場につなぎ止め、一般化した、標準的労働市場へと準備させることになるという意味で制約があるのも明らかである」(160-161)

「提唱されている改革を単に組織的な調整の中で考慮することのみならず、何が実際に教えられ、何が教えられていないかということも同様に重要である」(205)

「私の議論の多くは機械的な再生産理論に対する概念的・経験的批判であった」(261)

「多くの再生産論(アルチュセールがその最初の例であるが)の主たる概念的・政治的弱点のひとつは、「それらが、学校の子どもたちや教師のレジスタンスの能力を正当に評価していない」という点である。つまり、学校がジェンダーに関する諸関係、生産の社会関係を再生産するのに役立っているという点を把握するのは重要であるけれども、「「学校が関与していないと思われるところで」学校はまた、歴史的に特殊なレジスタンスの形態を再生産しているのである」。これらの諸点は明らかに私たちの学校論議にのみ限られるものではなく、職場や家庭などにもあてはまる」(263)

ピーター・ドライヤーを引いて
「教師は、生徒に対し、語る内容によっても、また語らない事柄によっても、生徒の仮定、価値、好みを形成するのを助長している」(275)

訳者解説
「労働者が、単なる手足として働かされるのではなく、自らの手足を自分の意思で動かすことのできるように、頭脳の部分を取り戻すために自治と団結を主張するのは、人間の権利として当然である。それと同じように、教育における合理主義とシステム志向に抗して、教師も教育実践の頭脳を取り戻す必要があるというのがアップルの主張である。(…)近代的な目的合理主義の枠組みが、アメリカの教育の現実をいかに惨めなものにしてきたかを示す証拠でもある」(340-341)

コメント
・全体的に言って、アップルは「学校」というのみで学校種をあまり問題としていない。これは「学校」全体に対する議論としては有効だが、個別の学校種に着目する場合、弱みになる可能性がある。
・P. Willisらを検討し、学校における生徒文化に着目した第4章は、「内職」を研究する者として興味深い内容だ。
・「抵抗」としての実践に注目するアップル。労働者としての教員像という観点から、本書5章において単純労働者化したアメリカの教員像を批判する。
・273ページなど、マルクス的すぎて違和感を覚える個所がある。また、まず主体の「抵抗」ありきで議論がなされている感がある。
・授業や教育への「抵抗」の形態をアップル(1982)やウィリス(1977:『ハマータウンの野郎ども』)は描くが、これらは授業を受けることの拒否であり、授業中に別の学習をするという「内職」形態は描かれていない。ここに注目することで自分の研究を立てられるのではないか。

言い訳

世の中、何かの言い訳が多い。
傘をさしても雨には濡れる。これは傘をさすということを言い訳として利用している。つまり「あの人は傘をささない馬鹿な人」と思われないようにするための言い訳なのである。

樫村愛子(2009):『臨床社会学ならこう考える 生き延びるための理論と実践』、青土社。

・恒常性/再帰性というキーワードについて。
「精神分析が示しているのは、再帰性そのものが恒常性に常に依存しているということであり、恒常性を食いつぶしてしまえば、再帰性そのものが破綻してしまう。(…)それゆえネオリベ批判において、精神分析が掲げる、恒常性の必要性ついての議論が欠かせない。しかし一方、再帰性はギデンズの言うように近代の条件であり、セラピーも再帰的主体の契約によって行われるものであるので、再帰性という問題圏は外すことはできない。恒常性の復活(藤本注 これが新保守主義など)や手直しのために再帰性がむやみに抑圧される方法はよいわけではない。(…)それゆえ、再帰性と恒常性の関係をどう構成していくかが重要な課題となる」(21-22)

「ドラッグは少し前まで若者にとってマイナーな存在であった。しかし現在のフランスでは若者に広く浸透している。2002年の調査では、17-18歳の若者全体の50.9%がcannabis(大麻)の経験がある。teuf(注 フランスのメディア社会学者ダニョが調査した、飲んで騒ぐという若者の文化の隠語)では、みんながいろいろな酒やドラッグを試していて、比較的(注 「に」を入れた方がいいと思われる)その特質を語るのが議論の大きなテーマとなっている」(218)

・1910年代のアメリカにおける「教育の現代化」改革について。
「学校は企業と比較され教育者は「組織人」とみなされる。「学級運営」という発想はここから生まれ「教育管理」は教育の効率性の評価のために評価の数値化を要請する。アメリカの心理学者たち(ビネー等)が知能テストや学力評価尺度を開発していったのはこのような歴史的背景のもとでである」(287)

