2010年 6月 の投稿一覧

フロム『悪について』

フロムの著書『悪について』で提示された概念を整理する。

(1)サディズムの実態について
「サディズムの目標は人間を物体に、生物を無生物に変えることであると言えばよい。なぜなら完全絶対の統御によって、生物は生の本質である自由を失うからである」(Fromm 1964:31頁)。ここから考えると、フレイレの『被抑圧者の教育』に出てくる預金型教育は生徒を客体(つまり、モノ)として扱っているためサディズムに基づく行為といえる。生徒はあくまで知識を入れられる器なのだから。

(2)ネクロフィリアとバイオフィリア
ネクロフィリアとは「死を愛好する」という意味(同:40頁)。ネクロフィリアに基づく人間観について、フロムは次の例をあげる。「スポーツ・カー、テレビ、ラジオのセット、宇宙旅行のほうが、女や恋や自然や食物よりも興味があり、生よりも生のない機械的なものを取扱うことに刺激される男性が、実に多いことは明らかである」・「かれは車を見るような眼で女を見る」(68頁)。オタク系の恋愛ゲームやアダルトソフトを好む衝動は、まさにネクロフィリアな態度である。メイド喫茶や妹喫茶も、きまりきった関係を要求する意味でネクロフィリアな場である。
ネクロフィリアに対立する概念はバイオフィリアである。「生を愛好する」というのが元の意味である。「《バイオフィリアの倫理》は、それ自身善と悪の原理をもつ。善は生に寄与するものすべてであり、悪は死に寄与するものすべてである。善は生を尊ぶことであり、生、生長、展開を促進するすべてのものをいう。悪は生を窒息させ、矮小にし、寸断するすべてである。喜びは美徳であり、悲しみは罪である」(52頁)。イバン・イリイチが人間性の回復を訴えていたととらえているが、この「人間性の回復」という見方は「善」なのである。

(3)教育における、バイオフィリアの必要性
「子供の場合、生の愛好の発達に最も重要な条件は、その子供が生を愛好する人びとと共に在るということである。生を愛好することは、死を愛好することと同じように伝染しやすい」(58頁)
ここから、子どもの教育におけるバイオフィリアの必要性が読み取れる。いきいきとした人間的関係の中での教育こそ必要なのだ。教室が預金型教育の場になっているのであれば、それはネクロフィリアの環境になっている。「生を愛好する」バイオフィリアな環境(ちょうどイリイチのいうconvivialな場でもある)を、教育の中で増やしていく必要がある。
ニンテンドーDSから学習ソフトが出るなど、CAIをめぐる環境は発展を続けている。知識習得型の学びであればCAI機器やテキスト・問題集の自習で構わないという意見もあるが、この学習の仕方はネクロフィリアに基づく教育観である。学校という場は多様な他者と交流をする場であるとの考え方があるが(佐藤学の「学びの共同体」など)、この発想はバイオフィリアの場所としての学校再考の姿勢である。

(4)ネクロフィリア・バイオフィリア概念の意義
 よく教育者は「人間的関係」や「人間性」といった言葉で現状の公教育批判を行う。この場合、抽象度が高い議論となってしまう。「人間性」とは何か、イメージできないからだ。この「人間性」という言葉を、プラス面・マイナス面の二項対立図式から描いてくれるのが、フロムのいうネクロフィリア・バイオフィリアの図式である。この図式を用いれば、教育環境について「人間性」という言葉を使わずに議論をすることが可能になる。

(5)フロムへの疑問
 『悪について』において、悲しみは悪であるとフロムは語るが、人間にはある程度の「悪」が必要な側面がある。絶望や失望、悲しみ。なるべく経験したくはない感情であるが、これらを体験するからこそ人間性が深まるという働きも存在する。であるならば、一方的に「悪」といって済む問題ではなく、もう一歩考察を深め、人間には悪も必要なのだとの結論に持っていくべきであったと言える。

