2010年 10月 の投稿一覧

フレイレ『自由のための文化行動』抜粋ノート

Freire, Paulo(1970):柿沼秀雄・大沢敏郎訳/補論『自由のための文化行動』、1984。

「第三世界の非植民地化によって切り拓かれた道、それは全人類の真の解放へ向かう道か、あるいはもっと巧妙に仕組まれた飼いならしへ向かう道か、ふたつにひとつしかない。したがってそれは、教育の意味と方法の再検討を迫っている状況なのである」(4頁)

「どんな教育も中立ではありえないということである。飼いならしのための教育か、自由のための教育か、このふたつがあるだけである。教育は、常識的には条件づけの過程と考えられているけれども、同時に条件を突破するための道具にもなりうる。教育がそのどちらになるか、最初の選択は教師の手に委ねられている」(6)

「私たちの行う選択が人間のためのものであるならば、教育とは、自由のための文化行動であるがゆえに、記憶行為ではなく、認識行為にほかならない。それを明らかにすることが、成人識字過程を論ずるこの本の根本目的のひとつである」(11)

「それゆえ、(構造の―訳者)内側で生きる存在になるのではなく、自己解放を遂げて人間になること、それこそがかれらの問題を解決することなのだ。なぜならば、その実かれらは、構造に対してマージナルな存在なのではなく、構造内部の被抑圧者だからである。疎外された人間であるかれらは、自分たちを従属させるにいたっている構造そのものに統合されることでは、その従属性を克服することができない」(18)

「根本的には、私が『被抑圧者の教育学』で指摘したように、被支配階級が支配者の生活様式を再生産するわけは、被支配者の内部に支配者が宿っていることにある。被支配者が支配者を放逐できるのは、支配者から距離をとって、みずからを客観化する場合だけである」(31)

「何よりもまず、人間を、世界のなかに、世界とともにある存在として批判的に捉えることから始めなければならない。意識化のための基本条件は、その行為者agentが主体、つまり意識的存在でなければならないということである。したがって意識化とは、教育と同様に、すぐれて人間的な過程なのである」(59)

「真の親交には、当然、世界によって媒介される人間と人間との交流communicationが含まれている。意識化を実現可能なプロジェクトにするのは、唯一親交という脈絡のなかにすえられた実践だけである。意識化は協同の事業である。それは、この協同の事業に取り組む他者のなかにいるひとりの人間の内に、つまり自分たちの行動によって、またその行動と世界に対する省察とによって結ばれた人びとのなかで生きるひとりの人間の内に生起するものである」(105−106)

次はイリイチへの批判とも察せられる内容である。
「人間は、未完成の、そして未完成であることを意識している歴史的存在である。だからこそ革命は、教育がそうであるのと同様に、人間の自然で永続的な次元なのである。教育はある時点に至ればなくなってよいのだとか、革命は権力を握ればそれでおしまいにしてよいのだ、などと考える者がいるとすれば、それは機械的心性の持主だけである。革命は、それが真正であるためには、永続的な出来事でなければならない。そうでない場合、革命は、革命であることを止めて硬直した官僚制に変質するだろう」(117)
→永続革命としての教育である。つねに自身がドクサにとらわれいないかに自明的である必要がある。

(訳者あとがき)「フレイレの方法が日本における生活綴方の教育方法と実によく似ていることに気づかされる。書くということに執着したこの教育方法が、子どもを取り巻く生活現実に取材し、書き、書いたものを読み、討論する主体をあくまで子ども自身にすえた、という点でも、フレイレの認識主体論と共通している」(189)

(訳者あとがき)「識字とはたんなる文字言語の習得ではない。それは、ことばあるいはみずからの表現を奪われて〈沈黙の文化〉の淵におとしめられている人間たちが、他者や物・事との親しい交わりのなかで、みずからのことばと表現を奪い返し、沈黙を強いる抑圧的な現実世界の深層に潜む文法を読み取って、その現実を変革する批判的主体にみずからを形成していく〈意識化〉の文化過程を指すものである」(191)