「デューイ的公共哲学観に依拠するジルー(1992)は、公共性を他者に対する積極的な関与を意味するものと考えるが、ここでさらに現代的状況からいえば公共性は社会が個人化し社会が解体する時代において個人と社会の間の「mediation(媒介領域)」として設定することができるだろう。「mediation(媒介領域)」とはその中での自由なやりとりや思考錯誤を可能にするものであり、現実との関係をいったん留保しながらそれを考察し作っていく、先の幻想空間でもある」(294)

「文化がmediationの場となり社会的介入が個別的になされるような社会とは基本的に一定の水準以上の再帰的な個人(次に見る「人間資本」)を前提としているわけであり、その水準に満たない人々にはますます無意識的欲望の暴走とその困難が予想されるだろう」(301)

ボットと人工知能

 科学の夢は人工知能を持ったロボットである、という。意識を持ったロボットを作る上で重要なのは、あまり言われていない点であるが、人間が「これには意識がある」と認識するということである。意識とは客観的なものではない。ある人物によって意識の存在が事後的に確認されるのみである。
 ツイッターのボットには、本物の人間が書いていると錯覚することがある。このときこのボットは誰かによって意識があると認識されているわけだ。その意味ではすでに意識をもったろぼったが存在するということができる。
 この可能性を認めないことは恐ろしい結果を招く。誰かがツイッターでわけのわからないツイートをする(それは障がいゆえにそう書かざるを得ないのかもしれない)際、誰かが「これはボットだ」と認識する。このときツイートした人物の意識はないものとして扱われる。人間を非人間として扱う結果になるわけだ。
 ガーフィンケルらの『エスノメソドロジー』に「Kは精神病だ」という記事がある。あるKという人物が、友人の語りの中で精神病にさせられるプロセスを描いたものだ。精神病の社会的構築をいう意図のある論文だが、これと同様のことはツイッターをめぐる本稿の内容にもつながる内容であろう。

テキスト論で読む小説『エミール』

テキスト論で読む小説『エミール』

 ルソーの書いた教育小説『エミール』は、終始エミール少年の家庭教師の目線から書かれた物語である。これを一種の教育実践記録として読むとどのような読解が可能かを少し試みたい。
本書『エミール』では教員のみが語ることを許され、エミールの発言は教員によって記録されたもののみが残る。エミールには自由に発言することが許されなかった(発言してもどうせ教員の選んだ言葉・教員がきれいに解釈した言葉しか残らない)。小説内には掲載されていないだけで、実際のエミールは教員に相当反発をしていたのだと考えられる。小説『エミール』の世界では、教員が生殺与奪の権を持っている(窓ガラスを割ったエミールが凍える寸前までいくことからして、文字通りの意味を持つ)。教員の想定したルートを通らない限り、エミールは記録されることも物語ることもできない(消極教育を謳った小説『エミール』内の実践が、実は教員のこまかな計画のもとに行われていたとの指摘はかねてより多く存在する)。教員の教育計画上の予想通りに行かない場合、小説内では教員の失敗ではなく、エミール自身の失敗として処理される。
考えてみれば、小説『エミール』の成立する環境自身、異常なものである。エミールは田舎の一軒家に、両親から切り離され、尊敬を要求してくる教員と、二人だけの生活を幼少のころから押し付けられてきた。教員が幼児性愛者・同性愛者であった場合、エミールは記録されないが数知れない虐待を受けていた可能性が考えられる。教員が仮に変態性愛者であると考えた場合、小説『エミール』の持つ意味は変わってくる。エミールへの性的虐待の疑いをかけられた(実際に虐待しているかもしれないが)教員が、自分の正当化(言い訳)のためにエミールとの「関係」を美しく整理・記録・公刊した実践記録であった可能性が出て来るのだ。
ブルジョア家庭しか家庭教師を雇えない時代に、エミールは幼少時より家庭教師を付けられて育った。実家は相当な財力を持っているわけだ。しかし教員の教育の成果は、エミールを手工業者に変えただけであった。実家を継ぐという話も、「帝王学」を学ぶという話もいっさいなく、小説後半では両親・実家の姿が完全に消えていく。両親も実家も健在である場合、(a)エミールが教師にさらわれたと考えることも、(b)エミールが教員になつき実家を捨てたと考えることもできる。が、(a)・(b)両方とも我々の眼には不幸な出来事して読み取ることができる。家庭教師の自己認識的には最高の教育をおこなったはずであった。泥棒から貴族まで、教え子が望む生き方ができるようにする教育を、教員がエミールに与えたはずであった。その結果が自営業の手工業者とは、なんともお粗末な実践であったと言わざるを得ないのではないか。