参考文献
Fromm, Erich(1964):鈴木重吉訳『悪について』、紀伊国屋書店、1965。

メディアの重要性

 第三者的メディアによって、人は一対一関係に耐えることが出来る。
 たとえば男女は「性」を媒介にしているからつながっていられるのであり、読書会も家族も、対象とする本や家を媒介にしてつながっているのである。吉本隆明のいう共同幻想である。吉本は一対一関係(特に男女間)は対幻想と説明しているのであるが。
 恋愛が「学校」によってはじまる学園ドラマも、学校空間・学校的時間を媒介(=メディア)としてつながっている。何のメディアもなく、一対一の実存的関わりを持つことは難しい。趣味の話や最近のスポーツをネタに(ワールドカップは格好の会話メディアになる)しなければ、人は一対一の関係に耐えることはできない。齊藤孝は偏愛マップなるものを用意し、各人の好きなものを明らかにしたうえで会話をすると話が盛り上がる、と語っているが(『友だちいないと不安だ症候群につける薬』など)これこそ一対一関係に耐える方法である。
 カー・ドライブを二人で行く時、会話なしで走ることは可能だが、わびしさや居心地の悪さを感じる(映画『レインマン』で、スザンナが恋人チャーリーに「何も話さないなんて、一人で旅行してるみたい」と訴えるシーンがある)。だからドライバーは「地図を読んでもらう」ことやカーステレオをつけて音楽メディアを媒介に助手席にいる人間と空間・時間を共有しようとする。

早稲田教会のポスター

毎度まいどのことながら、早稲田教会のポスターは面白い。

…次回はお休みなのかな?

贈与論とシャドウ・ワーク論から読み解く「内職」現象

●贈与論の観点から「内職」を読み解く

1、内田樹『下流志向』から読み解く内職現象。

 授業の場は、教員と生徒間の相互行為の場である。特に高校において一斉授業を教員がとる場合、生徒に要求されるのは静かに席に着き、話をひたすら聞くという受動的モデルである。静寂モデルでもある。生徒が声を発しても構わないのはわずかに質問するとき/されたときと、「Speak after me」と英語の教師が要求した時のみである。
 が、この古典的生徒モデルの成立するケースはずいぶんと減ってきた。授業を「聴く」姿勢が高校においても消滅し、立ち歩き・私語・「ケータイ」利用・化粧・睡眠が行われる空間となることが多くなった。この場合、生徒と教員間で相互行為は成立していると言えるのであろうか? 教員のモノローグが、生徒に聴かれないまま空しく授業が続くように見えるとき、相互行為はなされているのだろうか。
 内田樹は「成立している」と答える。教員の授業に対し、生徒は「不快貨幣」を用いての「等価交換」を行っているのだと内田は語る。

五十分間の授業を黙って耐えて聴くという作業は子どもたちにとっては「苦役」です。彼らはその苦役がもたらす「不快」を「貨幣」に読み換えて、教師が提供する教育サービスと等価交換しようとする。
 学校において、子どもたちが交換の場に差し出すことのできる貨幣はそれしかないからです。彼らは学校に不快に耐えるためにやってくる。教育サービスは彼らの不快と引き換えに提供されるものとして観念されている」(内田樹『下流志向』講談社、2007年、48頁)

 授業中のだらけた雰囲気、「内職」や「遊び」の溢れる教室。これは生徒が「『不快という貨幣』を最高の交換レートで『教育商品』と交換しようとする」(同)ためにあえて行う行為であると内田は語る。

例えば、五十分間授業を聴くという不快の対価として、そこで差し出される教育サービスが質・量ともに「見合わない」と判断すれば、「値切り」を行うことになります。仮に、その授業の価値が「十分間の集中」と等価であると判断されると、五十分の授業のうち十分程度だけは教師に対して視線を向け、授業内容をノートに書く。そして、残りの四十分間分の「不快」はこの教育サービスに対する対価としては「支払うべきではない」ものですから、その時間は、隣の席の生徒と私語をしたり、ゲームで遊んだり、マンガを読んだり、立ち歩いたり、あるいは居眠りをしたり、消費者である子どもにとって「不快でない」と見なされる行為に充当される。(内田2007:48−49頁)

 つまらない学校の授業を、自分たちは受けなければならない。そんな状況ならば必要最小限だけ教員に「つきあって」、あとは自分のために時間を使う。そんな形で授業の「再構成」を生徒たちは半ば無意識的に行っている。

2、マルセル・モース『贈与論』から読み解く内職現象。

 内田の発想は、『贈与論』の影響を受けているように思える。それは、生徒の側の授業中の「遊び」やだらけ、「内職」を教員の行う「教育サービス」に対する「交換」として行っていると示している点である(正確にいえば「交換」というよりも「反対給付」である)。
 モースは『贈与論』のなかで、「未開社会」における食物の分配や首長への贈り物をする行為について、以下のようにまとめている。