フレイレ『希望の教育学』

Freire, Paulo(1992):里見実訳『希望の教育学』、太郎次郎社、2001。

 ブラジルの教育学者パウロ・フレイレ(1921-1997)。彼は対話による教育を生涯実践し続けた人物である。代表する著作は『被抑圧者の教育学』であり、晩年の著『希望の教育学』はフレイレ自身が『被抑圧者の教育学』を読み直したものとなっている。読んでいて気付くのは社会変革につながる識字教育と文化サークルでの対話の実践であり、教育と研究が2つに切り分けられることなく営まれることを提唱する内容となっている。マルクスを土台に理論を立てているのにもかかわらず、フレイレがいわゆる「マルクス主義者」から批判を受けていた理由もよくわかる。いわゆる「マルクス主義者」にとって、マルクスやレーニンの発想がアルファでありオメガである。そこには現実に存在する「民衆」の声を聞く必要性はなく、〈自分たちが民衆を引っ張って革命を導くのだ〉という傲慢な思いが表れている。フレイレの行動は人々との対話のなかにあった。それが「マルクス主義者」とフレイレの実践の大きな違いとなっている。
 本書において、フレイレは対話による学び(里見の訳では「問題化型学習」となっている)の重要性を何度も訴える。

「もし他人もまた考えるのでなければ、ほんとうに私が考えているとはいえない。端的にいえば、私は他人をとおしてしか考えることができないし、他人に向かって、そして他人なしには思考することができないのだ」(163-164)

 この対話を成立させるには、条件整備が必要である。

「教師の専横下で対話が成立しないように、自由放任主義の下でもやはり対話は成立しない。対話的な関係は、しばしばそう考えられているように、教える行為を不可能にするものではない。逆だ。それは教える行為を基礎づけ、それをより完全なものにし、また、それと関連するもう一つの行為、学ぶという行為にも刻印されることになるのだ」(164)

 本書ではフレイレとよく比較されるイリイチとの違いが明確になる箇所がある(そもそも本書冒頭の謝辞の欄には多くの人名を挙げて自らの思想形成の感謝を述べているが、そこにイリイチの名は無い。また本書においてイリイチの思想が直接に言及される箇所はなく、ただ文章の流れの中でのみ数か所イリイチの名が挙げられている)。

「どの時間と空間にも立地しない、抽象的で不可侵な観念だけをとりあつかう中立的な教育実践などというものは、かつて存在したことはなかったし、いまも存在しない」(108)

 フレイレは教育を一つの権力であると認めている。どんな教育実践にもイデオロギーが含まれている(例えば、「やる気のない授業をする」と認識される教員は、「学校で一生懸命やるなんて馬鹿げている」というイデオロギーを提示することになる)。フレイレに対して多く寄せられた批判である「教育実践は中立的であるべきだ」との意見に応えたものとなっている。

「基本的にいえば、ぼくにたいしてなされるこの種の批判は、意識化という概念にたいする誤解と、教育実践にたいするあまりにも甘いビジョンに由来するものだ。それは教育実践をあたかも中立たりうるもの、人類の福祉への貢献とみなすばかりで、危険をおかすことなしには実践しえないという点にこそ、教育実践のとりえがあるということが、まるで見えていないのだ」(108)

 イリイチも、教育は権力であると認識する(山本哲士はさらに進んで、教育は政治であると指摘する。『教育の政治 子どもの国家』を参照のこと)。違うのはその認識後のふるまいである。教育は権力だ。そのため教育というものは放棄しなければならない、といったのがイリイチである。一方、フレイレは〈教育は権力性を逃れられない。だからこそその権力性を自覚したうえで人々の解放につながる教育実践をすべきだ〉と主張したのである(この対立が明確に表れているのが『対話 教育を超えて』である)。

異界との出会いとカイヨワ

 異界に出会うことで、生の豊穣さに気づくことができる。映画『となりのトトロ』の面白さは「子どものときにだけ/あなたに訪れる/素敵」な異界(=トトロ、ネコバスetc.)との「出会い」を再度おこなえる点にある。純粋に考えれば、メイ・サツキ姉妹とトトロたちの間に言語的コミュニケーションは成立してはいない(そもそも「トトロ」という名付けはメイによって恣意的になされたものであり、トトロ自体は一度も名乗りをしていない)。言語における相互行為のできない「他者」である。けれど、明らかに人間ではない(=文字通りの「異者」)存在と非言語的コミュニケーションが映画においては成立している様を観客は目にしている(空を飛ぶこと、ネコバスに乗ることを示唆することetc.)。ここから、子どもの自己形成空間(あるいは時間)において異界(あるいは他者との出会い)が重要な意義をもっている点を読み取ることができる。
 異界との出会いは常に日常性を超えた非日常の文脈で語られる。これはハレ―ケ(あるいは聖—俗)の二項図式を超えた、「聖—俗—遊」というR・カイヨワの図式と重なる。子どもが非日常性あふれる異界と出会うのは「遊」の文脈なのである(実際、『となりのトトロ』ではトトロたちと姉妹は何度も遊びを行う)。生産性や効率性を度外視し、遊びたいが故に遊ぶ子どもの姿。ここに神(あるいは仏)を見たのが『梁塵秘抄』の編者や江戸の歌人・良寛であった。「遊」は「聖」に通じるのだ。まさにホモ=ルーデンスたる子どもの面目躍如である。
 カイヨワの図式にある「遊」については、浅田彰などによってスキゾ・キッズ的生を肯定するものとして描かれた。当時、無限に拡散し直線的成長・拡大モデルを拒否するリゾーム構造に基づくスキゾフレニー(元は分裂病との意味)型の生がもてはやされたのだ。これらは80年代の消費社会論やバブルの終焉とともに忘れ去られていった。しかし、現象学的知見にはスキゾ・キッズの生き方を再肯定する可能性が込められているように見える。