実は『エミール』には続編が執筆されている。続編の『エミール』は教員ではなくエミール目線から書かれた書簡形式の小説である。恋人ソフィーとの苦い別れと教員への一応の感謝が述べられている。先ほどの実家との関係は、やはり文書として登場してこない。形式上、文書中ではエミールはこの書簡を出すかもしれないし、出さないかもしれないと留保して記録している。
この書簡をエミール少年自身が書いたと見る場合、①手紙を元教員に届け、元教員が公表したという見方と、②エミールは元教員に書簡を出さなかったが内容を公開した場合の2つのケースが想定される(読者の目に私的な書簡がさらされているということは、誰かが何らかの意図を持って公刊したというわけだ)。①の場合、書簡中の教員への賛辞は文字通りの意味をもつ。純粋にエミールは教員に感謝しているのだ。本書簡を読者が読めるのは当然①か②の手法によりどこかに公開されたためであるが、①の場合は教員の教育実践の最終的成功を暗示する内容になっている。
②の場合、話は逆になる。エミールは確かに教員に手紙を書いたのだが、教員に届けることを選らばなかった。教員への感謝の念も記された本書簡を届けたくはなかったのだ。けれど本書簡は公開され、読者は『ルソー全集』に収録されたものを目にすることができる。とすれば教員への感謝の念は本物ではなく、あくまで儀礼的に書いたものであるという読み方ができる。わざわざ本書簡を公開するということは、教員に届けるつもりではなく、形式的に書かれた教員への賛辞を世に示すことで結果的に家庭教師の教育実践の最終的失敗を示しているのである。エミールの復讐ともいえる。先に挙げたようにエミールが性的虐待を受けていた場合、教員への異議申し立ての意味合いがあったのだ。

補足

無論、これを矢野智司の「贈与」枠組みで説明することも可能であろう。「私」ことエミール自身が家庭教師の教育=贈与をあえて否定することで、自己の生き方を構築するという意志のあらわれを見てとることができるからだ(むしろ石原千秋の『こころ 大人になれなかった先生』の図式に近い)。

あるいは私はルソーの専門ではないのでわからないが、あまり有名でない『エミール』続編をルソーが実は公刊せず、手元に原稿として残っていたものを後世の研究者が整理して発刊したのかもしれない。その場合、積極的意図なしでエミールの書簡が公表されたという結果となる。その場合、①と②の図式が崩れてしまうことは言うまでもない。

授業中の内職の持つ意味 軽い考察

 Second bestとしての内職。授業中に「内職」によって学習を行うということは、自習室で学ぶよりも恐らく困難な行為であると考えられる。内職に関するアンケート調査より、教員に隠れて行われる内職が多く存在することが読み取れるためだ。人間の集中する能力から考えると、内職は一人で学習するよりも困難になる。
 しかし、内職は現になされている。教室から出て行き、別の場所で学習をする選択はあまり取られていない。それは内職という次善の策で納得/満足するようになっているからだ。竹内の図式で言うと縮小cooling-downになる。
 内職は自発的にやるものであると言うことは、アテネ(2001)に現れている。授業が自分に役に立たないと認識される場合、授業時間と授業空間を有効に活用するために生徒は内職を行う。これは自発的である分、自らが選択したことになり次善の策であっても納得をせざるを得なくなる。次善を選ぶという縮小作用は能動性が伴うからこそ冷却となるのである。なお、この図式は竹内洋が『選抜社会』で記録した内容でもある。納得の構造が内職において成立していると言える。
 生徒が内職を行っても、ゴフマンがいうように最低限の敬意を表していることは否めない。生徒にとってはあくまで授業を乗り越えるため・受験勉強を行うためという選択になるが、教員にとっても内職をされることで少なくとも教授行為自体は成立した構図が維持される。また、受験勉強を進めることになるため学校側も進学実績を入手することができる。内職は教員ー生徒双方に有効な戦略であったのである。