結局、こうした贈与は自由ではないし実際に無私無欲でもないのである。その大部分は反対給付であり、奉仕や物に対する支払いのためだけではなく、利益になる協同関係を維持するためにも行われる。(Mauss1925:274頁)

 贈与の説明としてモースは全体的給付という概念を用いる。

全体的給付は、受け取った贈り物にお返しをする義務を含んでいるだけでなく、一方で贈り物を与える義務と他方で贈り物を受け取る義務という二つの重要な義務を想定しているからである。(Mauss 1925:38頁)

 この全体的給付に代表される贈与行為は、未開部族に見られるだけでなく、先進国社会にも見られる要素であるというのが『贈与論』のテーマであった。授業も、同じ贈与の発想で考察することができる。
 
3、シャドウ・ワーク論から読み解く「内職」

 イリイチは学校の授業が生徒の側のシャドウ・ワークによって成立していることを述べた。「賃労働を補完するこの労働を、私は〈シャドウ・ワーク〉と呼ぶ。これには、女性が家やアパートで行う大部分の家事、買い物に関係する諸活動、家で学生たちがやたらにつめこむ試験勉強、通勤に費やされる骨折りなどが含まれる」(Illich 1981:207-208頁)。賃労働には給料が発生するが、シャドウ・ワークは無償の行為であり、おまけにシャドウ・ワークの担い手が逆にお金を出すことで経済社会を支えることになる。具体的な例でいえば、消費者は企業の新製品を受動的に受け取るという意味のシャドウ・ワークを行っているといえる。これが学校においては教員の一方的な授業を黙って受け取るという行為がシャドウ・ワークとなる。
 「賃労働にとって人は選択されるが、一方〈シャドウ・ワーク〉の場合は、人はそのなかに置かれる。時間、労苦、さらに尊厳の喪失が、支払われることなく強要される。けれども、よりいっそう経済成長をすすめるためには、〈シャドウ・ワーク〉の支払われることのない自己開発が、ますます賃労働よりも重要なものになってくる」(同:209頁)。教員によってなされる教育サービスは、生徒のシャドウ・ワークによって支えられているのだ。イリイチ思想の研究者でもある山本哲士は次のようにシャドウ・ワークを解説する。

隠れた支払われない労働がある、それはサービス労働の裏側に構成されている、たとえば教師のサービス労働にたいして生徒の消費ワークがある、(…)これらは「させられている」行為、他律行為の働きかけによってなされている受け身的な消費行動になっている。このインダストリアルなサービス商品を消費していると考えられてきたものを、隠れたシャドウのワークであると切り替えたのだ。つまり、産業的な価値を産み出しているワークである、消費ではなく生産であるという切り替えである。(山本 2009:238頁)

教育サービスの受け手である生徒の側が、サービスを受動的に消費する。これをシャドウ・ワークとして位置づけたのがイリイチである。
 この生徒の行うシャドウ・ワークは、モースの『贈与論』をもとにして説明することができる。教育サービスの受け手である生徒は何もなさないわけではなく、贈与に対する何らかの反対給付を行っている。そうでなければ生徒は現状以上に教員に従属する地位に追いやられてしまう。「受け取って何のお返しもしないこと、もしくは受け取ったよりも多くのお返しをしないことが示すのは、従属することであり、被保護者や召使いになることであり、地位が低くなること、より下の方に落ちること」(Mauss 1925:276頁)になるのだ。それゆえ生徒は反対給付として「内職」や「遊び」・居眠りを行う。内田のいう「不快貨幣」も、授業という贈与行為に対する反対給付の説明として読み解くことが可能であろう。