大学生のシャドウ・ワークとそれ以外のシャドウ・ワークの違い

 『シャドウ・ワーク』のなかでイリイチは言う。
「現代社会での労働のいくつかの形は、最初は支払われないもののようにみえても、最終的には金銭的評価で高い報酬となる。大学の学習は往々にしてよい例である。(…)一般には、大学卒業の人間の生涯所得のほうが、卒業しなかった彼の兄弟、姉妹たちの所得よりもはるかに高いだろう」(265頁)。
 この人的資本論的認識のために、大学生は「専業主婦、中等学校の生徒、パートタイムの通勤者といった本物の〈シャドウ・ワーカーズ〉にあてはまるものではない」(266頁)シャドウ・ワーカーなのである。つまり、大学生はいま自分たちが大学で単位獲得のために行うシャドウ・ワークこそが将来「大卒」として得られる所得につながると認識している。例として挙がった「専業主婦、中等学校の生徒、パートタイムの通勤者」たちと違う点である。大学生が単位獲得のために行うシャドウ・ワークは、将来において給与が支払われることを見越したworkなのである。
 では、大学生と違う「専業主婦、中等学校の生徒、パートタイムの通勤者」たちのシャドウ・ワークにはどのような意味が込められているのか。スウェーデンにおいて主婦の一部に賃金が支払われるようになったことをイリイチは指摘するが、まさにそのことによって「スウェーデンは、社会的なサーヴィスにおける訓練された〈シャドウ・ワーカーズ(奉仕家)〉を雇用する試みに、新しい世界を導いているようだ」(267)と皮肉を述べる。「これは、社会的部門における〈シャドウ・ワーク〉を賃労働より一層早く増加させる計画である」と続けている。
 この部分を理解するには、『生きる意味』・『生きる希望』に登場する「善きサマリア人」の寓話を持ってくる必要があるだろう。個別性(ホスピタリティ的行為)が失われ、画一的サービスが行われるようになることへの指摘である。専業主婦の家事労働に政府が賃金を出す。これは社会サービスの一部に専業主婦が吸収されたことでもある。行政の社会サービスの代理人として「訓練された〈シャドウ・ワーカーズ(奉仕家)〉」が要求されるゆえんなのだ。このことはイリイチのいう自助(selfhelp)でもある。専門家たちが作った制度に人々が従わされる「価値の制度化」の状態において、人々は専門家のいうがままに行為を行うようになる。「素人、言い換えると客を自分たち(藤本注 ここでは専門家のこと)の監視のもとに無報酬で働く助手として引き入れようと躍起になっている」(12頁)のだ。「こうした自助の術策によって、産業化社会の基本的分岐が家庭の内部に投影されている」(ibid)。
 まとめると、大学生は将来の稼ぎを見越して〈シャドウ・ワーク〉的学習を行う傾向があるのに対し、それ以外の人びとのシャドウ・ワークは専門家の作り出す制度につき従わされ、自助としてのシャドウ・ワークを行わされているということである。現代社会では、一コンピュータ企業の作り出すワードプロフェッサ・ソフトである「MSワード」や「パワーポイント」の操作法を学校でもパソコン教室でも学習させられる状況を例として提示することができる。人々は「MSワード」や「パワーポイント」を自在に活用できるようになることを期待されるのだ。企業にとっては顧客を会社の活動を支える助手であるかのように動かせるのである。その意味で「自助」としてのシャドウ・ワークを行っていると認識することができる。

映画『シングルマン』(2009)〜『こころ』との対比、あるいは死の贈与論〜

 夏目漱石の『こころ』を同性愛小説として読むよみ方がある。まず「私」と「先生」が出会う場面は鎌倉の海水浴場。「私」は「先生」の泳ぐ姿に着目し、「先生」が着替えるところを絶えず見つめている。個人的に私淑する「私」は「先生」の家に行き、恋愛論等を尋ねていく。始めは戸惑っている「先生」も、ついには自分の生き様を手紙の形で克明に描いて「私」に送り、自殺をするところで本作は終る。矢野智司の『贈与と交換の教育学』にもあるが、「先生」を敬愛する「私」は「先生」の死という贈与を、いわば突然受けたわけだ。「私」は残りの半生において反対給付をする義務を負ってしまう。石原千秋『こころ 大人になれなかった先生』にあるように、「私」は《誰にも見せないでください》「先生」が書き残した手紙の内容を、小説の形で表すことで「先生」を超えること―大人になること―を志向した。これが「私」が「先生」に大して為す反対給付としても見ることができるだろう。

 思わず『こころ』論を書いてしまったが、私が昨日見た『シングルマン』(トム・フォード監督)は『こころ』と同じ構成をとっていることが分かる。『シングルマン』の主人公は大学の文学教授。ゲイのパートナーの突然の事故死から立ち直れない(書きそびれたが、本映画ではこの教授自身がパートナーの死という贈与を受け、その反対給付の仕方に戸惑う姿が描かれている)。ピストルに銃弾を詰め、自殺を志すもいろんな邪魔が入って結局死ねずにいる。ラストの場面で、この教授は教え子である男子学生との束の間の相互作用(これがゲイであることのカミングアウトでもあるが、性行為にいたらないのがミソである)の中で生きる意欲を得る。『こころ』の「先生」は親友Kの自死から立ち直れない(文学論によっては「先生」と「K」との間でも同性愛関係があったのでないか、との指摘もある)。そんな折、自分を私淑する「私」という大学生との出会いが、「先生」の日々に明るさを与える。
 両作で違うのは視点である。『こころ』では教え子(=弟子)の視点(ただし、最終章は「先生」からの視点)で描写されるのに対し『シングルマン』は終止「先生」の側からの描写なのである。
 『シングルマン』のラストは実に切ない。「先生が心配だ」という、自分を心配し必要とする他者の存在に気づいた教授は、家の窓を開ける。フクロウが飛び立つ夜空に満月が浮かぶ。教授の感情描写的に爽快な場面だ。ピストルは引き出しにしまい、硬く鍵をかける。人生の有意味性を教え子から学んだのだ。けれど、突然の心臓発作のせいで教授は死んでしまう。

 両作のポイントは、師弟関係にともなう同性愛的気質である。師匠と弟子が親密な関係性を持っているとき、その関係性は容易にプラトニックな愛、あるいは肉体的な愛に転化する可能性がある。そういう「危険性」を意識しても、どうしても師匠から学びたいという切実さが、師弟関係を支える要因なのである。たとえどうなろうとも、この人から学びたいのだ! そんな「熱い」思いを持つ弟子のみが、師匠から多くを学び、師匠から贈与(むろん、師匠の死だけではない)を受けることができる。だいたいにおいて、師匠は弟子より年長であるため、自殺でなくとも弟子は師匠の「死」という贈与をどこかで受けなければならないのだ。その贈与に対し、弟子はかならずその贈与を受けなければならない。その上で、その贈与に対する反対給付を為す必要がある。でなければ師匠の死は無駄な贈与になってしまう(つまり贈与しようとしても誰も贈与を受けてくれなかったわけだ)。
 『シングルマン』の弟子こと男子学生は、映画中では心臓発作で死んだ教授の死の「贈与」をどのように受け止めたか、全く描かれていない。しかし、想像は容易である。ゲイと噂される教授の家で、男子学生が泊まった。その日、教授が心臓発作。タブロイド紙の記者でなくとも、男子学生が教授の新たなパートナーであると噂されるのは必然であろう(もしくは教授は腹上死したのではないかと勝手に思われる)。この際、男子学生は自分の秘密(=ゲイであるということ)を打ち明ける必要性が出てきてしまう。ゲイであることを否定するのか、それともカミングアウトするのか。どうなるかは分からないが、おそらくは後者の選択をするだろう。映画『シングルマン』自体が、監督(トム・フォード)の生き方をさらけ出すと言うカミングアウト映画という側面を持っている。男子学生が教授の死の贈与に反対給付するための第一歩は、ゲイである自分を認め、周囲にもその理解を求める戦いをすることなのだ。教授の授業シーンでも、マイノリティの迫害について教授が「熱く」語るのが印象的だ。

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