4、まとめ 「内職」シャドウ・ワークの存在理由

 退屈な授業を「黙って耐えて聴くという作業」。その際の「『不快』を『貨幣』に読み換えて、教師が提供する教育サービスと等価交換しようとする」行為についてをここまで考察してきた。「内職」など生徒が授業中に行う行為は、シャドウ・ワークであるといえる。授業を聴く以外にシャドウ・ワークが行われることで、教員はかろうじて授業を最後まで行うことができる。それは、聴いてもつまらない授業がおおっぴらに拒否されるわけではないためだ。「内職」も「遊び」も睡眠も、退屈な授業に何とか耐えるための「知恵」であるという側面であることを意識したい。
 教員の教員たる所以は授業を為すことである。これは文科省の学習指導要領に底流するテーゼである。退屈な授業を教員が為してしまうとき、生徒はおおっぴらに拒否をする(授業ボイコットなど)ことが可能ではある。それが大きな形で現れたのが戦後の大学紛争であった。けれど、殆どの場合は生徒の行うシャドウ・ワークによって教員の授業は「耐える」ことが可能なものと再編成される。生徒の「内職」を注意する教員は多いが(アンケート調査においても、教員に注意されるのが嫌だからこそ内職しない、という回答が多い)、その教員の存在基盤を生徒のシャドウ・ワークが支えていることには無自覚である。
 つまり、「内職」など生徒が授業中になすシャドウ・ワークは、教員の行う教育サービスを底支えしていると言えるのである。

参考文献

Illich, Ivan(1971):東洋・小澤周三訳『脱学校の社会』、東京創元社、1977。
Illich, Ivan(1981):玉野井芳郎・栗原涁訳『シャドウ・ワーク』、岩波現代文庫、2006。
Mauss, Marcel(1925):『贈与論』、吉田禎吾・江川純一訳『贈与論』、ちくま学芸文庫、2009。
内田樹(2007):『下流志向』、講談社。
山本哲士(2009):『イバン・イリイチ』文化科学高等研究院出版局。

深夜バス車内での思索

(この文章は、5月末に富山県に行く際の深夜バスで書いたものである)

 新宿から深夜バスに乗り、桶川サービスエリアについた。ベンチに座り、あたりを見つめつつボーっとする。
 物憂げな時間の過ごし方。これが好きだから私は一人で深夜バスに乗るのだろう。眠れない時間も、一人になるために必要なのだ。たまには「誰でもない自分」である異邦人(マレビト)になるのも楽しい。
 学部時代、週一回のペースで高校の寮の宿直に行っていた関係で、「ふらっと/どこかに泊まりに行く」のには慣れている(荷物も、「何をもっていくか」大体分かるようになった)。
 眠れない時間、人は何かを考える。自分の過去の思い出、将来の希望等など。ひょっとすると、現実の世界に起きている全てのことは、眠れない時間に人々が思い描いた願望によって成立しているのではないか、と考えることもある。思えば、私が初めて書いた「小説」も、深夜バスに揺られながら書いたものであった。
 深夜バスを嫌う人は多い。「仕方なく」「安いから」乗る人ばかりだ。しかし私はそうではない。深夜バスで眠れない時間も楽しめるような人間だけが、深夜バスの醍醐味を知っているのだ。
 周りがすっかり寝静まっている車内で、一人i-podで音楽を聴きつつボーっとする。「誰でもない私」になれる時間だ。都市的生活をしていると、びっくりするほど「ボーっとする」ことが少ないように思う(だって電車でもエレベーターでも僕は文庫本を開いてるし)。

 こう思うと、「私」というものは本当に連続しているものなのか、不安になる。
 院生としての私は、いまバス車中で揺られつつペンを動かす私と同一人物なのだろうか? 近代法体系は「そりゃそうだ」という。そうでないと「借金したのは昔の俺であって、今の俺が借りたわけじゃない」という言い訳が横行することになる。
 おそらく他人も多様なように、「私」という存在も多様なのだろう(私という存在には4つの側面があるらしいことを心理学専修の人に聞いた)。いま存在する私も「私」だが、「未見の我」としての私も必ずある。「私」をめぐる冒険は果てしない。

 眠れない辛さを感じるのも、旅の楽しみの一つである。
 人生は旅だ、というのなら、旅先で感じるような「辛さ」(この場合は眠れないという現象)を知るのも楽しみの一つである。辛さすらも楽しめるのがプロの旅人なら、辛さですら楽しめるのが人生のプロなのだ。
 よく考えると、死に向かう旅も、遠くへと向かう旅の一つである。人が旅に出るのも、死に向かうための練習なのだ。哲学は「よい死」を迎えるために行うものだと言われる。ならば旅に出るのも哲学のひとつなのだ。プラトン自身、数年アカデメイアを抜けて旅に出ていたし。

 …こんな事柄を綴れているのも、400円のA5リングノートがあるからであり、150円のジェットストリームと僅かな日本語リテラシー能力があるためだ。ほんの少し「知的」になるための投資はほんの少しでいいのだ。